外伝 松丸、境を糺(ただ)す
※本話は、第9話で描かれた松丸の活躍を詳しく掘り下げた閑話(兄・松丸視点)となります
一
その日、館の空気はいつになく張り詰めていた。今川方からの使者が去って幾月か過ぎたというに、書院の文机には未だ書状の山が絶えない。弥左衛門は眉間に皺を刻んだまま、次から次へと届く文に目を通し、時に筆を執っては返書をしたためる日々を送っていた。
「松丸、ちと参れ」
書院に呼ばれた松丸は、父の疲れた顔に、ただならぬ気配を感じ取った。
「隣の郷士、十兵衛と新左衛門の間で、また境の用水のことで揉めておるそうな。双方、一歩も譲らぬ構えとかで、このままでは刃傷沙汰にもなりかねぬと、村役人から泣きついてきおった」
弥左衛門は文机の書状を一瞥し、深く息をついた。
「儂が出向いてやりたいのは山々じゃが、見ての通り、今川方への返書がまだ片付いておらぬ。……松丸、そなたが行ってくれるか」
その一言に、松丸の胸の奥で何かが強く跳ねた。これまで父の名代として近隣との折衝に出向いたことは幾度かあったが、いずれも既に大筋の決まった話の締めくくりに過ぎなかった。今回は違う。双方が本気で睨み合っている、その渦中に一人で飛び込めというのだ。
「……某でよろしいのですか」
思わず漏れた問いに、弥左衛門は片眉を上げた。
「当たり前じゃ。そなたは、いずれこの家を継ぐ身ぞ。今のうちに、こうした厄介事の裁き方を、身をもって覚えておかねばならぬ」
その言葉には、疑いようのない信頼が込められていた。だが同時に、松丸の脳裏には、いつも決まって浮かぶ影があった。剣を取れば、齢十を数えたばかりの弟にすら及ばぬと知れ渡ってしまった己。算術も、治水の才も、あの弟には遠く及ばぬ。それでも家督を継ぐのは己なのだと、松丸は幾度となく己に言い聞かせてきた。
支度を整え、館を出ようとする松丸の目に、庭先で槍の型をさらう竹千代の姿がふと映った。声をかける気にはなれなかった。用件を告げれば、あの聡い弟のことだ、あれこれと的確な助言の一つも寄越しかねぬ。それを有難く思う自分と、素直に受け取れぬ自分とが、松丸の胸の中でせめぎ合っていた。松丸は弟に気取られぬよう、足早に馬に跨り、館を後にした。
二
現場は、二軒の田の境を流れる細い用水路であった。松丸が到着した時には、既に十兵衛と新左衛門、双方の家の者たちが睨み合い、今にも掴み合わんばかりの空気であった。
十兵衛は齢五十がらみの、頑固そうな顔つきの郷士であった。「先代からの決め事を、勝手に反故にしおって」と、若い新左衛門を睨みつけている。対する新左衛門は、まだ二十歳そこそこ、代替わりしたばかりの若い当主で、困惑と苛立ちの入り混じった表情を浮かべていた。
「阿久居の若様がお越しとあらば」十兵衛が松丸を認めて声を上げた。「はきと、白黒つけていただこう。この用水、雨の少なき年には、我が方が先に水を引く決め事があったはず。それを、この若造めが、今年になって急に反故にしおったのじゃ」
新左衛門も負けじと口を開いた。「反故になどしておりませぬ。ただ、そのような決め事、某は父から一言も聞かされておりませぬ。証文の一枚もないものを、いきなり出せと言われても、困り申す」
双方の言い分は真っ向から対立していた。松丸は内心、一瞬だけ迷いを覚えた。この場で強く言い切れば、片方の顔を立て、事は早く収まるかもしれぬ。だが、それでは禍根を残すだけだと、経験の乏しい己にも察しがついた。
松丸はふと、幾年か前の、ある夜の光景を思い出していた。まだ幼かった竹千代が、木片を懐に抱え、父の前に正座して、隣村の名主について集めた話を一つ一つ丁寧に語っていた、あの夜のことだ。相手の弱みを直に突くのではなく、困りごとに寄り添う形で持ちかければ角も立つまい。父がそう感嘆していた言葉が、今になって松丸の耳の奥に蘇った。
(あの時の弟のやり方は、力でねじ伏せるものではなかった。まずは、相手の言い分を、腹の底まで聞くことよ)
松丸は大きく息を吸い、努めて静かな声で告げた。
「双方の言い分、まずはこの松丸が、じっくりと聞かせていただこう。もつれた糸を無理に引けば、解けるものも解けなくなり申す。今日のところは、腰を据えて話そうではないか」
その言葉に、十兵衛と新左衛門は互いに顔を見合わせ、渋々ながらも矛を収めた。
三
それから半刻あまり、松丸はひたすら聞き役に徹した。十兵衛の言い分を聞き、新左衛門の言い分を聞き、時に頷き、時に問い返しながら、双方の話の奥に潜むものを、辛抱強く手繰り寄せていった。
十兵衛の意固地さの裏には、単なる強欲ではなく、先代の新左衛門の父との間に確かにあったはずの信頼への未練があるように、松丸には感じられた。「先代は、儂の父の代からの付き合いでな。互いに困った時は融通し合う、そういう間柄であったのじゃ」十兵衛がぽつりと漏らしたその一言に、松丸は耳をそばだてた。
一方の新左衛門は、代替わりしたばかりで、父が生前に周囲と交わしていた口約束の数々を、正式な形では何一つ引き継いでいなかった。「父は、そういう細かいことを、いちいち書き残す性分ではございませんでした。それゆえ、某には何が本当の決め事で、何が単なる噂話なのか、見分けがつかぬのです」新左衛門の困惑には、偽りのない若さの戸惑いがあった。
松丸の中で、ふと霧が晴れるように得心がいった。これは、どちらが正しく、どちらが間違っているという話ではない。先代と十兵衛の間にあった、目に見えぬ信頼の証が、代替わりという節目で宙に浮いてしまった、それだけのことなのだ。竹千代のようにそろばんを弾いて導き出した答えではない。長く人と向き合ってきた者だけが掴める、勘とでも言うべきものだった。
「新左衛門殿。先代と十兵衛殿の間には、確かに、雨の少なき年の融通についての取り決めがあったのでござろう。ただそれが、書き物として残されなかった。それだけのことと、某には思われる」
新左衛門は、はっとしたように顔を上げた。「……左様にございましょうか」
「十兵衛殿も、新左衛門殿を疑うておるわけではあるまい。ただ、先代との間にあった確かな絆が、このまま消えてしまうことを、惜しんでおられるだけではござらぬか」
十兵衛は、ばつが悪そうに顎髭を撫でた。「……儂とて、新左衛門を憎うて言うておるわけではないわ」
四
松丸はその場で、双方の顔が立つ新たな取り決めを提案した。先代と十兵衛の間にあった口約束を、正式な証文として書き改め、雨量に応じた水量の配分をあらかじめ明確に定めておく。新左衛門はこれに深く頭を下げ、十兵衛もまた、長年の胸のつかえが下りたような顔で頷いた。
「阿久居の若様には、まこと世話になり申した」
十兵衛のその一言に、松丸は静かに首を振った。
「某は、ただ双方の話を聞いただけのこと。この証文、末永う守っていただければ、それで十分にござる」
両者が引き上げた後、松丸は一人、用水路のほとりにしばし佇んでいた。夕陽が水面に反射し、細い流れをきらきらと照らしている。剣であれば、己はいつまでも弟の背に隠れたまま、一生追いつけぬのやもしれぬ。だが、と松丸は思った。人の話に耳を傾け、その奥にある想いを汲み取る。これもまた、一つの武具になり得るのではないか。
あの夏の夕暮れ、生垣の向こうへ足早に立ち去った己の後ろ姿を、松丸はふと思い出した。平蔵が竹千代の型に流水槍と名付けたあの日、松丸は握りしめた拳の行き場を持て余し、ただ逃げるようにその場を後にした。あの時の悔しさは、今もまだ胸の奥に燻っている。だが、それだけではないのだと、今の松丸には分かる気がした。
弟には弟の道があり、己には己の道がある。それが、剣の道ほど華々しくはなくとも、確かにこの家を支える一本の柱になり得るのだと、松丸は夕闇の迫る用水路のほとりで、静かに噛みしめていた。
館への帰り道、松丸はこの首尾をどう父に伝えるべきか、頭の中で幾度も言葉を選び直していた。誇るでも、卑下するでもなく、ただ淡々と、事の次第だけを語ればよい。そう己に言い聞かせながら、松丸は手綱を握り直した。夕闇に沈みゆく田畑の向こうに、館の灯りが小さく揺れていた。
まさかの二日連続の外伝までお読みいただき、
ありがとうございます!
松丸も悪い方向に行かなくて作者も安心しております。
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明日からは通常通り、竹千代の本編へと戻ります。
ぜひ、よろしくお願いいたします。




