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三河の片隅で、家族を守る――その名はまだ誰も知らない  作者: 可可多


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外伝 「困りごと」という鍵

※本話は、第4話〜第5話の裏側を描いた閑話(父・弥左衛門視点)となります。


一


隣村へと続く道を、弥左衛門は平蔵と共に馬を並べて進んでいた。懐には、竹千代がこの十日あまりで集めてきた木片の束が、ずしりとした重みを持って収まっている。名主の跡取り息子が病がちであること、名主宅の屋根が嵐で傷んでいること、そして木材と薬師の伝手。幼い息子が、手習い仲間との何気ない世間話から拾い集めてきた話の数々であった。


「して、殿。どこから切り出されるおつもりで」


平蔵が手綱を握りながら問うと、弥左衛門はしばし黙り込んだ。


「正直、儂にも分からぬ。堰の改修と分水の件、頭ごなしに頼み込んだところで、名主とて易々とは頷くまい。村役人の甚兵衛は乗り気じゃが、名主の一存が要ると言うてきかぬ」


弥左衛門は懐の木片に、ちらと目を落とした。


「じゃが、竹千代の集めてきたこの話、使いようによっては、存外に道が開けるやもしれぬ」


平蔵は片目を眇めながら、低く笑った。「幼子の集めた話とて、侮れませぬな。若様は、いったいどこであのような才を身につけられたものか」


弥左衛門は答えなかった。ただ、馬上で揺れる懐の木片を、そっと押さえるようにした。あの子の底の見えぬ聡明さには、未だに時折、言い知れぬ畏れを覚える。だが同時に、この家を思う竹千代の心根だけは、幼子らしい真っ直ぐさに満ちていることも、弥左衛門はよく知っていた。


「儂は、あの子の集めた話を、あの子の思う通りに使うてやりたいだけよ」


弥左衛門はぽつりと呟くと、手綱を握り直し、隣村へと続く道を先へと進んだ。


二


名主の屋敷は、隣村の小高い丘の上に構えられていた。案内された広間で、弥左衛門は上座に座す名主・惣兵衛と対面した。齢五十を超えた恰幅の良い男で、その物腰には、長年この地を治めてきた者らしい重みがあった。


「阿久居殿がじきじきにお越しとは、これはこれは」


惣兵衛は如才ない笑みを浮かべたが、その目の奥には、値踏みするような光があった。弥左衛門は型通りの挨拶を交わした後、本題を切り出した。


「此度は、井堰の改修の一件にて、折り入ってお願いに上がり申した。堰の水を分ける段、貴殿にもご承知いただきたく」


惣兵衛の表情が、目に見えて険しくなった。「阿久居殿。それは、少々虫の良い話ではござらぬか」


「と、申されると」


「先代の頃、阿久居の地との間で、水争いがあったこと、お忘れではございますまい。あの折、こちらの村は日照りの年に難儀し、そちらへ幾度も掛け合うたが、色好い返事は得られなんだと聞いており申す。今になって、堰を直したゆえ水を分けてくれとは、いささか都合が良すぎましょう」


弥左衛門は内心、痛いところを突かれたと感じた。先代同士の因縁までは、竹千代の集めた話にも出てこなかったことである。


「それに」惣兵衛は続けた。「うちの村役人どもの中にも、阿久居の申し出には安易に乗るなという声がある。分水などと申して、いざ日照りの折には、真っ先に水を止められては敵わぬ、とな」


その言葉には、単なる駆け引きを超えた、根深い不信が滲んでいた。弥左衛門は、ここで安易に言葉を重ねても、火に油を注ぐだけだと察した。「……仰る通り、先代の頃の不義理、此度改めてお詫び申し上げる。じゃが、今の阿久居は、あの頃とは違う道を歩みたいと思うており申す。日照りの年こそ、互いに融通し合うてこその隣村ではございませぬか」


惣兵衛は腕を組んだまま、しばし黙り込んだ。「言葉では、何とでも申せる。……阿久居殿、悪う思わんでくだされ。此度の話、そう容易くは頷けませぬな」


弥左衛門は一度言葉を切り、それとなく話柄を変えた。


「ところで、こちらへ参る道すがら、屋根の傷みが目につく家がちらほらと見受けられ申した。此度の嵐は、かなりの被害であったとか」


惣兵衛は虚を突かれたような顔をした。「……いかにも。うちの屋敷の屋根も、大分傷んでおりましてな。木材の手配に難儀しておるところじゃ」


「実は、良い材木を扱う伝手が、こちらにございましてな。木こりを生業とする者が、上質な屋根板を扱っておると聞き及んでおり申す。お望みとあらば、その者をこちらから引き合わせましょう」


惣兵衛の目に、初めて僅かな興味の色が浮かんだ。「ほう……それは、願ってもない話じゃ」


三


弥左衛門は、そこで畳みかけるように、もう一つの話を切り出した。


「加えて、これは風の噂に過ぎませぬが、津島の方に、諸国を巡り歩く腕の良い薬師がおるとか。三河の御典医の弟子筋であったとも聞き及び申す。もしご入用とあらば、手習い師匠を通じて、その薬師への口添えを頼んでみましょう」


その一言に、惣兵衛の表情が、目に見えて変わった。それまでの如才ない笑みが崩れ、代わりに、隠しきれぬ動揺が滲み出た。


「……薬師、と申されたか」


「いかにも。腕は確かと、専らの評判にございます」


惣兵衛はしばし黙り込み、やがて深いため息と共に、堪えきれぬように本音を漏らした。


「……お恥ずかしい話じゃが、うちの跡取り、亀寿丸が、この一年あまり、床に伏しがちでな。三河でも評判の医者に診せたはずが、一向に良うならぬ。もっと遠方の、腕の良い医者があればと思うても、礼金も馬鹿にならず、伝手も知れず、儂も内心、頭を抱えておったのじゃ」


惣兵衛の声には、名主という立場を離れた、一人の父親としての切実な色が滲んでいた。弥左衛門はその様子に、思わず身を乗り出した。


「惣兵衛殿。ご子息のこと、心中お察し申す。儂にも、竹千代、松丸という二人の息子がおり申す。子を案じる親の心は、身分の上下など問いませぬな」


その言葉に、惣兵衛は初めて、値踏みするような硬さの抜けた目で弥左衛門を見た。


「……阿久居殿も、左様であったか」


だが、その柔らかさも束の間であった。惣兵衛はすぐに、名主としての顔つきに戻り、深く息を吐いた。


「……有難い話じゃ。じゃが、それとこれとは、話が別でござろう。木材と薬師の一件、私事として有難く受けよう。されど、堰の水を分ける話となれば、村役人どもへの申し開きが要る。先ほども申した通り、日照りの折に見捨てられては敵わぬという声も、無視はできませぬ」


弥左衛門は、惣兵衛の中でなお天秤が揺れているのを感じ取った。私情と、名主としての立場。その狭間で、惣兵衛は苦しげに眉根を寄せている。


「惣兵衛殿。ならば、こう取り決めては如何でしょう。日照りの年には、まず貴殿の村へ優先して水を通す。その旨、証文にしたためてお渡し申す。阿久居の一存で反故にすることのなきよう、双方に関わりのある甚兵衛殿に証人として名を連ねていただいては如何か」


惣兵衛はしばし黙り込んだ。甚兵衛は阿久居の家中の者ではなく、この地の水回りを長年見てきた村役人であり、双方の顔も立つ、確かに動かしようのない立会人であった。「……甚兵衛か。あの者ならば、贔屓もすまい」惣兵衛はやがて大きく息を吐いた。


「……分かり申した。甚兵衛を証人に立て、証文にしたためていただけるならば、村役人どもへの申し開きも立ちましょう」


惣兵衛はそう言うと、それまで強張っていた肩から、ふっと力が抜けたようであった。


四


「実を申せば、その薬師の噂、当家の次男・竹千代が、手習い仲間から聞き集めてきたものにございます」


弥左衛門は正直に打ち明けた。「まだ幼き身にて、大したことはできませぬが、家のため、あちこちに耳を澄ませ、心を配っておるようで。此度の一件も、あの子の集めた話がなければ、儂もここまで踏み込んで話すことは叶わなんだでしょう」


惣兵衛は暫し黙り込み、やがて感じ入ったように頷いた。


「阿久居殿のご子息、末恐ろしい御仁じゃな。……いや、この歳になって、幼子の心遣いに救われるとは、儂も焼きが回ったものよ」


惣兵衛はそこで居住まいを正し、改めて弥左衛門に向き直った。


「阿久居殿。先ほどの証文の一件、確かにお約束いただいた上で、堰の水を分ける件、正式に承知いたそう。甚兵衛にも、儂から重ねて申し伝えておく」


弥左衛門は深々と頭を下げた。「かたじけのう存ずる」


「なに、礼を申すのはこちらの方じゃ」惣兵衛は苦笑いを浮かべながら続けた。「木材の伝手と、薬師の話、まことにありがたい。亀寿丸のこと、一縷の望みが繋がった思いじゃ」


帰り道、夕闇の迫る峠道を、弥左衛門と平蔵は無言のまま馬を進めていた。しばらくして、平蔵がぽつりと口を開いた。


「殿。此度の首尾、若様の集めた話あってのことにございますな」


弥左衛門は、夕焼けに染まる空を見上げながら、静かに頷いた。


「うむ。……あの子の目は、儂には見えぬものを見ておる。名主の弱みを直に突くのではなく、困りごとに寄り添う形で持ちかければ、角も立たぬ。あれは、あの子なりの優しさなのやもしれぬ」


弥左衛門はふと、館で帰りを待つであろう竹千代の顔を思い浮かべた。あの子の底知れぬ聡さに、時折り言い知れぬ畏れを覚えることもある。だが今この時ばかりは、ただ純粋に、我が子の集めた小さな親切の数々が、この家を救うたのだという事実だけが、弥左衛門の胸を静かに温めていた。


「早う帰って、竹千代に知らせてやらねばな。……お主のおかげで、家が救われたぞ、と」


平蔵は片目を細め、静かに笑った。「それは、若様もさぞお喜びになりましょう」


峠を越えた先に見える阿久居郷の灯りへ向かって、二頭の馬は夕闇の中を、静かに歩みを進めていった。

まさかの外伝までお読みいただき、ありがとうございます!


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