↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三河の片隅で、家族を守る――その名はまだ誰も知らない  作者: 可可多


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
19/54

第十七話 荷送りの仕組み

一

慌ただしかった数日を経て、竹千代はあえて足取りを緩めることにした。今川方の圧力も、副産物出荷の仕上げも、焦って動かして良いことなど何一つない。しばしは地に足をつけ、日々の営みを丁寧に紡ぐ時期であった。


手習い所では、彦太が相変わらず熱心にそろばんへ向き合っていた。竹千代が顔を出すと、彦太は目を輝かせて木片帳面を差し出す。「若様! 昨日教えていただいた掛け算の帳付け、うまくできたと思うのですが」拙いながらも筋の通った計算が並ぶ帳面を見て、竹千代は素直に感心した。


「うむ、良い出来じゃ。じゃがここ、繰り上がりの珠の弾き方が甘い。もう一度、ゆるりとやってみよ」


竹千代は彦太の隣に腰を下ろし、そろばんの珠に指を添えて手ほどきを重ねた。


冷えた昼下がりには、老爺の作業小屋を訪ね、村の冬季備蓄について話し込んだ。井堰の恵みで二年連続の豊作を得たとはいえ、今川の軍役徴発が容赦なく蔵を圧迫している。竹千代はそろばんを片手に、各戸の蓄えを聞き取り、雑穀と乾物の配分を細かく調整する案を練った。


「じさま、この分では、雪深い月でも飢える家は出ますまい。ただ、薪の蓄えがいささか心許のうござる。裏山の間伐材を、今のうちに割っておくのが得策かと」


老爺は、竹千代の細やかな目配りに、深く頷いた。「若様の言う通りじゃ。若い衆を集めて、今のうちに薪割りを進めておこう」


そうした一日一日の積み重ねの中、阿久居郷には、緊迫の中にもささやかな穏やかさが戻りつつあった。


二

竹千代がふうと一息ついていると、視界の端に、お妙が慌ただしく廊下を行き来する姿が映った。いつもは手際よく立ち回る彼女が盥を抱えたまま、所在なげに廊下を往ったり来たりしている。何かに思い悩むようなその足取りに、竹千代は自然と声をかけていた。


「お妙、いかがした。そのように慌ただしゅうして」


声をかけると、お妙はハッとしたように足を止め、頬を上気させたまま振り返った。


「あ、若様、申し訳ございませぬ、お恥ずかしいところを。実は」


お妙は少し言い淀んだ後、事情を打ち明けた。今朝方、お蘭から言いつかっていた大事な言付け、今日中に隣の分家筋へ届けるはずだった反物の見本を、うっかり別の荷と取り違えて先に拳母行きの荷駄に紛れ込ませてしまったというのだ。すでに荷は老爺の手配で出発した後で、取り戻すには誰かが後を追わねばならない。


「奥方様には、まだお伝えしておらぬのですが、このままでは分家筋への義理を欠くことになりますし、かといって奥方様のお手を煩わせるのも」


お妙の声は焦りに震えていた。


竹千代は、お妙の狼狽ぶりに、ふっと肩の力が抜けるのを感じた。深刻な事態というより、日々の忙しさの中で起きた、ごく人間らしい小さな失敗である。


「案ずるな、お妙。荷駄はまだ遠くへは行っておるまい。平蔵殿に頼めば、馬を使ってすぐに追いつけよう。母上には、拙者から穏やかに伝えておく」


竹千代がそう告げると、お妙はほっと胸を撫で下ろし、深く頭を下げた。「かたじけのうございます、若様」


竹千代は一瞬、頭の中でそろばんを弾くように計算を巡らせた。荷駄が出立してから、どれほどの刻限が経っているか。老爺の牛の歩みは、雪道でさほど速くはない。ならば、己の脚力と流水無形で鍛え上げた体力をもってすれば、追いつけるのではないか。そんな考えが頭をよぎった。


だが、すぐに冷静な計算が待ったをかけた。拳母への道のりはおよそ二里半。牛車は確かに遅いが、すでに一刻近くの先行を許している。いかに摺り足と体幹操作に長けていようと、十一の体でその距離を全力疾走し続ければ、待っているのは追いつく前の脚の限界であろう。しかも道は凍結とぬかるみが入り混じり、平時の駆け足とは訳が違う。何より、当主の次男が供もつけず一人で街道を走り回っているところを、万一今川方の目に触れでもすれば、御しやすからぬ家どころか、無用な奇行として噂の種を撒くことになる。


竹千代は、逸る気持ちを飲み込み、頭を振った。


「いや、拙者が走るのは早計じゃな。平蔵殿の馬なら、はるかに確実じゃ」


自らの脚力を過信せず、適材適所で頼るべきところは頼る。竹千代は己の逸る心を戒めつつ、平蔵のもとへと向かうことにした。


板戸を叩く間ももどかしく声をかけると、槍の手入れをしていた平蔵が顔を上げる。


「平蔵殿、火急の頼みがござる」


事情を手短に語ると、平蔵はすぐさま得物を置き、厩へと足を向けた。「なるほど、承知した。馬なら、まだ十分に追いつけよう」


「竹は館に残られよ。万一、この一件が今川方や商人衆の耳に入っても、竹自らが騒ぎ立てたとあっては具合が悪い。ここは、儂一人で片付けるが得策」


竹千代は頷いた。逸る心を抑え、任せるべきところは任せる。先ほど自らに言い聞かせた判断を、平蔵もまた同じ理屈で口にしていた。


平蔵は馬に跨ると、雪煙を蹴立てて館の門を駆け出していった。その背を見送りながら、竹千代は白い息を吐き、拳を軽く握りしめた。あとは平蔵の技量と、荷駄の遅れを信じて待つほかない。


三

竹千代は詰所を出ると、まだ落ち着かぬ様子で廊下に立っていたお妙のもとへ戻った。


「お妙、もうよい。平蔵殿が追ってくださった、ほどなく片付こう」


竹千代は努めて穏やかな声で告げ、彼女の肩にそっと手を添えた。「そなたのせいばかりではない。忙しい中、あれもこれもと気を配っておれば、こうした行き違いも起こる。むしろ、すぐに気づいて拙者に伝えてくれたこと、それが何よりであった」


その言葉に、お妙の強張っていた肩から、少しずつ力が抜けていくのがわかった。「若様、かたじけのうございます」目にはまだ涙の膜が浮かんでいたが、先ほどまでの狼狽とは違う、安堵からくるものだった。


お妙が幾分落ち着きを取り戻したのを見届けると、竹千代はその足でお蘭のもとへ向かった。機織り部屋に入ると、お蘭は変わらず糸車と向き合っていたが、竹千代の少々改まった様子に、すぐに手を止めた。


「母上、実は先ほど、些細な行き違いがございまして」


竹千代は、努めて事を荒立てぬよう、淡々とした調子で経緯を語った。お蘭は眉をわずかに寄せたが、竹千代の落ち着いた説明に、大事には至らぬと察したようだった。


「まあ……お妙も、気ぜわしくしておりましたからね。荷が多く、あの子一人に任せすぎたのやもしれませぬ」


お蘭の口ぶりには、お妙を責める色はなく、むしろ己の差配を省みるような響きがあった。


「平蔵殿が戻り次第、また報告いたします。母上もどうか、お気になさらず」


お蘭は頷き、竹千代の頭を軽く撫でた。「お前が間に立ってくれると、随分と気が楽です」


竹千代は、この小さな行き違いを、単なる一過性の失態として片付けるのではなく、家中の仕組みそのものを見直す好機と捉えた。副産物出荷が本格化すれば、今後も荷の出入りはますます頻繁になる。同じ過ちを繰り返さぬための仕組みを、今のうちに整えておくべきだった。


竹千代は文机に向かい、そろばんではなく筆を取ると、木片帳面に「荷送り出し確認手順」の骨子を書き出し始めた。まず、荷を送り出す前に、必ず二人以上の目で内容物を確認すること。一人が読み上げ、もう一人が実物と照らし合わせる。次に、荷駄ごとに木札を付け、行き先と中身を簡潔に記す。出立の刻限も帳面に記録し、後から誰が何をいつ送ったか、一目でわかるようにする。


竹千代はその案を携え、まずお蘭とお妙のもとへ向かった。二人に説明すると、お蘭は帳面を覗き込み、感心したように頷いた。


「なるほど……木札で行き先を記しておけば、荷が幾重なっても迷いませんね」


お妙も、素直に頷いた。「わたくしも、これなら安堵して荷の支度ができまする」先ほどの失態を経験したばかりだけに、その言葉には実感がこもっていた。


さらに竹千代は、老爺のもとにも足を運び、輸送を担う人足たちにもこの手順を伝えるよう頼んだ。老爺は「若様の考えることは、いちいち理に適うておるわ」と笑いながら、快く請け合った。


夕刻、平蔵が反物の見本を無事に回収して戻ってきた。息を切らした馬の白い息と、平蔵の安堵の表情に、竹千代は深く礼を述べた。この一件の顛末を、竹千代は帳面の片隅に短く書き留めた。「教訓、確認は二人、木札は必須」小さな失敗が、家全体の仕組みを一段確かなものへと押し上げる糧となった。


四

竹千代は、初回の商談が好条件で成立したことに満足しつつも、これを一過性の取引で終わらせるのではなく、継続的な商いの関係へと育てるべきだと考えていた。一度限りの高値売りよりも、月々安定して品を卸せる間柄を築く方が、長い目で見れば阿久居家の実利にかなう。


平蔵と老爺を伴い、竹千代は再び拳母城下へと足を運んだ。今回は手土産として、村で作った上等な干し柿の一部を携えていく。番頭は竹千代たちの再訪に、多少の驚きと、商機を見出した目つきを見せた。


「これはこれは、若様。此度は何用で」


竹千代は単刀直入に、月に一度、決まった時期に塩蔵肉・毛皮・麻布をまとめて卸したい旨を切り出した。その決まった時期とは、甚兵衛から牛を借りられる月初の三日間を指す。この輸送の枠組みに合わせて出荷を組めば、毎月無理なく同じ調子で商いを回せる、という竹千代なりの目算があった。加えて、量と質を安定させる代わりに、他の商人へ売り込む前にまず番頭の店へ優先的に持ち込むという条件を提示した。番頭は算盤を弾きながら、しばし思案顔をしたが、やがて満足げに頷いた。


「なるほど……安定した品を、優先して融通いただけるとあらば、こちらとしても願ってもない話。値も、初回よりさらに色をつけましょう」


その場で、月初の取引という大まかな約定が交わされた。番頭はさらに、「若様のような御方が、こう気安く商いの話をしてくださるとは、正直驚き申した」と笑いながら本音をこぼした。目先の値切り合いだけでなく、竹千代の実務的で誠実な交渉姿勢そのものが、信頼の土台となりつつあった。


帰り道、平蔵が感慨深げに呟いた。「竹は、武芸だけでなく、商いの道でも、着実に己の地盤を築いておられる」竹千代は、その言葉に静かな手応えを感じながら、雪道を阿久居へと戻っていった。


五

竹千代は拳母から戻ると、まずその足で父・弥左衛門の書斎へと向かった。


「父上、只今戻りました。ご報告いたしたき儀がございます」


弥左衛門は帳面から顔を上げ、竹千代を迎え入れた。竹千代は居住まいを正し、拳母商人との継続取引がまとまったこと、月初ごとの安定した出荷体制が整ったこと、そして荷駄管理の仕組みも新たに整備したことを、順を追って淡々と報告した。


弥左衛門は暫し黙って聞いていたが、報告が終わると、深く長い息を吐いた。その顔には、隠しきれぬ安堵と、次男への底知れぬ信頼が滲んでいた。


「……よくやった、竹千代。軍役の重圧に喘ぐこの家に、確かな実入りの道筋をつけてくれた。これで、いくらかは息がつけよう」


父の声は、いつになく柔らかかった。竹千代は深く頭を下げ、「これも、父上と母上、平蔵殿、そして家中一同の支えあってのこと」と応えた。


その後、竹千代は父と共に居間へ向かい、家族全員、お蘭、お妙、松丸、そして平蔵を呼び集めた。囲炉裏を囲み、竹千代が改めて成果を語ると、お蘭は目を潤ませ、「これで、皆がもう少し楽になれましょうね」と呟いた。お妙も両手を合わせ、心から安堵した表情を見せる。松丸は「さすがは我が弟よ」と誇らしげに笑い、平蔵は隻眼を細めて、静かに頷くばかりであった。


囲炉裏の炭が爆ぜる音、家族の穏やかな笑い声、そして温かな白湯の湯気。厳冬の最中にありながら、この一室だけは、確かな温もりに満ちていた。今川方の圧力という暗雲は依然として垂れ込めているが、この夜だけは、家族と腹心が共に分ち合う、束の間の安らぎの時であった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。