第十三話 機織りと算盤
一
永禄元年、師走。阿久居郷は、朝夕の霜と、頬を切るような北風に包まれていた。井堰の水路の縁には薄氷が張り、朝な夕なに下男たちがそれを割る乾いた音が、郷中に木霊する。流水無形を完成させ、裏山で初めての猪狩りを成し遂げてから、まださほど日は経っていない。竹千代の掌には、あの一投の感触がまだ確かに残っていた。
夕餉の温もりが残る中、竹千代は改めて館の中をゆっくりと見て回ることにした。獲物を持ち帰った高揚感が落ち着いた今だからこそ、見えてくるものがあるだろう。
まず目に留まったのは、母屋の隅に置かれた古い機織り機だった。お蘭が時折、これで麻布を織っていることは知っていたが、近頃はその機を動かす頻度が増しているように見えた。竹千代がさりげなく尋ねると、お蘭は少し疲れた笑みを浮かべた。
「井堰のおかげで田は潤いましたが、軍役の触れがまた重うなったと聞きました。それで銭の足しにと、布を余分に織って、市で商うておるのです」
その言葉に、竹千代は胸がちくりと痛んだ。表向きは平穏な日々の裏で、母もまた、家のために静かに労を惜しまず働いていたのだ。
二
翌朝、竹千代は早くに母の元を訪ねた。お蘭は機織り機の前に座り、慣れた手つきで糸を通していた。
「ははうえ、少しお尋ねしてもよろしいでしょうか」
お蘭が手を止めて振り返ると、竹千代は率直に切り出した。
「織った布は、どちらの市で、どれほどの値で売っておられるのですか。また、糸や染料の元手は、いかほどかかっておりましょう」
お蘭は少し驚いた顔をしたが、すぐに答えてくれた。話を聞くうちに、竹千代の頭の中では、前世で培った商業の感覚が、静かに回転を始めていた。母の織る麻布は品質が良いにもかかわらず、村の小さな市でしか売られておらず、しかも仲買人に安く買い叩かれている実情が見えてきた。元手となる糸の仕入れ値と、実際の売値を突き合わせると、利幅は驚くほど薄い。
(右から左へ流すだけで、これだけ目減りしておるとは……仲買のうまみとは、こういうものか)
竹千代は帳面に、そろばんで弾いた数字を書き記しながら、内心で舌を巻いた。
「ははうえ、これは……もったいのうございます」
「拳母城下や、隣村の市であれば、同じ布でも一割から二割は高く売れましょう。それに、仲買人を通さず、月に一度、まとめて売りに出る形にすれば、その分の口銭も浮きまする」
さらに竹千代は、糸の仕入れについても提案した。
「糸も、村内の数軒でまとめて仕入れれば、一軒ずつ買うより安く済むはず。手習い仲間の親御にも機織りをする方がおられると聞きました。皆で束ねて仕入れれば、皆にとって得になりましょう」
お蘭は、息子の語る数字と理屈に、次第に目を見張っていった。
「竹……お主は、まことに商いのことまで分かるのですね」
竹千代は少し照れながらも、しっかりと頷いた。
「わたしにできるのは、数字を弾くことだけにございます。実際に市へ赴き、値を交渉するのは、ははうえや、村の女衆の方々のお力あってこそ」
三
竹千代は、母との話の途中でふと何かを思いついたように、ぽんと手を打った。
「ははうえ、そういえば、先日の猪、まだ肉は残っておりましょうか」
お蘭は少し不思議そうな顔をしたが、頷いた。
「ええ、塩を効かせて軒先に吊るしてあります。まだしばらくは持ちましょう。……それが、何か」
竹千代の頭の中では、そろばん仕込みの商業感覚が、また新たな回路を繋げ始めていた。
「布と同じように、猪肉もまた、ただ家で食すだけでは、もったいのうございませぬか。塩漬けにした肉や、干し肉にしたものは、市でも重宝されると聞きます。特に、この時期は冬支度で獣肉を求める家も多いはず」
竹千代は帳面に、これまでのそろばん仕込みの感覚で素早く算段を書き付けていった。
「猪一頭で得られる肉のうち、家で食する分を除いた残りを、干し肉や塩漬けにして市に出せば、それもまた銭になりましょう。それに、平蔵殿と山へ出るのは、これからも続けとうございます。もし継続して獲物を得られれば、布と同じく、まとまった量を月に一度、拳母城下の市へ運ぶ形にできれば」
お蘭は、息子の思考の速さに、驚きと同時にどこか呆れたような、それでいて誇らしげな笑みを浮かべた。
「竹、お主は本当に、何を見ても銭に換える算段を思いつくのですね」
竹千代は少し照れて頬をかいた。
「銭のためというより、この家のため、皆のためにございます。無駄にせず、余すところなく使う。それだけにございます」
お蘭は優しく息子の頭を撫でた。
「良い心がけです。父上にも相談してみましょう。狩りで得た肉を、布と一緒に市へ運ぶ算段、確かに理にかなっておりましょう」
四
母の元を辞した竹千代は、その足で裏の稽古場へと向かった。槍の手入れをしていた平蔵に、今しがたの相談の顛末を、かいつまんで語って聞かせる。平蔵は槍を持つ手を止め、隻眼を細めて暫し聞き入っていたが、やがて感心したように唸った。
「なるほどのう。竹は、どこからそんな知恵を絞り出しておるのやら…」
平蔵はふと、槍の穂先に映る自らの顔を見つめるように、表情を引き締めた。
「先だっての奉納組太刀の一件以来、拳母城下でも、我らのことを気に留める目付の噂を、時折耳にする。商いで名が売れるのは結構じゃが、目立ち方には、いずれ気を配らねばならぬ日も来ようぞ」
その一言は、警告というよりは、遠くの雲を見るような、ふと漏れた呟きに近かった。竹千代は頷いたが、この時はまだ、それが差し迫った危うさとして胸に響くことはなかった。
竹千代は、母の柔らかな手のひらの温もりを頭に感じながら、ふと胸の内で呟いた。井堰の交渉も、算術の教えも、旋風槍も流水柔も、突き詰めれば皆、同じところに行き着く。誰かの困りごとに耳を傾け、余さず活かす道を探ること。それが、この乱世で己にできる、ささやかながら確かな戦い方なのだと。
窓の外では、冬の陽が机上のそろばんに、静かな光を落としていた。




