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三河の片隅で、家族を守る――その名はまだ誰も知らない  作者: 可可多


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第十八話 名簿

一


翌日、竹千代は平蔵を伴い、裏山へと足を向けた。今回は商いのための狩りというより、心を落ち着け、頭の中を整理するための山歩きに近かった。雪は昨日よりもやや小止みで、木々の梢から時折落ちる雪塊が、静寂の中に鈍い音を響かせる。


獣道を辿りながら、二人はしばらく無言で歩を進めた。竹千代の目は自然と、雪面に残る獣の足跡へと向かう。旋風槍の間合いを頭の中で測りつつ、ふと口を開いた。


「平蔵殿。副産物出荷は形になり申した。じゃが、これで阿久居が真に豊かになったとは、まだ言い切れませぬな」


平蔵は雪を踏みしめながら、静かに応じた。「うむ。銭が回るようになっても、今川の軍役がその分だけ食い潰していく。まことの豊かさとは、また別の話であろうな」


竹千代は頷いた。稼ぎを増やすだけでは片手落ちである。今川への供出という名の重石を、どう受け流し、あるいは軽くするかも合わせて考えねばならない。


「たとえば……武具や馬匹の不足を、自前で補える仕組みがあれば、今川の求めに応じる際も、余計な借銭をせずに済みましょう」


平蔵はふと足を止め、獣の足跡を検分しながら答えた。「馬か……。この辺りの野には、時折、野生に近い駄馬が迷い込むこともある。飼い慣らせれば、多少は足しになろう。じゃが、飼葉と厩の普請にも銭がかかる。安直な話ではないぞ」


竹千代は、その現実的な指摘に苦笑した。理屈だけでは動かぬのが、この時代の常であった。


「では、まずは村の者たちの技を活かす道はいかがでしょう。じさまの木組みの技、彦太の算術、村人の力仕事……それぞれの得手を、もっと組み合わせられれば」


平蔵は感心したように竹千代を見やった。「竹は、いつも人の力の使い道を考えておるな。武芸だけでなく、そういう眼も、儂には真似のできぬところよ」


そう語らううちに、雪の斜面の向こうに、一匹の兎の足跡を見つけた。竹千代は静かに槍を構え直し、呼吸を整えた。兎は雪面に佇み、耳をぴくりと動かして周囲を警戒している。旋風槍の間合いには十分入っていたが、獲物が小さい分、狙いはより繊細さを要した。腰の捻転、肩の開き、指先が穂先を離れる刹那。先日の無拍子のような超越した感覚はなかったが、幾千と積み重ねてきた型の精度が、迷いなく穂先を導いた。


穂先は雪を跳ね上げながら兎を仕留め、平蔵が「見事」と短く呟いた。竹千代は獲物を回収しながら、先ほどの雑談の続きへと思考を戻した。


「平蔵殿、馬匹の件、飼葉の目処が立たぬなら、いっそ村の休耕地の一部を、飼葉用の草地に充ててはいかがでしょう」


平蔵は雪を払いながら、しばし考え込んだ。「休耕地か……。あそこは水はけが悪く、米には向かぬ土地じゃったな。飼葉なら、あるいは」


竹千代は頷きながら、頭の中でさらに算段を組み立てた。休耕地を完全に遊ばせるより、家畜の飼料となる草を育てる方が、土地の力を落とさず、かつ実利も生む。ただし、これもまだ思いつきの域を出ず、実際に村人たちが休耕地の用途変更を受け入れるかどうかは、また別の壁であろう。


「村人の技の組み合わせについても、たとえばじさまの木組みの技を使えば、簡素な厩くらいなら、大掛かりな普請をせずとも組めましょう。彦太には、飼葉と馬の出入りを帳面につけさせれば、良い実務経験にもなりまする」


平蔵は感心したように竹千代を見やった。「一つの思いつきから、次々と絵図が広がっていくのう。じゃが」


平蔵はふと表情を引き締めた。「これもまた、井堰や副産物出荷と同じよ。思いつきだけでは動かぬ。父上への相談、村人の得心、そして何より、今の家の余力で無理なく回せるかどうか、それを見極めねば、絵に描いた餅で終わろう」


竹千代は素直に頷いた。師の言葉は、いつも浮つきかけた心を地に足つけさせてくれる。獲物を背負い、二人は雪道を戻りながら、新たな構想の輪郭を静かに温めていった。


竹千代は兎を担ぎ直しながら、ふと隣を歩く平蔵の横顔を見やった。休耕地の転用、飼葉、厩普請、思いつきの段階に過ぎぬ話を、この師はいつも真剣に、そして時に厳しく受け止めてくれる。それは、決して当たり前のことではないと、竹千代は改めて思った。


「平蔵殿。いつも、拙者の突飛な思いつきに、根気強く耳を傾けてくださり、かたじけのうございます。荒唐無稽な話も多かろうに」


平蔵は一瞬、意外そうな顔をしたが、やがて隻眼を細めて、静かに笑った。


「なんの。竹の思いつきは、荒唐無稽に見えて、いつも地に足のついた理屈が芯にある。ただ、それを形にするまでの道のりが、常人よりも幾段も先を見ておるだけよ。儂はただ、その先走りすぎた足を、現の速さに合わせて引き留めておるに過ぎぬ」


その言葉には、師としての誇りと、深い信頼が滲んでいた。竹千代は、胸の内が温かくなるのを感じながら、素直に頭を下げた。


二人は笑い合いながら、雪道を阿久居館へと戻っていった。夕暮れの空はすでに茜色から藍色へと移ろい始め、館の煙出しからは、夕餉の支度の煙が細く立ち上っているのが遠くに見えた。館に着くと、老爺や下男たちが出迎え、兎の獲物に「今宵は良い汁物になりましょうな」と相好を崩した。厳冬の一日は、こうして小さな実りと、確かな絆の積み重ねと共に、静かに暮れていった。


二


狩りの翌朝、阿久居館には穏やかな冬の光が差し込んでいた。竹千代は早朝の水浴びを終え、囲炉裏端で温かい粥をすすりながら、これからの一日の段取りを頭の中で組み立てていた。副産物出荷は完成域に達し、家中の空気にも一時の落ち着きが戻りつつある。


そこへ、松丸が折衝記録の束を抱えて姿を見せた。心なしか、いつもより表情が硬い。


「竹千代。少し話がある。今川の使者について、新たな動きがあったようじゃ」


竹千代は箸を止め、兄の顔を見つめた。松丸の声には、これまでの時稼ぎが順調に進んでいるという安心感とは違う、微かな緊張が滲んでいた。


「父上のもとに、昨夜遅く、隣郷の郷士殿から内々の報せが届いたそうな。今川方が、三河国内の郷士の子弟について、あらためて武芸に秀でた者の名簿を作り直しておるとの由。お主の名も、そこに含まれておるやもしれぬ」


竹千代は、粥の椀を静かに置いた。拳母での商談、猪の由緒、奉納組太刀の圧勝。積み重ねてきた誉れが、良くも悪くも、今川方の関心をこれまで以上に引き寄せつつあるということか。


「父上は、今、いかがなされておりましょう」


「書斎で、隣郷の郷士殿への返状を認めておられる。詳しい話を聞きたければ、今のうちがよかろう」


竹千代は椀を置き、静かに立ち上がった。厳冬の平穏の中にも、確かに次の波が近づいてきている。その予感を胸に、父の書斎へと向かう足取りを速めた。


竹千代は松丸と共に平蔵の詰所へ立ち寄り、事情を手短に伝えた。平蔵の隻眼が瞬時に鋭さを増す。「名簿とな」低く呟くと、得物には手をかけず、しかし身の内に張り詰めた緊張を漂わせながら、竹千代に続いて父の書斎へと向かった。


書斎の障子を開けると、弥左衛門は文机に向かい、筆を握ったまま、しかしその筆先は止まっていた。傍らには、隣郷の郷士から届いたという書状が広げられている。竹千代たちの姿を見ると、弥左衛門は疲れた目を上げた。


「竹千代、平蔵。ちょうどよい。お主たちの耳にも入れねばと思うておった」


弥左衛門は書状を手に取り、要点を語った。今川家が三河国内の郷士・地侍の子弟について、武芸・器量に優れた者の名簿を再編しているという。表向きは今川家の武備充実のためとされているが、隣郷の郷士が漏れ聞いたところによれば、実質は召し抱えの対象者を絞り込む動きであるらしい。そして、竹千代の名が、その候補として噂に上っているという。


「奉納組太刀の一件、拳母での猪の由緒。お主の評判が、いよいよ今川方の目に留まりつつあるようじゃ」


弥左衛門の声には、隠しきれぬ苦渋があった。かつて自ら決めた誉れの活用方針が、皮肉にも、今川方の関心をさらに引き寄せる結果を招きつつあるのかもしれない。


平蔵が沈黙を破った。「殿。名簿に載ったとて、即座に召し出されるわけではございますまい。これまで通り元服前、跡目未定を盾に、時を稼ぐ道はまだ残っておりましょう」


「うむ、それはそうじゃ」弥左衛門は頷きつつも、眉間の皺を深めた。「じゃが、名簿に載るということは、今川方の意識に、いずれ召し抱えるべき駒として刻まれるということ。これまでよりも、先延ばしは難しくなろう」


竹千代は静かに、しかし確かな声で問うた。


「父上。この一件、拙者にできることはございましょうか」


弥左衛門は暫し竹千代を見つめ、やがて静かに答えた。「今は、お主が下手に動かぬことこそが、最善やもしれぬ。派手な評判を、これ以上重ねぬことじゃ」


竹千代は、父の目立たぬことという方針に、素直には頷けなかった。ただ縮こまって嵐が過ぎるのを待つだけでは、根本の問題は何一つ解決しない。むしろ、今川方が動くよりも先に、こちらから打てる手を探るべきではないか。そう思い至り、竹千代は改めて父に向き直った。


「父上のご判断、重々承知いたしております。されどただ息を潜め、召し出しの使者が来るのをじっと待つのみでは、いずれ運が尽きた時、ただ言われるがままに従うほかなくなりましょう。いま少し、こちらから試せることがあるのではと、拙者は思うのですが」


弥左衛門は、次男のその物言いに、驚いたように眉を上げた。「試す、とな。何をじゃ」


竹千代は、これまで頭の片隅にあった幾つかの考えを、言葉にして並べ始めた。


「たとえば、今川方の中にも、我が家に恩義や誼を持つ者がおらぬか、改めて洗い出してみるのはいかがでしょう。井堰の一件で恩を売った隣村名主、津島の薬師の伝手、拳母の商人衆。今川領内の様々な筋を辿れば、名簿の運用に関わる誰かに、それとなく口添えを頼める道があるやもしれませぬ」


平蔵が思案顔で口を挟んだ。「なるほど。直接に召し抱えを拒む力はなくとも、まだ手をつけずともよい駒と、名簿の順位を後ろに回してもらう程度の細工は、あり得るやもしれませぬな」


竹千代はさらに続けた。「加えて、松丸兄上が家督を継ぐ支度をより明確に進め、阿久居家の後継は既に定まりつつあるという体裁を強めれば、拙者が跡目未定の予備ではなく、すでに役割を持つ者であるとの印象を与え、多少なりとも先延ばしの理屈が強まりましょう」


弥左衛門は暫し腕を組み、次男の提案を吟味していたが、やがて重々しく口を開いた。


「……ただ待つより、能動的に手を打つ、か。危うさもあるが、一理ある。ただし、いずれの策も、慎重に、目立たぬ形で進めねばならぬぞ。表立って今川方に働きかければ、かえって何やら企んでおる家と勘繰られよう」


竹千代は深く頭を下げた。「心得ましてございます。まずは、恩義ある筋の洗い出しから始めとうございます」


三


書斎を辞し、廊下に出たところで、竹千代は平蔵と松丸の二人だけになったのを見計らい、それまで押し殺していた本音を、思わずぽつりと漏らした。


「目立たぬように、か。難しいのう」


竹千代は苦笑いを浮かべ、ふうと息を吐いた。


「井堰の改修然り、流水無形然り、副産物出荷然り。振り返れば、拙者はこれまで、目立つことしかしてこなんだ。目立たぬように立ち回る術など、正直、心得ておらぬのやもしれぬ」


その率直な吐露に、松丸は一瞬、目を丸くしたが、やがて小さく噴き出した。


「今さら気づいたか、竹千代。お主は物心ついた頃から、そろばん無双だと、周囲を驚かせてばかりであったわ。目立たぬというのは、お主にとって、いっそ一番難しい芸当やもしれぬな」


平蔵も、隻眼を細めて頷いた。「まことに。竹の才は、隠そうとしても、自ずと滲み出てしまう類のもの。今度ばかりは、それだけでは足らぬやもしれぬな」


竹千代は、二人の言葉に、どこか自嘲めいた笑みを浮かべた。


「なるほど。ならば、無理に目立たぬ者を演じるのではなく、目立ちはすれど、御しやすくはない者として、うまく折り合いをつけるほかないのやもしれぬ」


先だって三人で語り合った御しやすからぬ家の理屈が、ここへ来て改めて腑に落ちる。目立つことそのものを消し去るのではなく、目立ち方を制御し、力と節度を併せ持つ姿を、これからも慎重に保っていく。それが、竹千代にできる、唯一現実的な道なのだろう。


松丸が竹千代の肩を軽く叩いた。「案ずるな。お主一人に背負わせはせぬ。儂も平蔵殿も、共に知恵を絞ろうぞ」


その言葉に、竹千代は静かに頷いた。廊下の向こうから、夕餉の支度を告げる下女の声が聞こえてきた。


四


廊下での語らいを終え、竹千代は平蔵と松丸を伴い、恩義ある伝手の洗い出しに取り掛かることにした。まず頭に浮かんだのは、隣村の名主と甚兵衛の存在である。井堰の一件、そして病がちな跡取り息子への薬師紹介。積み重ねてきた恩義は、決して小さくない。


「まずは、甚兵衛どのの筋を辿るのが早道でございましょう。隣村は今川方の代官とも、それなりの付き合いがあるはず」


平蔵が頷いた。「うむ。じゃが、恩義を頼るというのも、加減が難しい。無理強いと取られれば、かえって心証を損ねよう」


松丸も付け加えた。「儂も、折衝記録の中に、他に恩義を通じておる筋がないか、今一度洗い直してみよう」


三人は連れ立って松丸の部屋へと戻り、燭台の灯りを寄せ集めるようにして、折衝記録の束を広げた。井堰改修に始まり、隣村との水利分水、薬師紹介、薪炭融通。これまで阿久居家が積み重ねてきた交渉と恩義の記録が、細かな筆致でびっしりと綴られている。


松丸が記録を一枚ずつめくりながら、記憶を辿るように語った。


「隣村名主殿と甚兵衛どのの一件は、お主も承知の通り。ほかに、そういえば二年前、拳母の普請奉行が、洪水で流された橋の修繕に難儀しておった折、うちの人足を数名、無償で貸し出したことがあったな」


竹千代は、その記述に目を留めた。「普請奉行……今川方の作事に関わる役人でございますな。それは存じませなんだ」


松丸は頷いた。「記録によれば、父上が、当時の当主として決めたことじゃ。見返りは求めなんだが、奉行殿からは、いずれ何かの折にはという、口約束めいた言葉を頂戴しておる」


平蔵も記憶を手繰るように言った。「そういえば、儂の古い知己に、今川方の足軽組頭を務めておる者がおる。若い頃、共に戦場を駆けた仲でな。今も年に一度ほど、便りのやり取りをしておる」


竹千代は、これらの情報を帳面に書き留めながら、頭の中で恩義の地図を描いていった。隣村名主、拳母の普請奉行、平蔵の旧友の足軽組頭。いずれも直接に名簿の運用を左右する立場ではないが、今川方の内情や、名簿がどのように扱われているかを、それとなく探る糸口にはなりうる。


「まずは、危うさの少ない筋から当たるべきでしょうな」竹千代は言った。「平蔵殿の旧友は、身分は高くはございませぬが、それゆえに気安く話を聞けるやもしれませぬ。まずはそちらから、それとなく探りを入れてはいかがでしょう」


松丸も同意した。「うむ。奉行殿への働きかけは、こちらから恩を着せがましく持ち出せば、かえって角が立とう。まずは平蔵殿の伝手を試すのが穏当か」


夜も更け、三人はひとまずこの方針で合意し、記録を丁寧に畳んだ。


五


竹千代は松丸と平蔵を伴い、松丸の部屋にあった記録の写しを携えて、再び父の書斎へと向かった。夜も更け、燭台の灯りが弥左衛門の疲れた顔を柔らかく照らし出している。竹千代は洗い出した三つの筋、隣村名主、拳母の普請奉行、平蔵の旧友である足軽組頭について、順を追って報告した。


「父上。この中では、平蔵殿の旧友である足軽組頭殿への接触が、最も危うさが少なく、かつ今川方内部の生の様子を伺える見込みがあろうかと存じます。まずはこちらから、それとなく探りを入れてはいかがかと」


弥左衛門は、松丸が携えてきた記録の写しを暫し検分し、腕を組んで考え込んだ。「うむ。普請奉行殿への働きかけは、こちらから恩を持ち出せば角が立つというお主らの見立て、儂も同感じゃ。隣村名主殿は、すでに幾度も世話になっておる筋、あまり立て続けに頼るのも考えものよ」


弥左衛門はしばし黙考した後、静かに頷いた。


「よかろう。平蔵の旧友殿への接触から始めよ。ただし、くれぐれも慎重にな。あくまで世間話のついでという体裁を崩すでないぞ。こちらが焦っておると悟られれば、かえって藪をつつくことになりかねぬ」


竹千代は深く頭を下げた。「心得ましてございます」


平蔵も一礼した。「殿のご了承、確かに賜りました。旧友への文、早速したためましょう」


弥左衛門は、三人の顔を順に見やり、ふと表情を和らげた。「お主たち三人が、こうして力を合わせて動いてくれること、この父、心強く思うておる。今川の重圧は厳しいが、一人で抱え込むよりも、幾分か気が楽じゃ」


その言葉に、竹千代、松丸、平蔵は、それぞれに小さく頷いた。書斎の外では、夜の静けさの中、遠く犬の遠吠えが一声響いていた。


竹千代は、ふと思い至って言葉を挟んだ。


「父上、平蔵殿。文をしたためるとなれば、それが後々どこぞに残ってしまう恐れもございましょう。今川方の内情を探るような文言が、万一にも人目に触れれば、かえって藪をつつくどころか、藪から蛇が飛び出すことにもなりかねませぬ」


弥左衛門は、その指摘に、はっとしたように顔を上げた。「なるほど。確かに、文というは、いったん手を離れれば、どこでどう扱われるかわからぬものよ」


平蔵も深く頷いた。「若様の申される通り。ここは、文などという証を残さず、儂が直に足を運び、口伝えで探りを入れるが穏当でございましょう」


弥左衛門は暫し思案した後、静かに命じた。「よかろう、平蔵。お主自ら赴け。ただし、あくまで世間話のついで、旧交を温めるだけの体で行くのじゃぞ。決してこちらから焦った様子を見せるでない」


「心得ましてございます」


平蔵は一礼し、旅支度の算段を頭の中で組み立て始めた。旧友の足軽組頭が駐屯する陣所は、拳母よりもさらに西、今川方の直轄地に近い場所にあるという。厳冬の道中、片道半日ほどの行程になろうか。


「明朝、発ちまする。若様は、留守の間、くれぐれも目立たぬよう、いつも通りの日々をお過ごしくだされ」


竹千代は頷いた。師が単身、今川方の目と鼻の先へと赴く。それは決して軽い頼みではないと、改めて胸に刻んだ。


「平蔵殿。くれぐれも、お気をつけて。何かあれば、決して無理をなさらぬよう」


平蔵は、竹千代のその言葉に、片目を細めて笑った。「案ずるな、若様。この老いぼれ、まだそう容易くはくたばりませぬ」

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