第二十三話 恩義の実り
一
竹千代はふと、先だって生垣越しに覗き見ていた彦太の顔を思い出した。あの日は「何の型か」と問われても曖昧に濁し、ろくに説明もせぬまま帰してしまっていた。それきりになっているのが、なんだか気にかかる。
とはいえ、彦太ならば口も堅かろう。むしろきちんと見せておけば、あれこれ憶測を呼ぶこともあるまい。竹千代はそう判断し、翌日、手習い所での指導を終えた帰り道、彦太を裏庭へと誘った。「彦太、先だっての一件じゃ。あの型、少し見せてやろう」
彦太は目を輝かせ、「まことにございますか!」と声を弾ませた。竹千代は伊之助の短剣を懐から取り出し、彦太の前で静かに構えを取った。
夕暮れの淡い光の中、竹千代はゆるやかに型を始めた。摺り足、捻り、崩し。これまで積み重ねてきた流水無形の理を土台にしながら、両手の短剣が交互に、時に呼応するように弧を描いていく。速度が徐々に上がるにつれ、動きはますます滑らかに、そして美しく変じていった。軟体術による大きな体の反りも織り交ぜ、まるで舞台の上で舞を披露するかのような、優雅な一連の流れを見せる。
型を終え、竹千代が短剣を下ろすと、彦太はしばし呆けたように口を開けたまま、何も言えずにいた。「彦太、いかがであった。正直な感想を聞かせてくれ」
彦太は我に返ったように、勢い込んで喋り始めた。「若様……! あれは、まるで、祭りの舞台で見る舞人のようでございました! 恐ろしいはずの武芸の型なのに、なぜかこう、胸が熱くなるような、綺麗なものを見た心地にございます!」彦太は興奮のあまり、身振り手振りを交えて続けた。「それに、速いのに、なぜか怖くはございませぬ。むしろ、見ていて心が浮き立つような……! あれを見た者は、皆きっと若様に見惚れましょう!」
竹千代はその素直な感想に、思わず笑みがこぼれた。「見惚れる、か。……それは些か面映ゆいのう」
だが同時に、彦太の言葉の中に、ふと引っかかるものを感じた。皆が見惚れるというのは、称賛であると同時に、あまりに人目を惹きすぎる技であることの証でもある。竹千代は内心、この演舞の扱いには、今後さらなる慎重さが要ると胸に刻んだ。
竹千代は彦太を見送りながら、小さく嘆息した。「やましい技でもないというに、こうも気を遣わねばならぬとはな」独り言のようにこぼしたその言葉には、これまで積み重ねてきた目立たぬための日々への、いささかの倦みが滲んでいた。武芸を磨くこと自体は、郷士の子として何ら恥じることではない。だが、あまりに人目を惹く技であればこそ、今川の名簿再編という危うい時世にあっては、迂闊に晒すわけにはいかぬのもまた事実だった。
「……致し方あるまい」
竹千代は自らに言い聞かせるように呟いた。平蔵の肩が癒え、正式に検分を受け、体系立てて練り上げるまでは、この双短剣の型は、これまで通り人目を避けた稽古場で、密やかに磨き続けるほかない。せめてもの救いは、あの型そのものに殺意を込めずとも、十分に体と心を練ることができると分かったことだった。
稽古そのものは、日を追うごとに深みを増していった。速度と優美さを兼ね備えたあの演舞的な型は、竹千代にとって単なる武芸の鍛錬を超えた、心を解き放つひとときとなっていた。重責に押し潰されそうになる日々の中で、この密やかな稽古こそが、竹千代なりの息継ぎの場となっている。平蔵の肩が癒える日を、そして松丸の吉報が届く日を待ちながら、竹千代は今日もまた、誰にも見咎められぬよう気を配りつつ、夕闇の迫る稽古場で静かに短剣を構え続けた。
二
日が傾き始めた頃、竹千代は父・弥左衛門、母・お蘭、そしてお妙と共に、表門の前に並んで立った。師走の冷たい風が頬を刺すが、誰の顔にも寒さを気にする余裕はなく、ただ東の街道の彼方を見つめている。
やがて、夕闇の迫る街道の向こうに、複数の人影が姿を現した。空になった荷車を引く郎党二名、そしてその傍らを歩む松丸の姿。竹千代は思わず、一歩前に踏み出しそうになる足を、辛うじて留めた。
松丸が門前に近づくにつれ、その表情がはっきりと見えてくる。疲労の色は隠しようもないが、その口元には、確かな安堵と、幾分かの誇らしさが浮かんでいた。
「ただいま、戻りましてございます」
松丸が深々と一礼すると、弥左衛門が真っ先に歩み寄った。「大儀であった、松丸。……して、首尾はいかに」
松丸は顔を上げ、家族の顔を一人ひとり見渡してから、はっきりと告げた。「奉行殿、大層お喜びくださいました。歳暮の品はもとより、人足融通の申し出に、いたく感激なされ、『阿久居家の律儀さ、この胸に刻んだ』と、お言葉を賜りましてございます」
その場に、堪えきれぬ安堵のどよめきが広がった。お蘭が思わず胸に手を当て、お妙も目に涙を浮かべている。竹千代もまた、こみ上げる安堵を噛みしめながら、拳を強く握りしめた。
「加えて」松丸は声を落とし、続けた。「奉行殿より、内々に一言。『名簿の順位のこと、拙者にできる限りのことはいたそう。ただし、時はかかろう』と。……確約とまでは参りませぬが、確かな手応えを得て参りました」
弥左衛門は松丸の肩に手を置き、深く頷いた。「よくやった、松丸。……そなたの働き、儂は生涯忘れぬ」
竹千代は兄のもとへ歩み寄り、その手を両手で握りしめた。「兄上、まことにご苦労様にございました。恩義台帳の力、確かに実を結びましたな」
松丸は疲れた顔に、久方ぶりの晴れやかな笑みを浮かべた。「そなたの周到な備えがあったればこそよ、竹千代」
夕闇迫る門前で、阿久居の家族は、久しぶりに心からの安堵に包まれていた。
三
その夜、阿久居の館では、久方ぶりに温かな灯りが座敷いっぱいに灯された。お蘭とお妙が台所で立ち働き、蓄えていた米を惜しみなく炊き、副産物出荷で得た銭で購った魚の干物、そして裏山で仕留めた猪の塩漬け肉を丁寧に焼き上げていく。質素ながらも、この数ヶ月の労苦が報われたことを噛みしめるには十分な、心のこもった膳だった。
囲炉裏を囲んで、弥左衛門を上座に、松丸、竹千代、お蘭、お妙、そして車座に加わる。平蔵も「傷はまだ癒えませぬが、この祝いの席、褥で寝てなどおられませぬ」と無理を押して身を起こし、痛む肩を庇いながらも末席に加わった。弥左衛門は濁り酒の入った椀を掲げ、しわがれた声で口火を切った。
「此度の一件、松丸の働き、竹千代の知略、そして平蔵の命を賭した忠義。皆の力が合わさってこその成果じゃ。阿久居の行く末に、乾杯といこう」
椀を打ち合わせる乾いた音が、座敷に響く。松丸は疲れの残る顔に、久方ぶりの安堵の笑みを浮かべながら猪肉を頬張った。「いや、それにしても、あの奉行殿の渋い顔が、麻布を差し出した途端に和らいだ時は、正直、胸を撫で下ろしましてございます」
「兄上の口上、よほど上出来であったのでしょう」竹千代がからかうように言うと、松丸は苦笑した。「そなたの書付がなければ、途中で言葉に詰まっておったやもしれぬ」
平蔵は痛む肩を庇いながらも、上機嫌に酒を舐めた。「儂の旧友も、あの一言を漏らした甲斐があったというもの。……いや、まこと、命を懸けた甲斐がございましたわい」その言葉に、座がどっと沸いた。
お蘭は目を潤ませながら、竹千代の椀に温かい汁物をよそった。「これも皆、竹千代が家のために知恵を絞ってくれたおかげですね」お妙も横で深く頷き、竹千代の頭をそっと撫でた。
竹千代は家族や平蔵の笑顔に囲まれながら、静かに椀を傾けた。まだ名簿対策は確約に至ってはおらず、今川という大きな力の前では、いつまた新たな危機が訪れるとも知れない。だが、今この瞬間だけは、ただ皆で分かち合う喜びに、心から浸っていたかった。囲炉裏の火が爆ぜる音と、家族の笑い声が、凍てついた師走の夜を、暖かく満たしていった。




