第十六話 御しやすからぬ家
一
障子を開けると、松丸は文机に向かい、筆を走らせる手を止めて振り返った。十七になった兄の顔には、かつての少年らしさが薄れ、代わりに家督を継ぐ者としての落ち着きが宿り始めている。しかし、灯心の油をけちった薄暗い灯りの下で目を凝らす様子には、隠しきれぬ疲れも滲んでいた。
「竹千代か。平蔵殿も……如何した、揃って」
竹千代は敷居際で一礼し、まずは兄の手元にある折衝記録の束に目をやった。隣村との水利交渉、今川方への貢物の記録、家中の諸々の取り決め。細かな筆致でびっしりと書き込まれたそれらは、地味だが家の存続を支える大切な仕事であった。
「兄上、いつも御苦労にございます。この寒さの中、夜更けまで筆を執られる兄上のお姿を見るたび、頭が下がる思いにございます。折衝の記録一つひとつが、我が家の礎となっておりましょう」
松丸は、弟の素直な労いの言葉に、少々面食らったような顔をした後、照れ隠しのように鼻を鳴らした。「なんじゃ、藪から棒に。お主にそう言われると、どうにもむず痒いわ」とはいえ、まんざらでもない様子で、筆を置き、肩を軽く回して固まった体をほぐした。
竹千代は、下女が運んできた白湯を兄に差し出し、自らも椀を手に取った。湯気が薄暗い部屋にほのかに立ち上る。
「兄上も、この根詰めの作業、根を詰めすぎては体に障りましょう。たまには息抜きも肝要かと」
「お主に言われとうはないわ。夜な夜な素振りで血豆を潰しておった童が、何を今さら」
松丸のからかい混じりの返しに、竹千代も思わず苦笑した。互いの過去の無茶を知る兄弟だからこそ通じる軽口に、部屋の空気がわずかに緩んだ。平蔵も傍らで、静かにその様子を見守りながら、口元に穏やかな笑みを浮かべている。
二
白湯で喉を潤し、松丸の肩の強張りが幾分解けたところを見計らい、竹千代は居住まいを正した。
「兄上。実は、本日の拳母での商談について、折り入ってご相談したき儀がございます」
竹千代は順を追って語り始めた。拳母城下での商談の顛末、番頭に猪の由緒を明かしたこと、それが商人衆の間で噂として広まりつつあること、そしてこれを隠すのではなく、父の了承を得て阿久居家の誉れとして活用する方針に転じたことを、丁寧に、しかし要点を絞って説明した。
松丸は腕を組み、時折眉根を寄せながら、黙って耳を傾けていた。折衝記録の整理を任されているだけあって、こうした話を聞く姿勢には、家督を継ぐ者としての慎重さが滲んでいる。竹千代が語り終えると、松丸はしばし宙を見つめ、やがて口を開いた。
「……なるほどな。父上のお許しを得ておるとはいえ、これは薬にも毒にもなりかねぬ話ぞ」
松丸は白湯の椀を両手で包み、続けた。
「誉れとして押し出せば、なるほど侮りがたき家と見られよう。しかし、今川の目付がすでにお主に目をつけておるという状況で、さらに評判が広まれば、召し抱えれば役に立つという向こうの思惑を、かえって後押ししかねぬのではないか」
竹千代は、その指摘に静かに頷いた。父の懸念とも重なる、もっともな見立てだった。松丸は続けて、自らの折衝記録整理の経験から得た知見を口にした。
「隣村との交渉記録を見ておると、相手の出方というのは、こちらの格だけでなく御しやすさも見ておるものよ。武芸に優れ、産物も豊かで、しかも御しやすい、そう見られれば、召し抱えの圧力はむしろ強まろう。逆に、格はあるが一筋縄ではいかぬと思わせねば、誉れは仇となる」
松丸は白湯を一口含み、続けた。
「隣村との水利交渉でも、こちらの言い分をすべて通そうとした時は決まって反発を食らい、あえて譲れるところは譲った時に、かえってこちらの望む条件が通った例が幾つもある。力を見せるだけでは人は動かぬ」
竹千代は、兄の言葉に内心で唸った。単なる評判の善し悪しだけでなく、御しやすさという視点は、自分の算段には抜け落ちていた部分だった。
「兄上の仰る通りにございます。ならば、誉れを示すと同時に、容易くは動かぬ家であるという印象も、併せて醸さねばなりませぬな」
松丸は初めて、わずかに口元を緩めた。「うむ。その塩梅は、儂も折衝の記録を漁りながら、共に考えよう。……お主だけに背負わせるつもりはないぞ、竹千代」
その言葉に、竹千代は深く頭を下げた。兄弟の結束が、また一つ、確かな形を得た瞬間であった。
三
竹千代は平蔵に目配せし、三人でそのまま車座になった。灯心の油がわずかに爆ぜる音だけが響く中、松丸が折衝記録の束から筆を取り、白紙の裏に「御しやすからぬ家」の骨子を書き付け始めた。
「まず、武芸の面よ」松丸が口火を切った。「平蔵殿、今川方に対して、いたずらに技を誇示せず、されど侮られもせぬ振る舞いとは、如何なるものでござろう」
平蔵は隻眼を細め、腕を組んで暫し考え込んだ後、重々しく語り始めた。
「武辺者の間には、暗黙の作法がござる。技を隠すのではなく、見せる場を選ぶことよ。今回の猪の一件のように、由緒は語るが、詳しい手の内までは決して明かさぬ。組太刀の場でも、圧勝はすれど、とどめを刺すような無用な恥辱は与えぬ。強さと同時に、無闇に敵を作らぬ分別を示すことが肝要でござる」
竹千代は深く頷いた。力を見せつけるだけでは、かえって危険視される。力と同時に、節度と分別を示すことこそ、真の意味での侮りがたさなのだ。
松丸はさらに続けた。「内政の面でも同様であろう。井堰の一件、副産物出荷の一件、いずれも我が家の実利のみを追わず、隣村や商人衆にも相応の分け前・恩義を与えてきた。これは、阿久居は損得だけで動く家ではない、義理を通す家という評判にも繋がっておる。今川方とて、義理を重んじる家を無下に扱えば、他の郷士衆の心証を損ねよう」
「なるほど」竹千代は膝を打った。「では、今後も、力を示す時は必ず節度と義理を添える。それを一貫させることで、阿久居は力もあるが道理を弁えた御しにくい家という像を、時をかけて築いていくと」
平蔵が最後に付け加えた。「もう一つ、大事なことがござる。決して、こちらから今川方を挑発せぬこと。侮りがたさとは、静かに保つものであって、誇示するものではない。過ぎれば、それは驕りと映り、かえって仇となりましょうぞ」
三人は暫し、灯りの下で顔を見合わせた。誰からともなく、小さな頷きが交わされる。力と節度の両立、義理を通す評判の維持、決して挑発せぬ静かな構え。具体的な方針が、この夜、三人の間で確かに共有された。
四
竹千代は、真剣な話し合いの締めくくりに、ふと肩の力を抜くように軽口を叩いた。
「はは、いっそ、怪異でも退治して、皆から一気にあの若様は頼りになると評判を得られれば、簡単でございますのにな」
冗談のつもりだった。物の怪だ妖術だと、こちらが最も避けねばならぬ噂の種を、自ら軽々しく口にしてしまったことに、竹千代自身がすぐに気づいた。
言い終えた瞬間、部屋の空気がわずかに変わった。松丸は筆を止め、怪訝そうに眉をひそめた。平蔵の隻眼が、一瞬鋭く竹千代を見据える。
「竹……」平蔵の声は、いつもの穏やかな師のそれではなく、低く抑えた警告の色を帯びていた。「怪異、妖術という言葉、たとえ戯れであっても、この家の中で軽々しく口にするものではないぞ」
竹千代は、しまった、と内心で舌を打った。周囲の疑念をここまで慎重に抑え込んできたのは、他でもない物の怪、妖術使いといった告発の芽を、決して自ら生まぬためであった。それを、気の緩みからつい口にしてしまうとは、まさに詰めの甘さそのものである。
松丸もまた、静かに、しかし諭すように口を開いた。
「竹千代。お主のことじゃ、深い意味はなかろう。じゃが、言葉というは、いったん口から出れば、誰の耳に届くかわからぬ。下女や下男の耳に入り、尾鰭がついて広まれば、目も当てられぬ」
竹千代は、深く頭を下げた。
「……申し訳ございませぬ。全くもって、拙者の不用意な戯言にございました。以後、心して慎みまする」
平蔵は暫し竹千代を見つめた後、ふっと表情を緩めた。「よい。今宵はここだけの話じゃ。ただ、竹らしくもない、大した抜けようよ。よほど、本日は色々とござったと見える」
その言葉に、竹千代は苦笑いを浮かべるしかなかった。無拍子の一件、拳母の商談、家族との対話。今日一日で積み重なった心労が、思わぬところで小さな綻びとなって表れたのだと、自らを省みずにはいられなかった。
「申し訳ござらぬ。話の区切りに、いささか場を和ませようとして、かえって不調法な戯言となってしまいました」
その率直な詫びに、松丸は小さく笑い、平蔵も肩の力を抜いた。「なんの、竹が気を張り詰めてばかりでは、こちらも息が詰まる。悪気がないことは重々承知しておる。ただ、これに懲りて、次からは今少し言葉を選ばれよ」平蔵の声には、もう咎める色はなく、ただ穏やかな気遣いだけが残っていた。
松丸も筆を置き、書き付けを丁寧に畳みながら言った。「今宵はもう遅い。皆、今日は随分と働いたであろう。この続きは、また日を改めて詰めればよかろう」
竹千代は改めて二人に一礼し、白湯の椀を片付けると、静かに腰を上げた。廊下に出ると、冬の夜気が頬を刺すように冷たく、遠くで犬の遠吠えが一声、闇に響いて消えた。今日一日を振り返れば、無拍子の不思議な境地、拳母での商談、家族との深い対話、そして最後の小さな失態。目まぐるしいほどに多くのことが起きた一日だった。
自室に戻り、褥に体を横たえると、竹千代はすぐに睡魔に引き込まれていった。かすかに聞こえる木戸のきしみ、遠く厨から漂う残り火の匂い、そして家族それぞれの寝息。そうしたものに包まれながら、深く長い眠りへと落ちていった。




