第十九話 恩の重さ
一
翌朝、まだ暗いうちに、竹千代は館の門前で平蔵の出立を見送った。厳冬の空気は肌を刺すように冷たく、平蔵の吐く息が白く尾を引いて夜闇に溶けていく。旅装を整えた師の背には、いつもの得物に加え、道中の護身用に短い脇差が一振り、さりげなく差し込まれていた。
「行って参る。竹、くれぐれも、いつも通りに。……なに、日帰りが叶わずとも、旧友の陣所で一夜厄介になるだけのこと。案ずるでないぞ」
平蔵はそれだけ言うと、雪明かりの中を西へと歩き出した。その後ろ姿が、館を囲む竹林の陰に消えるまで、竹千代はしばし見送り続けた。師が単身、今川方の勢力圏近くへと赴く不安は拭いきれなかったが、ここで竹千代自身が浮足立ってしまえば、かえって家中の空気を乱すことになる。
二
竹千代は気持ちを切り替え、いつも通りの一日を過ごすことに努めた。朝の水浴び、素振りの型稽古を終えると、手習い所へと足を向ける。彦太は今日も熱心にそろばんへ向き合い、竹千代の姿を見るなり顔を輝かせた。
「若様! 昨日教えていただいた繰り上がり、うまくできるようになりました」
竹千代は彦太の隣に腰を下ろし、帳面を検分した。以前よりも珠の弾き方に迷いがなく、着実に腕を上げている。「うむ、良い進み具合じゃ。この調子で続けよ」平静を装いながらも、竹千代の心の片隅には、平蔵の道中への案じが常に燻っていた。
昼下がりには、老爺の作業小屋を訪ね、村の冬季備蓄についての続きの相談に取り掛かった。休耕地の飼葉転用という新たな構想については、まだ父にも正式には諮っていないため、今日のところは、既存の蓄えの配分見直しに絞って話を進めた。
「じさま、薪の割り具合はいかがでござろう」
老爺は満足げに頷いた。「若い衆総出で進めておる。この分なら、雪深い月も凌げましょうぞ」
日が傾き、夕餉の支度が始まる頃合いになっても、平蔵からの報せはまだ届かなかった。一夜厄介になることもあろうと、平蔵自身が言い残していた通りだと、頭ではわかっていながらも、竹千代は、努めて平静な顔を保ちながら、西の空を幾度となく見やらずにはいられなかった。
三
夕餉を終えた後も、平蔵からの報せは届かなかった。竹千代は、募る案じを表に出さぬよう努めながら、松丸の部屋を訪ねた。
「兄上、折衝記録の整理、少しお手伝いいたしましょうか」
松丸は文机に向かったまま、竹千代の申し出に苦笑した。「お主も、平蔵殿のことが気にかかって仕方ないのであろう。まあ、よい。手が空いておるなら、頼もうか」
二人は燭台の灯りを挟んで向かい合い、これまでの交渉記録を一枚ずつ確認しながら整理していった。井堰の起請文、隣村との薪炭融通の覚書、薬師紹介の礼状の写し。竹千代は、その一つひとつに目を通しながら、そろばんを使って各件の恩義の重さを、独自の基準で数値化し、帳面の余白に書き加えていった。銭に置き換えればどれほどの値打ちになるか、そして相手がどれほど深く恩に着ているか。その両面を、上中下の三段階に分けて書き記すというのが、竹千代なりの物差しであった。
「これは……何をしておる」松丸が怪訝そうに問うた。
「恩義にも、軽重があると存じます。銭に換えれば幾らほどの価値か、あるいは相手にとってどれほど深い恩と映るか。そうしたものを整理しておけば、いざという時、どの筋にどれほど頼れるか、一目でわかりましょう」
松丸は、弟の帳面を覗き込み、感心したように頷いた。「相変わらず、お主の頭の中は、儂には計り知れぬ理屈で出来ておるな。じゃが、確かに理には適うておる」
作業を進めるうちに、松丸がふと筆を止め、静かに口を開いた。
「竹千代……平蔵殿のこと、案じておるのであろう」
竹千代は手を止め、小さく頷いた。「はい。師を、危うい場所へ送り出してしまったのではないかと」
松丸は、弟の肩に軽く手を置いた。「平蔵殿ほどの御方が、旧友への便り一つに手間取ったとて、驚くには当たらぬ。案ずるより、こうして手を動かしておる方が、よほど気も紛れよう」
その言葉に、竹千代は静かに頷き、再び帳面へと目を落とした。灯心の油が爆ぜる音だけが、静かな部屋に響いていた。
竹千代は帳面に記された数々の恩義の項目、隣村名主への薬師紹介、拳母商人との縁、村人たちとの信頼を見つめながら、ふと筆を止めた。ならば、平蔵殿への恩は、いったいどれほどの重さになるのだろうか。
そう考えた途端、竹千代の口元に、思わず苦い笑みが浮かんだ。
「……ふっ。この台帳、平蔵殿の分だけは、書きようがございませぬな」
松丸が怪訝そうに顔を上げる。「如何した」
竹千代は、帳面の白紙の一角を指先でなぞりながら、独り言のように呟いた。
「隣村や商人への恩義は、銭や品、あるいは口添えという形で、いずれ返せましょう。じゃが、平蔵殿が拙者に注いでくださったもの。幼き日より剣を、槍を、そして命がけの実戦の術までも余さず伝授くださり、しまいには同志の誓いとまで仰ってくださった、あの絆は」
竹千代は帳面から目を上げ、静かに続けた。
「一生かかっても、返しきれぬものにございましょうな」
松丸は、弟のその言葉に、しばし黙って耳を傾けていたが、やがて穏やかに口を開いた。
「竹千代。恩というは、必ずしも同じ形で返さねばならぬものではあるまい。平蔵殿がお主に望んでおられるのは、銭でも品でもなく、お主が、お主らしく、確かに生き抜いていく姿そのものではないか」
その言葉は、竹千代の胸に静かに染み入った。前世の理屈でいえば、恩返しとは、受けたものに見合う対価を差し出すことだった。しかし、この時代に生きる平蔵という一人の武辺者が竹千代に望むものは、そうした損得の勘定を超えたところにあるのかもしれない。
「……兄上の仰る通りにございますな」
竹千代は小さく頷き、帳面の平蔵の項目には、あえて何も書き込まず、ただ余白のままにしておくことにした。数値では測れぬものが、確かにそこにあるのだと、自らに刻みつけるように。
四
夜はさらに更け、外では冷え込みが一段と厳しさを増していた。囲炉裏の残り火も弱まりつつあったが、竹千代と松丸は燭台の灯りを頼りに、なおも折衝記録の束と向き合い続けた。
作業を進めるうち、竹千代は思わぬ発見をした。二年前、拳母の普請奉行に人足を無償で貸し出した一件の記録の裏に、松丸の几帳面な筆で、当時のやり取りの詳細な覚書が残されていたのだ。奉行が漏らした「いずれ何かの折には」という言葉に加え、「この奉行、今川家中でも治水・普請に明るく、代官筋にも顔が利く」という松丸独自の人物評まで記されている。
「兄上、これは……普請奉行殿、思うたよりも使える筋やもしれませぬ」
松丸は、竹千代が指し示した記述を覗き込み、当時を思い出すように目を細めた。「ああ、あの折のことか。父上の名代で儂が立ち会うたのじゃが、なかなかに実直な御仁であった。今川家中でも、武張った者たちとは一線を画す、実務肌の人物と見た」
二人はさらに記録を遡り、他にも小さな恩義や、これまで見過ごしていた人脈の断片を幾つか掘り起こしていった。手習い師匠が紹介した津島の薬師の伝手、隣村名主を通じた遠縁の郷士。一つひとつは小さくとも、繋ぎ合わせれば、思いのほか広がりのある人脈の地図が浮かび上がってきた。
竹千代は、これらの情報を丁寧に恩義台帳へと書き加えながら、ふと呟いた。
「兄上の記録がなければ、こうした細やかな筋は、すべて埋もれておったやもしれませぬな」
松丸は、その言葉に、いくらか照れくさそうに鼻を鳴らした。「地味な仕事じゃが、こういう時のために、日々書き溜めておったのじゃ。役に立ったのなら、何よりよ」
夜半近くになり、二人はようやく作業に区切りをつけた。恩義台帳には、当初の三筋に加え、拳母の普請奉行という新たな有望な線が書き加えられていた。しかし、それでも平蔵からの報せは、まだ届かないままであった。
竹千代は帳面を閉じ、冷え切った指先に息を吹きかけながら、窓の外の闇に目をやった。雪はいつしか降り止み、雲間から覗く月明かりが、庭先の霜柱をわずかに照らしている。師の無事を祈る他に、今の自分にできることはない。そう分かっていても、胸の奥にわだかまる案じは、容易には消えなかった。
「兄上、今宵はこれにて。……また、明日」
竹千代は松丸に一礼し、自室へと戻る廊下を歩いた。深閑と静まり返った館の中、平蔵からの報せを乗せた足音が、まだどこからも聞こえてはこなかった。




