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三河の片隅で、家族を守る――その名はまだ誰も知らない  作者: 可可多


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第十四話 拍子なきひと突き

一

永禄元年、師走。阿久居郷は、去年にも増して深い霜に閉ざされていた。竹千代はその朝も卯の刻(うのこく)に目を覚まし、板間に薄く積もった霜を素足で踏みながら、井戸端で水を浴びる日課をこなす。肌を刺す冷水も、前世由来の「緩急の理」に従えば、鍛錬の一部でしかない。


母屋の奥では、お蘭が織機の前に座り、麻布を織る手を休めずに動かしていた。傍らには、竹千代が去年提案した「糸の共同仕入れ」の帳面が置かれ、そろばんの珠が乾いた音を立てている。かつては仲買人に買い叩かれるだけだった内職は、今や具体的な出荷の形を帯びつつあった。しかし、その帳面をめくるお蘭の指先は、かすかに強張っていた。


「竹千代……今年はまた、馬一頭分の飼葉と、人足二名を出せとの触れが来たようで、父上は昨夜から、眠れぬご様子です」


去年の触れよりも、明らかに重い。二年続きの豊作でいくらかの蓄えはあるとはいえ、今川の徴発は年を追うごとに苛烈さを増している。


竹千代がお蘭に頷き返して母屋を後にすると、裏の納屋では平蔵が槍の穂先を布で磨きながら、遠く西の空を睨んでいた。


「竹。あの奉納組太刀の一件以来、今川の目付が拳母城下でも我らの噂を嗅ぎ回っておるとの由、まだ収まっておらぬ。用心なされよ」


去年の暮れに漏れ聞いた警告が、まだ生きていた。竹千代は頷きながらも、心のどこかで、それを差し迫った危うさとして受け止めきれずにいた。


二

その日の昼過ぎ、竹千代は平蔵と共に、いつもの裏山へ猪を求めて分け入った。谷筋に大猪の気配を捉え、旋風槍の間合いで一投、穂先を突き立てる。手負いの猪を追って斜面を駆け下りるうち、二人は思いのほか郷の境を越えた尾根筋にまで踏み込んでいた。


平蔵が不意に片手を上げ、竹千代を制した。谷の向こう、雪明かりに浮かぶのは、今川方の物資を運ぶ小人数の巡察の列だった。


二人は声を殺し、身を潜めた。獲物の血の跡はまだ続いていたが、平蔵は静かに首を振る。竹千代も頷き、仕留めかけた猪の一部をその場に残したまま、音もなく引き返す道を選んだ。


「危ういところであった。あの列に見咎められれば、拳母の一件と繋げて詮索されかねん」


平蔵の声は低く、真剣だった。凍える足で郷へ戻る道すがら、竹千代は獲物の一部を失った悔しさよりも、今川の目がすぐそこまで迫っている現実の重みを、より強く噛み締めていた。


三

館に戻った竹千代は、逸る心をそっと抑え、しばしの間、家の内を静かに見て回ることにした。急ぎすぎれば綻びが出る。前世の商いの理にも通じる教訓だった。


見回るほどに、平穏の裏にある細かな軋みが見えてくる。井堰の氷割りと軍役の人足徴発が重なり、下男たちの間には隠しきれぬ疲労の色があった。父の書斎からは、夜更けまで灯りが漏れる日が続いている。兄・松丸の筆先にも、時折迷いが見えた。彦太は変わらず手習い所で算術に励んでいたが、村の大人たちの不安げな噂話は、子供の耳にも届いているようだった。


竹千代は、これらすべてを黙って胸に刻んだ。そして最後に、お妙の様子を確かめようと、勝手の間へと足を向けた。


お妙は、洗い物を終えた盥を片付けながら、竈の火を落とす支度をしていた。その横顔には、先ほど垣間見えた翳りがまだ残っている。


「お妙」


声をかけると、お妙はハッとしたように振り返り、すぐにいつもの柔らかな笑みを浮かべた。「若様。何か御用でしょうか」その笑みは、しかしいつもよりわずかに硬い。竹千代はあえて用件を切り出さず、竈の傍らに腰を下ろし、燃え残りの炭を火箸でつつきながら、何気ない調子で問いかけた。


「今しがた、そなたの手が止まっておったな。何ぞ、案じておるのか」


お妙は一瞬、目を伏せた。隠そうとする素振りが見えたが、竹千代のまっすぐな眼差しに、やがて観念したように小さく息をついた。


「……恥ずかしながら、夜な夜な、悪い夢を見るのです。若様が今川様の館へ召し出され、二度とこの阿久居へお戻りにならぬ夢を」


その声は震え、目には薄っすらと涙の膜が浮かんでいた。竹千代にとってお妙は、単なる主家の乳母ではない。赤子の頃から乳を含ませ、夜泣きをあやし、我が子同然に育て上げてきた存在だった。


「父上様や兄上様は、若様をお守りするために懸命に立ち回っておいでです。それは重々承知しております。……ですが、もし、もしものことがあれば、わたくしは……」


言葉は途中で途切れ、お妙は袖でそっと目元を押さえた。竹千代は、その震える肩を見つめながら、胸の奥に静かな痛みを覚えた。武芸を極め、家中の内政を回してきた自分でも、この乳母の素朴な愛情だけは、どんな算段をもってしても埋め合わせることのできないものだった。


「案ずるな、お妙。わたしは、どこにも行かぬ。必ず、阿久居に留まる道を切り拓いてみせる」


竹千代がそう静かに告げると、お妙はようやく小さく頷き、涙を拭って、いつもの穏やかな微笑みを取り戻した。だが、その約束の重さを、竹千代自身が誰よりも痛感していた。


四

竹千代は、お妙に告げた言葉の余韻を胸に抱えたまま、裏庭の外れにある稽古小屋へと足を運んだ。板戸を閉め、藁筵の上に静かに座す。吐く息は白く、隙間風が首筋を刺すが、意識を研ぎ澄ませるにはむしろ好都合であった。


胸の内には、小さな棘のような違和感があった。父には「皆が豊かに暮らせるなら、どんな道でも喜んで進む」と誓い、覚悟を示した。だが今しがた、お妙には正反対とも取れる言葉を口にした。どちらも、偽りない本心である。だからこそ、始末に負えない。


竹千代は目を閉じ、丹田(たんでん)に意識を沈めた。呼吸を数え、雑念を一つひとつ、川面に浮かぶ木の葉のように意識の外へと押し流していく。二心ではない。家のために己を捧げる覚悟と、お妙という一人の女人を悲しませたくないという情、その両方が同じ根から生えている。ただ、その根の形を、まだ自分自身が掴みきれていないだけなのだ。


長い没入の果てに目を開いた時、胸の内にあった棘は、消えてはいなかったが、輪郭がわずかに明瞭になっていた。矛盾を無理に解消しようとするのではなく、その両方を抱えたまま、いずれ訪れるであろう選択の刻に、迷わず動けるだけの覚悟を積み重ねていく。それが今の自分にできる、唯一誠実な道だと悟った。


稽古小屋を出て、雪明かりの残る庭先で立ち止まった竹千代は、いざお妙のもとへ言葉を組み立てようとして、途端に頭の中がこんがらがった。


(父上には「どんな道でも喜んで進む」と誓った。お妙には「どこにも行かぬ」と言うてしもうた。この二つを、どう繋げれば筋道が立つ……)


腕を組み、眉根を寄せ、うんうんと唸る竹千代の姿は、傍から見れば、まるで難しい算術の問題に頭を抱える手習い所の童そのものであった。通りかかった下女が思わずくすりと笑いを漏らし、「若様、お腹の具合でも悪いのですか」と声をかけられ、竹千代は我に返って「な、なんでもない!」と誤魔化す羽目になった。


練りに練った理屈は、どれも大人の言い訳の域を出なかった。竹千代はふと、気の抜けたように肩の力を抜いた。


(……なんの。難しい理屈など、いらぬのかもしれぬ)


そう思い至った時、ようやく体の強張りが解けた。竹千代は雪を蹴散らすように歩き出し、勝手の間へと向かった。


「もー! わからぬ!」


思わず口をついて出たその一言は、いつもの老成した物言いとはまるで違う、年相応の癇癪じみた響きを持っていた。勝手の間の戸を勢いよく開けると、お妙が驚いた顔で振り返る。竹千代はもはや言葉を選ぶことをやめ、駆け寄るなり、小さな体でぎゅっとお妙に抱きついた。


「若様……?」


お妙は一瞬、盥を取り落としそうになるほど狼狽したが、竹千代の腕が思いのほか強く自分の腰に回っているのを感じ、やがて戸惑いながらもその小さな背に手を添えた。竹千代は顔を埋めたまま、くぐもった声で呟いた。


「難しいことは、わからぬ。父上に誓うたことも、そなたに言うたことも、どちらも本当じゃ。じゃが、そなたを悲しませとうないという想いだけは、何を措いても本物ゆえ、それだけは、信じてくれ」


飾り気のない、幼子そのものの言葉だった。お妙は暫く言葉を失っていたが、やがてくすりと小さく笑いを漏らし、竹千代の頭を優しく撫でた。


「まあ……若様ったら。難しいお顔で唸っておいでと思うたら、こんな童のようなことを」


その声には、先ほどまでの翳りはもうなかった。理屈も弁明もいらなかったのだ。ただ、この温もりと、飾らぬ一言があれば十分だった。


「若様のお心、確かに受け取りました。……わたくしも、大人げのう取り乱してしまいましたな。若様がどんな道を歩まれようとも、わたくしはいつまでも、若様の味方でございます」


竈の炭が爆ぜる音だけが、しばしの間、静かな勝手の間に響いていた。


五

抱擁を解き、竹千代はふらりと勝手の間を出た。体の奥から、これまで感じたことのない不思議な感覚が湧き上がっていた。胸のつかえが取れたせいだろうか。指先の先、爪先の先まで、まるで自分の体の輪郭そのものが、いつもより鮮明に、水面に映る月のように澄み渡って感じられる。


雪の残る庭先へ出て、竹千代は槍立てに掛けてあった得物を、無意識のうちに手に取っていた。冷たい柄の感触が掌に馴染む。いつもならば、間合いを計り、腰を沈め、呼吸を整えてから型に入る。だが今は、そうした一切の段取りが、頭の中を通り過ぎることなく消えていくようだった。


(これは……)


平蔵に幾度も言われてきた言葉が、ふと脳裏をよぎる。拍子を数えるうちは、まだ本物ではない。今この瞬間、竹千代の体には、拍子という概念そのものが存在していなかった。構えるでもなく、狙うでもなく、ただ在るがままの姿勢から、槍の穂先が虚空へと吸い込まれるように奔った。


一切の予備動作なく、腰の捻転も、肩の開きも、意識して行った覚えがない。それでいて、全身の連動は寸分の狂いもなく穂先の一点へと収束し、冬の澄んだ空へ向かって、竹千代の今生で最も速い一突きが放たれた。


穂先が空を切る音は、いつもの鋭い風切り音ではなく、ほとんど無音に近かった。竹千代自身、放った後になってようやく、自分が何をしたのかを自覚するほどであった。


槍を引き戻し、竹千代は荒い呼吸一つ乱すことなく、その場に立ち尽くした。ちょうど稽古場の陰から様子を見ていた平蔵が、片目を大きく見開いたまま、しばし言葉を失って立ち尽くしていた。


「平蔵殿……いまのを、見ましたか」


声をかけると、平蔵はようやく我に返ったように瞬きをし、深く、長い息を吐いた。その息は白く凍り、しばし宙に漂ってから消えた。


「見た……見たとも。だが、儂の目に映ったものが、まことに現であったかどうか、正直、いまだに信じられぬ」


平蔵は竹千代の手元と体全体を、まるで初めて見る者のように上から下まで検分した。


「構えがなかった。拍子がなかった。竹、いつもの摺り足も、腰の捻りの兆しすらなかった。それでいて、あの穂先の伸びよう……儂が三十年、槍働きで喰ってきた目でも、起こりが全く読めなんだ」


竹千代自身も、己の内に起きたことをうまく言葉にできずにいた。


「拙者にも、よくわからぬのです。ただ……お妙との一件で、胸のつかえが取れて、なんというか、体の隅々まで、澄んだ水のように感じられて。気づけば、槍を手に取っておりました」


その言葉に、平蔵は暫く黙り込んだ。やがて、隻眼に深い光を宿しながら、静かに口を開いた。


「武芸の理というは、突き詰めれば技巧の果てにあるものと、儂は信じておった。捻り、薙ぎ、崩し、その一つひとつを極限まで研ぎ澄ませば、いずれ天の高みに届くと。しかし今のは、技巧の先にあるものではなく、心の在り様がそのまま技へと現れたものであろう」


平蔵は自らの胸を軽く拳で叩いた。


「儂も長年、修羅場を潜り抜けてきたが、心を無にして敵と相対することの難しさは、骨身に染みておる。それを、この歳で、しかもかように自然な形で体現するとは。もはや、儂が教えられる域ではない」


その声には、驚愕と同時に、隠しきれぬ誇らしさが滲んでいた。


「ただし」と平蔵は表情を引き締めた。「この境地、恒常に使えるものではあるまい。心が乱れれば、たちまち消える類のものと見た。実戦で頼りにするには、危うい」


竹千代も頷いた。まさにその通りだった。今の一撃は、偶然の産物に近い。竹千代はその日のうちに幾度となく槍を構え直し、先ほどの感覚を呼び戻そうと試みた。呼吸を整え、胸のうちを空にし、あの澄み渡るような静けさを再現しようとする。しかし、意識すればするほど、かえって体は強張り、いつもの型へと戻っていくばかりだった。


何度目かの試行の後、竹千代は肩で息をつきながら、槍を杖のように地面に突き、立ち尽くした。


(……本当に、あれは在ったことなのか)


離れたところで様子を見守っていた平蔵が、静かに歩み寄ってきた。


「無理に追おうとしても、あれは出てこぬぞ。儂も昔、修羅場で一度だけ、似たような澄んだ心地を味わったことがある。あれは求めて得られるものではない。むしろ、求める心そのものが邪魔をする」


竹千代は、槍を杖にしたまま、荒い息の下でぽつりと呟いた。


「では、あれは二度と訪れぬものなのでしょうか」


「さて、それはわからぬ」平蔵は淡々と答えた。「ただ、一度でも辿り着いたという事実は、決して消えぬ。竹の内には、確かにその境地へと至る道筋が、一度は通ったのじゃ。焦らず、日々の鍛錬を積むほかあるまいよ」


竹千代は、その言葉を噛み締めながら、槍を静かに槍立てへと戻した。夢か現か判然としないあの一瞬は、しかし確かに己の内に刻まれている。


六

竹千代は槍を握ったまま、うんうんと唸って無拍子の余韻を反芻していたが、ふと何かに弾かれたように顔を上げた。


「あっ……いかん、そうであった! 金策の算段、まだ何も詰めておらぬではないか!」


先ほどまでの神妙な面持ちが一転、慌てふためいた童そのものの表情に変わる。平蔵は、その豹変ぶりに一瞬呆気に取られたが、やがて隻眼を細めて、こらえきれぬとばかりに小さく噴き出した。


「ふ、ふふ……先ほどまでの、あの底知れぬ境地とは、また随分な変わりようで」


「よ、余計なことを言うでない! 平蔵殿、本日の稽古、かたじけのうございました! また明日!」


竹千代は槍を大慌てで槍立てに戻すと、ぺこりと勢いよく頭を下げ、そのまま雪を撥ねさせながら母屋へと駆け戻っていった。その背を見送りながら、平蔵は独り、白い息を吐いて呟いた。


「……まったく、底が知れぬ御方よ。かと思えば、稚気(ちき)の抜けぬところもおありでな」


その呟きには、呆れと、隠しきれぬ慈しみが滲んでいた。

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