第十五話 拳母の由緒
一
無拍子の余韻もそこそこに、竹千代は母屋の自室でそろばんと帳面を手元に引き寄せていた。金策の前に、まず「誰が、いつ、何を運ぶか」という人繰りの絵図を描かねば、絵に描いた餅で終わってしまう。
母・お蘭を筆頭に、下男や下女たちの日々の仕事を、竹千代は改めて一つひとつ書き出していった。機織りに費やす刻限、井堰の見廻り、薪割り、飯炊き、そして今川方への軍役供出に取られる人足の日数。それらを帳面に並べてみると、拳母城下への出荷という新たな仕事を、誰の手も潰さずに割り込ませる余地は、思いのほか薄いことが浮き彫りになった。
「母上。糸車を回す刻限を、少し早めていただくことはできましょうか。代わりに、機織りの合間の水汲みは、下女のおしのに任せまする」
お蘭は帳面を覗き込みながら、竹千代の手際に感心しつつも、一つ懸念を口にした。
「それはよいが、荷を拳母まで運ぶ人手と、馬はどうします。うちの馬は、先だって軍役で徴発されたばかりですよ」
その一言に、竹千代は思わず唸った。軍役による馬匹の徴発、これこそが副産物出荷構想の最大の隘路であった。牛馬なくして、重い塩蔵樽や毛皮を城下まで運ぶのは至難である。
竹千代は暫し考え込んだ後、老爺の顔を思い浮かべた。老爺の顔の広さを頼りに、隣村の甚兵衛から一頭、恩義のある薪炭融通の返礼として牛を借り受けられぬか。輸送の日程は、人足たちが軍役に取られていない合間、月初めの数日に絞り込むことで、無理なく回せるはずだ。竹千代は帳面に「隣村よりの牛借用交渉」「月初三日間集中輸送」と書き付け、老爺のもとへ相談に向かった。
二
「じさま、まことにかたじけない。この恩、忘れはせぬ」
十一の童とは思えぬ丁重な礼に、老爺は皺深い顔をくしゃりとさせ、大きな掌で竹千代の肩を軽く叩いた。
「なんの、なんの。若様には、儂ら百姓一同、これまで幾度も助けられてきた身。牛の一頭くらい、安いものよ」
翌日、老爺は自ら杖を突きながら、雪道を隣村へと向かった。竹千代は同行を申し出たが、「ここは儂に任されよ。若様が直々に頭を下げれば、かえって甚兵衛どのも気を遣いすぎて話がこじれる」と諭され、留守番を命じられる形となった。対等な百姓同士の頼み事という体裁の方が、かえって話がまとまりやすいという老爺の言い分にも一理あった。
夕刻、老爺は少し疲れた様子ながらも、満足げな顔で戻ってきた。
「甚兵衛どの、二つ返事とはいかなんだが、薪炭の融通と、若様の紹介した津島の薬師のおかげで跡取り息子の病が快方に向かっておること、深く恩に着ておられた。牛一頭、月初の三日間に限り、貸してくださるとの由じゃ」
ただし、と老爺は付け加えた。
「その代わり、帰りの荷にはいくらか、隣村への塩を分けてほしいとのことでな。向こうも冬場は塩に難儀しておるようじゃ」
竹千代は、その条件を聞いて内心で算盤を弾いた。塩を多少分けたところで、牛による輸送力の確保という利は、それを補って余りある。何より、隣村との互恵関係がさらに深まることは、今後の情勢を考えても悪い話ではなかった。
「よい取引じゃ、じさま。すぐにでも承知の返事をお届けしたい」
竹千代は帳面に「隣村・甚兵衛、牛一頭(月初三日間)、塩を分与」と書き記した。人繰りの絵図に、ようやく輸送という最後のひと駒が嵌まり込んだ。残るは、拳母城下の商人との実際の商談である。
三
出立の朝、竹千代は身支度を整えながら、今一度、母に自らの方針を伝えた。
「母上。値切られるようなら、ただ一言、こう申しまする。この干し肉と毛皮は、拙者と、その師である郷田平蔵殿が、自ら槍を振るって仕留めたものだ、と」
お蘭は一瞬、意味を測りかねる顔をしたが、やがて合点がいったように口元を緩めた。武辺者の狩った獲物という由緒は、ただの村の産物とは値打ちが違う。拳母城下の商人たちは、武名や逸話に銭を払う気風がある。お蘭は帳面に「郷田様同道」と一筆書き添え、深く頷いた。
「なるほど……お前は本当に、商いの筋が良いのですね……」
朝まだ暗いうちに、竹千代は身支度を整えた。数え年十一の郷士の子として、いつもより幾分改まった小袖を纏い、平蔵と共に拳母城下へと向かう道を歩き始める。阿久居から拳母までは、およそ二里半。雪解けと凍結を繰り返す道は所々でぬかるみ、荷を背負った人足の草鞋が泥に沈んでは、湿った音を立てて抜け出す。塩蔵樽と毛皮の束を積んだ荷車は、老爺が段取りをつけた牛に牽かれ、ゆっくりと進んだ。牛の白い息が、朝靄の中でひときわ濃く漂う。
拳母城下に入ると、竹千代は初めて目にする市の喧騒に、内心で圧倒された。前世の記憶にある近代的な商いとは違う、生々しく怒号の飛び交う値切り合いの世界。目当ての反物問屋の暖簾をくぐると、番頭らしき恰幅の良い男が、竹千代の幼さを見てあからさまに値踏みするような目を向けてきた。
「ほう……阿久居の郷士様の御子息が、じきじきにお越しとは。して、これなる荷は」
竹千代は臆することなく、樽の蓋を開けさせ、塩蔵の干し肉と丁寧に鞣された毛皮を検分させた。番頭の目が、品の良さにわずかに見開かれる。だが商人は商人、すぐに渋面を作って「これしきの品では、なかなか色をつけるのは」と値切りにかかった。
その時、竹千代は静かに、しかし確かな声で告げた。
「その猪、この平蔵殿と拙者が、裏山にて槍一本で仕留めたもの。並の猟師の罠にかかった獲物とは、獲り方が違いまする」
傍らに立つ平蔵の古傷ある片目と、鍛え上げられた体躯を目にした番頭の表情が、明らかに変わった。武辺者の手による獲物という逸話は、拳母のような城下町では、単なる肉以上の話の種として売れる。番頭は暫し算盤を弾き、やがて当初よりも幾分色をつけた値を提示してきた。
商談はまとまった。しかし帰り際、番頭が意味ありげに付け加えた一言が、竹千代の胸に小さな棘を残した。
「して、若様。次はいつ頃、また品をお持ちいただけますかな。それと、この由緒の話、他の商人衆にも広めてよろしいか。良い評判は、値を上げまするでな」
拳母からの帰路、竹千代は牛の手綱を引きながら、番頭の最後の一言を反芻していた。噂が広まることを恐れて縮こまるより、いっそこれを逆手に取れぬものか。今川の目付に注目されたのは、もはや取り返しのつかぬ既成事実。ならば、その注目を危険な兆候ではなく、阿久居家の格を示す誉れとして押し出す方が、かえって家のためになるのではないか。そうした算段が、道中の竹千代の頭の中で徐々に形を成していった。
四
阿久居館に戻ると、竹千代はその足で父の書斎へと向かった。囲炉裏の炭が赤々と燃える中、弥左衛門は今川への貢物目録を前に、疲れた顔でそろばんを弾いていたが、竹千代の帰宅を見ると、手を止めて向き直った。
「父上。拳母での商談、まずまずの首尾にて。ただ、一つご相談がございます」
竹千代は、商談の顛末と、猪の由緒が城下の商人衆に広まりつつあることを、包み隠さず報告した。弥左衛門の眉が、案の定、険しく寄る。
「噂が広まるとな……今川の目付が、すでにお主の組太刀の一件で目をつけておるというに、これ以上目立つことは危うくはないか」
竹千代はしかし、静かに首を振った。
「父上。すでに広まりつつある噂を、今さら押し留めることは叶いませぬ。ならばいっそ、これを阿久居家の郷士としての誉れとして、堂々と押し出してはいかがでしょう。武芸に秀でた息子を持つ家、豊かな産物を持つ家、そう見られることは、今川方に召し抱えるべき有望株としてだけでなく、下手に手を出せば厄介な、地に足のついた家としても映るはず」
弥左衛門は、暫し腕を組んで考え込んだ。次男の理屈は、危うさを孕みながらも、一理あった。弱く見えれば軍役の徴発はますます厳しくなり、召し抱えの圧力も止まらぬ。ならばむしろ、相応の格と実力を示すことで、今川方に無理に組み伏せるより味方として遇した方が得と思わせる道もあり得よう。
「……危うい賭けじゃが」弥左衛門は低く唸るように言った。「お主の申す理屈、わからぬではない。ただし、やりすぎは禁物ぞ。誉れと驕りは紙一重、今川の目付が生意気な郷士と見れば、かえって心証を損ねる」
竹千代は深く頭を下げた。父の了承と、そこに込められた慎重な釘は、確かに受け止めた。
五
書斎を辞し、廊下の冷たい板敷きを踏みながら、竹千代はふうと大きく息を吐いた。傍らに控えていた平蔵に向かい、苦笑混じりにこぼす。
「平蔵殿……拙者、少し急いてしまいましたかな。無拍子の一件といい、今日の父上への進言といい、我ながら気が逸り過ぎておるようで。悪い癖ですな」
平蔵は、竹千代の反省の弁に、隻眼を細めて小さく笑った。
「竹のそれは、悪い癖というより、まあ、若さゆえの性分でござろうな。ただ、急いた分だけ、後で立ち止まって省みる。それができるならば、十分に大したものよ」
その言葉に、竹千代は少し肩の力を抜いた。師の言う通り、勢いのままに突き進むだけでなく、こうして一つひとつ確かめながら進むことこそ、これまで積み重ねてきた自分のやり方だったはずだ。
「さて」竹千代は気を取り直し、廊下の先、兄・松丸の部屋の方角を見やった。「父上への進言、兄上にも伝えねばなりませぬな。家督を継ぐお方が、いきなり家の誉れとして噂を利用するなどという話を、余所から耳にするのは具合が悪い」
竹千代は下女に声をかけ、白湯を温めるよう頼んだ。この寒さの中、茶と呼べるほどの上等な葉はないが、せめて温かい湯を用意し、兄との語らいの場を整えるつもりだった。
「平蔵殿もご同席くださらぬか。今日の一件、兄上にどう伝えるべきか、拙者一人では言葉が足りぬやもしれませぬ」
平蔵は頷き、二人は連れ立って松丸の部屋へと向かった。障子越しに灯りが漏れ、筆を走らせる音がかすかに聞こえてくる。折衝記録の整理に励む兄の背に、これから伝えねばならぬ話の重みを思いながら、竹千代は静かに障子に手をかけた。




