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三河の片隅で、家族を守る――その名はまだ誰も知らない  作者: 可可多


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第二十話 帰還

一


数日が過ぎた。師走の寒気はいよいよ厳しさを増し、朝には水瓶の表に薄氷が張るようになっていた。竹千代は表向き、彦太への指導や薪割りの差配といった日課を淡々とこなしながらも、胸の内では平蔵の消息を案じる気持ちが、日を追うごとに重く沈殿していく。あまり性急に尋ねては、留守を預かる家中に要らぬ不安を煽りかねない。その加減を計りながら、竹千代はまず、館の裏で薪を割っていた郎党の一人に、さりげなく声をかけた。


「平蔵殿は、まだ戻られぬか」


郎党は斧を振るう手を止め、白い息を吐きながら首を振った。「へえ、まだ何の便りも。……なにぶん、旧友筋への忍び働きにございますれば、易々とは事が運びますまい」その口ぶりには、古参の郎党らしい落ち着きがあったが、目の端にはわずかな懸念の色も見て取れた。平蔵という、家中随一の武辺者が単身、敵地同然の今川領へ赴いている。その事実の重さは、郎党たちの間にも静かに伝わっているようだった。


二


夕刻、竹千代は松丸の部屋を訪ねた。松丸は帳面を繰る手を止め、弟の顔を見て小さく苦笑した。「そなたも、気になって仕方あるまい。……儂とて同じよ」


松丸の話によれば、父・弥左衛門も表向きは平静を装いつつ、夜な夜な一人で酒を舐めながら、東の空を眺めていることがあるという。「父上は口にこそ出されぬが、平蔵殿を頼りにしすぎたのではと、案じておられるご様子だ」松丸は声を落として続けた。「足軽組頭殿との間柄が、二十年来のものとはいえ、今は互いに敵味方に分かれた身。旧知の誼だけで、易々と腹を割って話せるものかどうか」


その言葉に、竹千代の胸にも一抹の不安がよぎった。恩義台帳の上では確かな伝手であっても、人の心は帳面の数字のようには測れない。まして今川という覇道の力学の中で、旧友一人の胸算用がどちらに転ぶか、誰にも保証などできはしないのだ。


「されど」と松丸は、弟を励ますように付け加えた。「平蔵殿は、伊達に片目を失ってはおらぬ。危うしと見れば、無理に事を運ぶような御仁ではない。今しばし、儂らは儂らの為すべきことを為し、待つのが肝要よ」


竹千代は静かに頷いた。焦りは判断を鈍らせる。それは、自らが最も戒めてきた理でもあった。


三


夕餉を終えた後、竹千代は父の居室へと向かった。弥左衛門は文机の前に座し、行灯の灯りを頼りに何やら書付を眺めていたが、その目は文字を追うでもなく、ただ虚空の一点を見つめているようだった。傍らには、いつもより多く注がれた濁り酒の椀がある。


「父上」


竹千代が声をかけると、弥左衛門ははっとしたように顔を上げ、慌てて書付を脇へやった。「おお、竹千代か。……もう休む刻限であろうに」


「眠れませなんだゆえ」竹千代はそう言い訳しながら、父の傍らにちょこんと腰を下ろした。しばらく無言のまま、爆ぜる灯心の音だけが座敷に響く。竹千代はあえて政の話も、平蔵の名も口にせず、ただ父の隣に座り続けた。子供らしい他愛のない沈黙、それが今の弥左衛門には、何よりの薬になると踏んでのことだった。


やがて弥左衛門が、独り言のように呟いた。「……儂は、平蔵に頼りすぎたのやもしれぬ」


「父上」


「あの者がおればこそ、井堰も、武芸も、名簿の一件も、すべてが回っておった。……されど、もしあの者に万一のことあらば、儂は、儂ら家中は、いったいどうなる」


その声には、当主としての重責と、古き友を案じる情とが、抜き差しならぬ形で絡み合っていた。竹千代は少し考え、そっと父の袖に触れた。「父上。平蔵殿は、片目を失ってなお生き延びた御仁にございます。無理を厭う思慮深さを、誰よりも持っておられます。……それに」


竹千代は父の目をまっすぐ見上げた。「父上や兄上、母上、お妙、そしてわたしがおる限り、たとえ何が起ころうとも、阿久居の家は倒れませぬ。平蔵殿とて、それを信じておればこそ、心置きなく旅立たれたのでございましょう」


弥左衛門は一瞬、目を見開いた。次男の言葉の奥にある、年齢に不釣り合いなほどの肚の据わりに驚きつつも、その温かさに胸を打たれたように、深く息をついた。「……そうよな。案じてばかりでは、平蔵の労苦を無にするようなものよ」


弥左衛門は竹千代の頭をゆっくりと撫でた。「そなたがおってくれて、良かった」その言葉には、次男への信頼と、父としての安堵が滲んでいた。竹千代は素直にその手の温もりを受け止めながら、内心では、この家を守るという誓いを、改めて胸に刻み直していた。


四


師走の日々は、判で押したような規則正しさの中に沈んでいった。卯の刻に起き、手習い所で彦太たちにそろばんを教え、昼過ぎには薪割りや冬季備蓄の差配に加わる。誰の目にも「いつも通りの若様」と映るその繰り返しの中に、竹千代はただひとつ、密かな変化を織り込んでいた。夕刻の槍稽古の刻限を、これまでよりわずかに長く取ることだった。


とはいえ、それは決して無謀な鍛錬ではない。平蔵の教えた「三度、休み、また三度」の理を厳格に守りながら、型の数をひとつふたつ増やすだけの、慎ましい積み重ねだった。師のいない稽古場で、竹千代は自らの呼吸だけを頼りに型を重ねる。時折、無意識のうちに手が止まり、平蔵ならばここでどう声をかけるだろうかと考える自分に気づき、小さく苦笑した。師の不在は、思った以上に深く己の内に根を張っているらしい。


村では、老爺や人足たちが相変わらず竹千代を慕い、薪割りの手を休めては「若様、平蔵様はまだお戻りにならぬのですかい」と案じる声をかけてくる。竹千代はその都度、「案ずるな、あの御仁がしくじるものか」と、努めて明るく答えて見せた。


数日が経ち、槍を握る手にも、待つことにも、ある種の落ち着いた律動が生まれ始めた頃、夕暮れ時の稽古を終えた竹千代のもとに、松丸が息を切らせて駆け込んできた。その顔には、これまでの数日間には見られなかった、緊張と安堵が入り混じった色が浮かんでいる。


「竹千代! 表に、村外れの木戸番から報せが参った。東の街道に、平蔵殿らしき人影が!」


その言葉に、竹千代の胸が大きく高鳴った。槍を握る手に、思わず力がこもる。


竹千代は逸る心を抑えながら、まず父の居室へと駆けた。「父上! 平蔵殿らしき人影が、東の街道に現れたとの報せが!」


弥左衛門は文机から勢いよく立ち上がった。その顔には、これまで数日間押し隠していた懸念が一気に噴き出したような、隠しきれぬ動揺が浮かんでいる。「まことか! ……して、確かに平蔵か、それとも」


言いかけて、弥左衛門は自らの浅慮を恥じるように口をつぐんだ。今川領の内情を探る隠密働きの果てである。もし正体の露見した平蔵が、追っ手を引き連れて逃げ戻ってきたのだとしたら、木戸を開けることそのものが、家中に災いを呼び込む引き金になりかねない。当主としての用心と、旧知の郎党を思う情との間で、弥左衛門の表情が忙しく揺れた。


「父上、拙者を木戸まで遣わしてはいただけませぬか」竹千代は膝をつき、まっすぐに父を見上げた。「ただし、松丸兄上と、腕の立つ郎党を数名連れ、決して門を無闇に開けはいたしませぬ。まずは遠目に人影を検め、平蔵殿ご本人か、また尾行の気配がないか、しかと見極めて参りまする」


弥左衛門はしばし黙考した。次男の申し出には、逸る心を律する冷静さがすでに織り込まれている。それを見て取った父の目に、安堵にも似た色が浮かんだ。「……よかろう。松丸、郎党を三名、弓を持たせて連れて行け。竹千代、決して先走るでないぞ。人影が平蔵と確かめる前に、姿を晒すことはまかりならぬ」


「心得ましてございます」


弥左衛門は自らも羽織を掴み、「儂も表まで出よう」と続けた。一同は篝火の支度もそこそこに、凍てついた夜道を木戸へと急いだ。


竹千代は、松丸や郎党たちの列を追い越すように、思わず先へと足を踏み出した。脇差槍の柄を強く握りしめ、「これがしが前に出まする」と口走った刹那。


「ならん!」


父・弥左衛門の一喝が、夜気を切り裂いて響いた。振り返る間もなく、大きな手が竹千代の肩を鷲掴みにし、力ずくで後方へと引き戻す。「たわけ! そなたは阿久居の次男ぞ。万一相手が今川の追っ手であったなら、まっさきに前へ出て見極めるべきは、郎党であり、この儂だ! 童が槍を構えて先陣を切るなど、正気の沙汰ではない!」


弥左衛門の声には、これまでにない激しい叱責と、その奥に隠しきれぬ恐怖が滲んでいた。竹千代は肩を掴まれたまま、頬を打たれたような衝撃を受けた。己の武芸への過信、そして功を焦る心が、いつのまにか年相応の分別を踏み越えていたことを、この瞬間、思い知らされる。


「……申し訳ございませぬ、父上」


竹千代は槍を下ろし、大人しく郎党たちの背後へと下がった。弓を構えた郎党二名が慎重に前へ進み出て、木戸の隙間から街道の人影を検めていく。篝火の乏しい灯りの中、街道からゆっくりと近づいてくる影は、ひとつ。杖のように槍を突きながら、足取りは重く、片方の肩を庇うように傾いでいる。


「……あの、隻眼の……!」


郎党の一人が息を呑んだ。影が木戸の灯りの届く距離まで来た瞬間、疲労困憊しながらも、その左目だけがぎらりと篝火を映して光った。平蔵だった。


「弥左衛門様……ただいま、戻りましてございまする」


掠れた声で、平蔵はその場に片膝をついた。竹千代は父の手を振り切りそうになるのを堪えながら、こみ上げる安堵と、先ほどの叱責への恥じ入りとを、同時に噛みしめていた。


竹千代はその場に片膝をつき、父に向かって深々と頭を垂れた。「父上、先ほどの拙者の振る舞い、浅慮の極みにございました。武芸の腕におごり、家長たる父上の御下知を軽んじる仕儀となり、まことに申し訳次第もございませぬ」


弥左衛門は肩で息をつきながら、竹千代を見下ろした。怒りの熱はまだ完全には冷めていなかったが、素直に非を認め額を地につける次男の姿に、次第にその表情から険しさが薄れていく。「……分かればよい。二度とあってはならぬぞ。そなたを喪えば、儂は」


言葉半ばで、弥左衛門は口をつぐんだ。それ以上は言葉にできぬほどの想いが、そこにはあった。竹千代はその沈黙の重みを噛みしめながら、深く頷いた。


しかし詫びを言い終えるが早いか、竹千代はすぐさま顔を上げ、平蔵の傍らへと膝を進めた。「平蔵殿! お怪我は、いずこに」


篝火の下で見る平蔵の姿は、長旅の疲労を色濃く滲ませていた。片方の肩が不自然に下がり、触れれば呻き声を漏らすほどに腫れている。着物の下から覗く肌には、殴打によるものらしい青黒い痣も見えた。「なに、大した傷ではございませぬ。……いささか、旧友との話が拗れましてな」


平蔵は苦笑しながらそう言ったが、その声には隠しきれぬ疲労が滲んでいる。竹千代はすぐさま郎党たちに向き直った。「戸板を持て! 母上に湯と晒しの用意をお願いし、お妙にも手当ての心得を借りたい。それと、体を温める葛湯も」


てきぱきと指示を飛ばす竹千代の姿に、松丸が驚いたように目を見開いた。先ほどの浅慮とは打って変わった、冷静な差配ぶりだった。郎党たちが慌ただしく戸板を運び、平蔵を丁重に運び入れる。竹千代はその傍らに付き添いながら、平蔵の耳元で小さく囁いた。「よくぞご無事で。この礼は、いずれ必ず」


平蔵は目を閉じたまま、掠れた声で応じた。「竹……儂よりも、話しておかねばならぬことがある」その言葉に、竹千代の胸に緊張が走った。


五


竹千代は戸板の脇に膝をつき、お妙が晒しを巻く手を止めぬよう配慮しながら、平蔵の顔を覗き込んだ。「平蔵殿、手当ての最中ご無礼を承知で伺いまする。一刻を争う話にございますか」


平蔵は痛みに顔をしかめながらも、隻眼をわずかに開いた。「……左様。悠長にしてはおれませぬ」


肩に晒しを巻かれる痛みに時折息を詰まらせながらも、平蔵は途切れ途切れに語り始めた。「旧友の足軽組頭めは、当初こそ昔のよしみで内々に話を聞かせてくれ申した。名簿の再編、確かに三河国内の郷士子息を広く洗い直しておる由。……されど」


平蔵は一度、大きく息を吸った。「その組頭めが申すには、此度の名簿再編、単なる人質集めではないと。今川家中にて、いずれ大がかりな軍役、遠征の触れが下されるとの噂が流れておるそうにございます。名簿に載る郷士子息は、いずれ人質として館へ召し上げられるのみならず、元服後は先陣の捨て駒として使われる懸念があると」


その言葉に、竹千代の背筋が凍りついた。単なる召し出しの延期では済まぬ、より深刻な危機が迫っている。


「加えて」平蔵は苦々しげに続けた。「儂が竹千代様のことをそれとなく尋ねたところ、組頭めの顔色が変わり申した。……名簿にはすでに『拳母の奉納組太刀にて、五つ年上の今川方子息を一切の力みなく圧倒した、阿久居家次男』との注記があるとのこと。ただの員数合わせではなく、目付役に名指しで注目される存在として扱われておりまする」


「それゆえ、話がこじれたと」竹千代は静かに問うた。


「はい。……昔のよしみで見逃してはくれと頼み込んだところ、組頭めも板挟みの立場ゆえ渋り、最後には『これ以上は儂の首も危うい』と、掴み合いになり申した」平蔵は自嘲気味に痣の残る頬を撫でた。「されど、決して無駄足ではございませぬ。組頭めは最後に、拳母の普請奉行殿への口添えならば、まだ間に合う目があると、小声で漏らしましてございます」


竹千代は唇を噛んだ。時は、思っていたよりも遥かに切迫している。


手当てが一段落し、平蔵の肩に添え木と晒しが施されると、竹千代は父と松丸を囲炉裏端に呼び集めた。お蘭が温かい葛湯を配る中、平蔵も無理を押して身を起こし、車座の末席に加わる。行灯の灯りが、それぞれの緊張した面持ちを浮かび上がらせていた。


平蔵が改めて、旧友の足軽組頭から聞き出した内情を、今度は嚙み砕いて語り直す。単なる人質集めに留まらぬ将来の軍役動員の噂、そして竹千代の武名がすでに今川方目付役の記録に明確な形で刻まれていること。それらを聞き終えた弥左衛門の顔から、みるみる血の気が引いていった。


「捨て駒……先陣に……」弥左衛門は拳を握りしめ、低く唸った。「元服前ゆえと時を稼いできたが、その先延ばしにも限りがあるということか」


松丸が身を乗り出した。「父上、悠長にしてはおれませぬ。恩義台帳にて確かめた通り、拳母普請奉行殿は代官筋に顔が利く。しかも組頭殿自らが『まだ間に合う』と示唆したとあらば、この一手に賭けるほかありますまい」


竹千代も頷いた。「兄上の申される通りにございます。ただし、性急に事を運べば、かえって奉行殿の心証を損ないましょう。二年前の橋普請の恩義を、恩着せがましくならぬよう、あくまで自然な形で切り出す口実が肝要かと」


弥左衛門はしばし目を閉じ、思案した。当主としての苦渋の決断が、その皺の深い眉間に刻まれる。「……よかろう。松丸、そなたが正式な使者として、まずは歳暮の挨拶という体で普請奉行殿のもとへ赴け。竹千代の同行は、まだ許さぬ。目立たぬことが肝要ゆえな」


竹千代は一瞬、同行を願い出たい衝動に駆られたが、先の木戸での過ちを思い出し、ぐっと言葉を飲み込んだ。「畏まりました。手土産の品と、切り出し方については、拙者が恩義台帳をもとに、兄上と共に練りまする」


平蔵が痛む肩を庇いながらも、満足げに目を細めた。「よき覚悟にございます。……儂もまだ役に立てましょう。組頭めから聞いた奉行殿の近頃の困り事、いくつか手土産の種になりましょうぞ」


囲炉裏の火が爆ぜる中、血の繋がりを越えて結ばれたこの一同は、改めて来るべき交渉への決意を固め合った。

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