↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三河の片隅で、家族を守る――その名はまだ誰も知らない  作者: 可可多


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
23/54

第二十一話 伊之助の短剣

一


竹千代は松丸に目配せし、木片帳面と矢立を手元に引き寄せた。「平蔵殿、無理を承知でもう少しだけ。奉行殿の近頃の困り事、組頭殿から聞き及んだままに、覚えている限りをお聞かせ願えませぬか」


平蔵は痛む肩を庇いながらも、記憶を手繰るように隻眼を細めた。「……左様。組頭めが申すには、普請奉行殿、此度の役目でいたく難儀しておられるとのこと」


「と、申されますと」


「今川家中より、拳母近隣の川普請と、来る雪解けに備えた堤の補強を急ぎ命じられておるが、肝心の資材と人手がまるで足りぬそうな。軍役徴発で村々の働き手が根こそぎ取られ、木材も兵糧輸送のために優先されておる由。加えて、奉行殿ご自身、代官所内では武張った一派に軽んじられ、実務ばかり押し付けられる立場ゆえ、面目を潰されぬよう成果を焦っておられるとのことでござった」


竹千代の筆が、その言葉を丁寧に木片へ刻んでいく。「人手不足、資材不足、そして面目。この三つが、奉行殿の弱みにございますな」


松丸が身を乗り出した。「二年前、我らが無償で人足を貸したのも、洪水で流された橋の修繕であった。今また、川普請で人手が要るとあらば、これは」


「恩を返す好機にございます」竹千代が続けた。「歳暮の品に加えて、いま少し余力のある人足を数名、期間を区切ってお貸しする申し出をすれば、奉行殿にとっては何よりの助け船となりましょう。しかも、これは金品の贈答とは違い、賄賂の疑いを招きませぬ。恩義の継続、それだけのこと」


平蔵が疲労の滲む顔に、わずかな笑みを浮かべた。「……さすがは、若様。奉行殿の面目も立ち、実利も伴う。組頭めも『あの御仁は、律儀者ゆえ恩を忘れぬ』と申しておりましたゆえ、必ずや心を動かされましょう」


弥左衛門も深く頷いた。「よし、その筋で行こう。松丸、そなたは歳暮の品と共に、人足の融通を申し出よ。竹千代、恩義台帳にこの一件、しかと書き加えておくのだぞ」


竹千代は平蔵の顔に色濃く滲む疲労を見て取り、すぐさま話を切り上げた。「平蔵殿、今宵はこれにて。あとのことはそれがしと兄上にお任せくださいませ。どうぞ、ゆるりとお休みくださいますよう」


平蔵は安堵したように息をつき、お妙の手を借りて奥の間へと運ばれていった。父・弥左衛門も「よくやった、今宵は儂も休む」と労いの言葉を残し、囲炉裏端を後にする。残された竹千代は、行灯の灯りの下、独り木片帳面とそろばんを引き寄せた。


村の労働力を精査するにあたり、竹千代はまず頭の中で、これまで積み上げてきた人足名簿を思い起こす。井堰の普請から薪割り、備蓄の運び出しまで、誰が何をどれほどこなせるか、その勘定は、そろばんを弾くまでもなく、すでに大方頭に入っていた。とはいえ、この時期の村は薪割りと冬季備蓄の要でもある。安易に人手を割けば、阿久居自体の冬越しに支障をきたしかねない。


竹千代はそろばんの珠を静かに弾きながら、村の総人足数から、当面の薪割り・雪囲い・家畜の世話に最低限必要な人数を差し引いていく。弾き出された答えは、力自慢の若い衆を中心に二、三名、季節の変わり目である十日から半月ほどの期間限定であれば、村の冬越しに支障をきたさず融通できるという見立てだった。木片には、名と得手、そして貸し出せる日数までもが整然と書き留められていく。


木片帳面に最後の書き込みを終えると、竹千代は矢立の筆を置き、大きく伸びをした。頭の芯にじんわりとした疲労が滲んでいる。奥の間へ向かう途中、まだ起きていたお妙が、行灯の灯りを持って迎えに出てきた。「若様、こんな刻限まで。お体に障りましょうに」


「少し、考え事をしていただけじゃ」竹千代はそう言いながら、お妙の傍らにちょこんと腰を下ろした。お妙は小さくため息をつきながらも、竹千代の冷えた手を自らの両手でそっと包み込む。その温もりに、強張っていた指先から少しずつ力が抜けていった。


「平蔵様、お戻りになられて、ようございました」お妙が静かに言った。


「うむ。……肩を痛めておられたが、命に別状はない」竹千代はそう答えながら、ふと、お妙の顔を見上げた。「そなたも、この数日、気が休まらなんだであろう」


お妙は少し驚いたように目を瞬かせ、それから柔らかく微笑んだ。「若様にそう仰っていただけるだけで、十分にございます。……それより、若様こそ。難しいお顔をなさって、根を詰めすぎてはなりませぬよ」


やがて、お妙に促されるまま褥に横たわると、行灯の灯りが静かに落とされる。竹千代の心はどこか穏やかだった。明日からまた、奉行への策を練り、村を差配する日々が始まる。だが今宵だけは、何も考えず、ただ深い眠りに落ちていった。


二


翌朝、竹千代は霜柱を踏みしめながら、老爺の住まう百姓家へと足を向けた。老爺は縄をない、藁仕事に精を出していたが、竹千代の姿を認めると、節くれだった手を止めて深々と頭を下げた。


「これは若様、こんな朝早くから、何用にございましょう」


竹千代は框に腰を下ろし、まずは世間話がてら、冬の薪の蓄えや、家畜の様子を尋ねた。ひとしきり和やかな空気を作ってから、竹千代はようやく本題を切り出した。


「実はな、老爺に折り入って頼みがある。……そなたも承知の通り、拳母の普請奉行殿には、二年前、橋の修繕で恩を売っておる。此度、その恩義を頼り、名簿の一件で口添えを願おうと思うておるのじゃ」


老爺の表情が、ふっと引き締まった。竹千代は続けた。「されど、ただ頭を下げるだけでは弱い。奉行殿は今、川普請の人手不足に難儀しておられる由。そこで、うちの人足を二、三名、十日か半月ほど、期間を区切ってお貸ししたいと思うておる。……もとより、村の冬越しに障りが出ぬよう、儂なりに算段はつけたつもりじゃ。力自慢の若い衆の中で、誰ぞ融通の利く者はおらぬか」


老爺はしばし黙り込み、太い眉根を寄せて考え込んだ。「……若様、正直に申し上げてよろしゅうございますか」


「無論じゃ」


「今川の役人のもとへ人を出すとなれば、村の者らの中には、いらぬ噂を立てる者もおりましょう。『阿久居の若様は、今川に取り入ろうとしておるのではないか』と」


竹千代は静かに頷いた。まさにその懸念を、竹千代自身も昨夜から案じていたことだった。「もっともな懸念じゃ。……なれば、こう考えてはくれぬか。これは今川に媚びるためではない。むしろ、家中の、ひいては村の者すべての、今後の禍を遠ざけるための布石なのじゃと」


竹千代は膝を進め、老爺の目をまっすぐに見た。「今川は、いずれ武芸に秀でた郷士の子を、根こそぎ召し上げようとしておる。儂もその名簿に載っておる身じゃ。もし儂が召し上げられれば、この村の水利も、備蓄の差配も、皆、元の木阿弥になろう。それを防ぐための、いわば村を守る一手なのじゃ」


老爺の表情が、みるみる変わった。皺深い顔に、驚きと、そして深い得心の色が浮かぶ。「……そういうことでございましたか。若様がお隠れになっては、この村の暮らし向きも、また昔のように立ち行かなくなりまする」老爺は膝を叩き、身を乗り出した。「相分かり申した! それがしの孫の甥にあたる者と、あと一人、力も口も堅い若い衆がおりまする。この二人ならば、十日やそこら村を離れても、薪割りにも差し障りございますまい」


「かたじけない、老爺」竹千代は深々と頭を下げた。


老爺は照れくさそうに頭を掻きながらも、その目には確かな忠義の光が宿っていた。「若様のためとあらば、なんでもいたしまする。……ただし」老爺はふと声を落とした。「くれぐれも、若様ご自身は目立たぬよう、慎重になさいませ。此度のことで、若様が名簿からも今川の目からも消えてくれることを、この老いぼれは、心底願うておりますゆえ」


竹千代は老爺の言葉を聞いた途端、こらえきれずに「ふはっ」と噴き出した。「目立つな、目立つな、と! ……老爺よ、そなたまで同じことを申すか! 父上も、平蔵殿も、兄上も、皆が皆、口を揃えて『目立つな』と!」


竹千代は膝を叩き、心底おかしそうに大笑いした。「儂とて好んで目立っておるわけではないというに! 弓を引けば的外れ、槍を持てば周りが驚く、そろばんを弾けば師匠が青くなる。気づけば、いつのまにやら村中から今川の目付殿まで、皆が儂を見ておる始末じゃ! いったいどうすれば、目立たずに済むというのか!」


その屈託のない笑い声に、老爺も毒気を抜かれたように、皺だらけの顔をくしゃくしゃにして笑い出した。「はっはっは! 違いございませぬな、若様! されど、それもこれも、若様が並外れておいでだからこそのこと。凡俗であれば、誰も気には留めませぬものを」


「その並外れが、厄介極まりないのじゃ!」竹千代はなおも笑いながら、涙目になった目元を袖で拭う真似をした。「弓だけは、いっそ胸を張って下手のままでおれるがゆえ、せめてもの救いよ!」


ひとしきり笑い終えると、竹千代は目尻に浮かんだ涙を拭いながら、ふと真顔に戻った。「……されど、老爺。そなたの申すことは、骨身に染みておる。せいぜい、大人しゅう、目立たぬように振る舞うとしよう。とはいえ、それも儂の得意技のひとつじゃ、な?」


悪戯っぽく片目をつぶって見せる竹千代に、老爺はまた盛大に笑い声を上げた。「いやはや、若様には敵いませぬわ!」


三


竹千代は松丸を伴い、蔵の奥にある貯蔵庫へと足を運んだ。筵を捲り上げると、藁で編んだ俵や桶が整然と並んでいる。この冬、平蔵と共に仕留めた大猪や兎の恵みが、そこには確かに残されていた。


「まずは、これじゃな」竹千代は塩漬けの桶の蓋を開けた。「大猪の塩漬け肉、まだ十分な量が残っておる。拳母の商人衆にも高く評価された品ゆえ、質は申し分ない」


松丸が横から覗き込み、頷いた。「干し肉も、まだ幾つか吊るしてあったはずじゃ。……されど竹千代、これをそのまま持っていくのは、いささか無粋ではないか。奉行殿への歳暮じゃ、商人への売り物とは違う」


竹千代も同意した。「仰る通りにございます。量は控えめに、されど質の良いものだけを選び、麻布か何かで丁重に包むのがよろしいかと。……ああ、それと」


竹千代は棚の隅にある反物の切れ端に目を留めた。「母上の織られた麻布も、少し分けていただけませぬか。冬場の実用の品として、奉行殿の奥方や家中の者にも喜ばれましょう。塩漬け肉だけでは武張った家からの贈り物に見えかねませぬが、麻布を添えれば、暮らし向きを気遣う実直な家、という印象になりまする」


松丸が唸った。「なるほど。武を誇るのではなく、あくまで実直な郷士の家としての贈り物か」


さらに竹千代は、毛皮にも目を向けた。「毛皮は、質の良いものを一枚だけ。多く持っていけば、かえって武功を鼻にかけておると勘繰られかねませぬ。控えめに、されど確かな品を、というのが肝要かと」


二人は蔵の中を吟味しながら、最終的に「上質な塩漬け肉ひと包み、干し肉少々、質の良い毛皮一枚、そして母お蘭の織った麻布数反」という組み合わせに落ち着いた。竹千代はさらに、これに添える口上の文言を思案する。「二年前の橋普請の折の御恩、片時も忘れずにおりました、という一言を、まず添えねばなりませぬな。その上で、川普請の難儀を案じ、些少ながら人足を融通したき旨を」


松丸は帳面にその品目と口上の骨子を書き留めながら、深く頷いた。「これならば、奉行殿の面目も立ち、実も伴う。……竹千代、そなたの目利き、まこと大したものよ」


竹千代は松丸と共に母屋へ戻り、機織り場でちょうど作業をしていたお蘭のもとへ向かった。「麻布を、お分けいただきたいのです」竹千代は事情を手短に説明した。「拳母の普請奉行殿への歳暮に、母上の織られた麻布を添えたく存じます」


お蘭は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに温かな笑みを浮かべた。「わたくしの機織りが、お家の大事な御用に役立つとあらば、これほど嬉しいことはありませぬ」お蘭は棚から、この冬織り上げたばかりの上質な麻布を数反選び出し、丁寧に竹千代の手に渡した。


そこへ、お妙も荷造りを手伝うべく姿を見せた。竹千代はふと、あの荷送り出し確認手順を思い出し、あえてお妙に声をかけた。「お妙、これも大事な荷じゃ。あの手順で、しかと確かめながら参ろう」


お妙は少し照れくさそうに、しかし誇らしげに頷いた。「畏まりました、若様」


三人は板間に品々を並べ、丁寧に荷造りを始めた。「行き先は、拳母の普請奉行殿御屋敷」竹千代は木札にそう書き記し、荷の紐にしっかりと結びつけた。「中身は塩漬け肉ひと包み、干し肉少々、毛皮一枚、麻布五反。……お妙、二人確認の要領で、今一度共に数えてくれぬか」


お妙は帳面を手に、竹千代と共に一つひとつ品目を読み上げては、実物と照らし合わせていく。すべての確認を終えると、竹千代は満足げに頷いた。「これで抜かりはあるまい。……あとは、兄上の首尾を祈るばかりじゃ」


お蘭が包みを見つめながら、そっと呟いた。「どうか、うまく参りますように」


四


竹千代は歳暮の支度が整ったことに安堵しつつも、胸の奥に一抹の冷たいものを感じていた。奉行への口添えが叶わなんだ場合、今川の召し出しが強行され、あるいは家中に刃を向けられる事態に至った場合、これまでの流水無形は、あくまで武芸としての型に過ぎぬ。真に人を殺めるための一撃を、己はまだ知らぬ。


その夜、竹千代は誰にも告げず、裏庭の稽古場にひとり立った。月明かりだけを頼りに、槍を構える。これまでの稽古は、あくまで技を磨き、体を練るためのものだった。だが今宵は、違う。竹千代は目を閉じ、脳裏に敵という存在を、あえて具体的に思い描いた。刃を向けてくる者、家族を害さんとする者、その想像だけで、背筋に冷たい汗が滲んだ。


穂先を静かに前へ突き出す。捻り突きの型そのものは、これまでと寸分違わぬ動きだ。だが、そこに込める意志が、根底から異なっていた。相手を制するのではなく、相手の命を絶つ。その明確な意図を乗せた瞬間、槍先から立ち上る気配が、これまでとはまるで違う質のものへと変わっていく。息を吐くたびに、白い息が刃のように鋭く夜気を裂いた。


薙ぎ払いも、摺り足も、同じように「殺す」という一点に研ぎ澄まして繰り返す。型を重ねるごとに、竹千代の中で何かが軋むような感覚があった。これまで培ってきた武芸は、あくまで身を守り、家を守るための術理だった。それを明確な殺意へと転換させることは、七つの歳から積み上げてきた型の理を、根本から書き換える作業に等しい。


不意に、庭の隅で人の気配がした。振り返ると、寝所から出てきたらしいお妙が、月明かりの下、青ざめた顔で立ち尽くしていた。


「……若様? 今のは、いったい」


その声は、これまで竹千代の稽古を幾度となく見守ってきたお妙の、聞いたことのない怯えを孕んでいた。竹千代は槍を下ろし、はっと我に返る。


「お妙……すまぬ、驚かせたな」


竹千代は槍を静かに地面へ置くと、お妙のもとへ歩み寄り、その震える手をそっと取った。「お妙、脅かしてすまなんだ。……正直に申そう」


竹千代は一度、大きく息を吸った。「もし奉行殿への口添えが叶わず、今川が力ずくで儂を、あるいはこの家を害さんとする時が来たなら、儂は、これまでの型だけでは、皆を守り切れぬやもしれぬ。そう思うたのじゃ。それゆえ、恐ろしいと承知の上で、殺す覚悟を持った稽古を、独りで試してみたのじゃ」


お妙の瞳が、大きく揺れた。竹千代は続けた。「されど、今宵そなたを驚かせ、恐れさせてしもうた。それは、儂がまだこの覚悟を制御しきれておらぬ証じゃ。……独りよがりの鍛錬は、かえって危うい」


竹千代はお妙の手を、より強く握った。「それゆえ、誓おう。この先、このような鍛錬をする時は、決して独りではせぬ。必ず平蔵殿の指導のもとで行う。あの御仁ならば、殺す技と、それを制する心の両方を、儂に授けてくれよう」


お妙は、竹千代の言葉をじっと聞きながら、次第にその瞳から怯えの色が薄れていくのを見せた。代わりに浮かんできたのは、深い悲しみと、それでも変わらぬ愛情の入り混じった表情だった。「若様が、それほどまでにお家と、わたくしたちのことを案じてくださっておるとは……」お妙は声を震わせながら、竹千代の手をぎゅっと握り返した。「されど、若様。どうか、お忘れなきよう。若様が人を殺める道を選ばずとも済むように。それこそが、わたくしたち大人の、為すべき務めにございます」


その言葉に、竹千代は胸を突かれた。「……すまぬ、お妙。そなたの申す通りじゃ」


翌朝、竹千代は平蔵の伏せる奥の間を訪ねた。竹千代は昨夜の一件、お妙を怯えさせてしまったこと、独断で殺意を込めた鍛錬に踏み出したこと、そしてその未熟さを包み隠さず語った。


「……儂は、最悪の場合、この家を、皆を守るために、人を殺める覚悟を持たねばならぬと思うたのです。されど、独りでは制御しきれず、お妙を怖がらせてしまいました。それゆえ、平蔵殿の御指導のもとでなくば、この鍛錬は決してせぬと誓いました。……お怪我が癒えられた後で構いませぬ。どうか、その時が来たら、お力添えを願えませぬか」


平蔵はしばし黙り込み、痛む肩をかばいながらも、ゆっくりと身を起こした。その隻眼には、深い感慨と、同時に厳しい光が宿っていた。


「……竹。よくぞ、独りで抱え込まずに来おった」平蔵は低く、しかし力強い声で言った。「殺意を乗せた技というものはな、使い方を誤れば、己の心を蝕み、人でなくなり果てる。それを、たかが十一の身空で、独り学ぼうとするとは。正直、肝が冷えたわ」


竹千代は身を縮めた。平蔵は続けた。「されど、竹の案じるところは、決して的外れではない。今川が力ずくで来る時、儂とて、丸腰の理想論だけで家族を守り抜けるとは思わぬ」


平蔵は竹千代の目をまっすぐ見据えた。「よかろう。この肩が癒え次第、必ず竹に教えよう。……ただし」平蔵の声が、一段と重みを増した。「殺す技を学ぶということは、殺す覚悟だけでなく、殺した後の重みをも背負う覚悟を学ぶということじゃ。儂がその両方を、しかと叩き込んでやろう。生半可な気持ちならば、今のうちに断っておけ」


竹千代は一瞬たじろいだが、すぐに姿勢を正し、深く頭を垂れた。「……お願い申し上げます」


五


竹千代は歳暮の荷を運び出す作業に加わった。荷送り出し確認手順を定めて以来、竹千代は蔵の品を出し入れするたび、普段は手を付けぬ奥の一角まで、抜かりなく検める癖がついていた。この古い長持も、日頃の在庫の回転からは外れ、長らく人目に触れずにいた品である。今日のように蔵の隅々まで探る用がなければ、この先も見過ごされたままであったろう。竹千代がその長持を動かした拍子に、中身がわずかに覗いているのに気づいた。布に包まれた細長い品、手に取って布を解くと、鞘の塗りも剥げかけた、拵えの質素な短剣が二振り、揃いで納められていた。柄糸の色や鍔の意匠が、明らかに対で誂えられたものだと分かる。


「これは……?」


竹千代が首を傾げていると、荷運びを手伝っていた老いた下男が、ちらりとそれを見て、ふと手を止めた。「ああ、それは……先代様の頃の品にございますよ、若様」


「先代様? 祖父上のか」


下男は少し声を落とし、周囲を憚るような素振りを見せた。「へえ。……弥左衛門様がまだお若かった時分、確か、御兄弟がおられたと聞き及んでおりまする。今の弥左衛門様は、実はご次男であられたとか」


竹千代は思わず息を呑んだ。当主である父・弥左衛門もまた、かつては次男であったという事実。それは、これまで竹千代自身が身をもって噛みしめてきた次男の不条理と、奇妙な形で重なり合う。


「兄上様、つまり先の御嫡男は、確か戦働きで……」下男はそこで言葉を濁し、それ以上は語ろうとしなかった。「詳しいことは、それがしのような下働きの知るところではございませぬ。ただ、この二振りは、当時揃いで誂えられた御兄弟の守り刀であったと、亡くなった祖父から聞いたことがございます」


竹千代は短剣をそっと布に包み直しながら、いつか機を見て、父に直に尋ねてみようと心に決めた。今この時に掘り起こすべき過去ではない。それよりも、目先の危機を乗り越えることこそが、家族の未来を守る何よりの道だと、竹千代は自らに言い聞かせた。


しかし、その日の夕刻、竹千代は結局、布包みを懐に忍ばせ、父・弥左衛門の居室へと向かっていた。弥左衛門は文机に向かい、松丸の道中手形の手筈について書付をしたためていたが、竹千代の神妙な面持ちに気づき、筆を置いた。


「どうした、竹千代。そのような硬い顔をして」


竹千代は膝をつき、懐から布包みを取り出すと、静かに畳の上へ広げた。二振りの、揃いの短剣。弥左衛門の表情が、その瞬間、凍りついたように固まった。


「これは……」


「蔵の奥、古い長持の中に仕舞われておりました。……下男殿に伺ったところ、先代様の御代、父上に御兄弟がおられたと。父上ご自身も、かつては次男であられたと聞き及びましてございます」


弥左衛門はしばし、短剣から目を離さなかった。行灯の灯りが、その横顔に深い陰影を落とす。長い沈黙の後、弥左衛門はようやく、絞り出すような低い声で語り始めた。


「……儂の兄、伊之助と申した。儂より五つ上でな。この短剣は、儂らが元服前、亡き父上、そなたの祖父上が、揃いで誂えてくださったものよ。『兄弟、互いを守り合え』とな」


弥左衛門は短剣の一振りを、震える指先でそっと持ち上げた。「伊之助兄上は、儂などとは比べ物にならぬほど、武芸にも器量にも優れたお方であった。……されど、儂が十五の折、三河国内の小競り合いで、先陣を切って討死なされた。当時の当主であった父上の名代として、真っ先に槍働きに駆り出されてな」


竹千代は息を呑んだ。かつての戦国の世で、嫡男として生まれながら、真っ先に死地へと送られた者の存在。それは、竹千代自身が今まさに直面している今川の名簿の恐怖と、地続きの現実だった。


「儂が家督を継いだのは、望んでのことではない。……兄上の死という、あまりに大きな代償の上に立っておるのじゃ」弥左衛門は短剣をそっと竹千代に近づけ、静かに言った。「それゆえ、儂は誓った。我が子らだけは、決して先陣の捨て駒にはさせぬと。……竹千代、そなたが今川の名簿に載ったと聞いた時、儂の胸に真っ先に去来したのは、この兄上の死であった」


父の目に光るものを見て、竹千代は深く頭を垂れた。この一件が、父のこれまでの慎重さ、次男への深い情の裏にある、決して語られなかった真実だったのだ。


竹千代は畳の上の短剣に目を落とし、しばし言葉を選んでから、静かに父を見上げた。


「父上……この短剣、それがしに使わせてはいただけませぬか」


弥左衛門の表情に、一瞬、鋭い緊張が走った。「竹千代、これは……」


「存じております。伊之助伯父上と父上の、御兄弟の絆の証にございましょう」竹千代は言葉を続けた。「されど、それゆえにこそ、お願いしたいのです。この短剣を蔵の奥深くに仕舞い込んだまま、二度と日の目を見せぬのでは、伊之助伯父上の御生涯も、ただ悲しい記憶として終わってしまいましょう。……それがしがこれを腰に携え、日々の備えとして使わせていただければ、伯父上の御霊も、また違う形でこの家を守り続けてくださるように思うのです」


弥左衛門は目を見開き、短剣と竹千代の顔を交互に見つめた。その瞳に浮かんだのは、驚きと、そして込み上げる感慨だった。「……そなたは」


「無論、父上が難色を示されるならば、無理には申しませぬ」竹千代は慎重に付け加えた。「されど、殺意を込めた実戦の鍛錬を平蔵殿より学ぶ約定を交わした身。脇差槍だけでは足りぬ、至近での備えとして、この短剣ほど相応しいものはございませぬ」


弥左衛門は長い沈黙の後、震える手で短剣の一振りを取り上げ、じっと見つめた。「……伊之助兄上ならば、きっとこう仰るであろうな。『そのように辛気臭い顔をして仕舞い込んでおくくらいなら、存分に使うがよい』と」弥左衛門の口元に、懐かしそうな、そして少し寂しげな笑みが浮かんだ。


「よかろう、竹千代。この二振り、そなたに託そう。……ただし」弥左衛門は短剣を竹千代の手に丁寧に載せながら、真剣な面持ちで続けた。「これは、伊之助兄上とこの儂の、兄弟の絆そのものよ。そなたが受け継ぐならば、いずれ松丸ともまた、そのような絆を結んでくれることを、儂は願うておる」


竹千代は両手で短剣を捧げ持ち、深く頭を垂れた。「……肝に銘じまする、父上」


行灯の灯りの下、伯父の遺した二振りの短剣は、こうして新たな次男の手に、静かに引き継がれていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。