消しゴムを握る僕の震える指
愁は、あのときの思い出を思い出してしまい、「買い取りはできない」と拒絶しようとしたが、瑠璃は「ならもうここで死ぬ」とまで追い詰められている。職人の論理の忘却は救いと僕を忘れないでという個人のエゴの間で、愁の心は激しく引き裂かれる。
(どうするべきなんだ、瑠璃には僕を忘れないでほしい、けど瑠璃の心は助けないと、、、)
愁は、記憶を消去するための「前処理」として、瑠璃の記憶の糸を一本ずつ解いてゆく。
その過程で二人は奇妙な対話をする。
「……本当に、よろしいいのですね。苦しくとも、それほど強く誰かを愛せた記憶なら、抱えて生きた方がいいのでは……?」
瑠璃はうつむいたまま、乾いた声で小さく笑った。
「調律師さん、それは綺麗事よ。痛みに耐えて生きる人生なんて、ただの地獄だわ。毎日、息の仕方もわからなくなるの。そんな地獄に、何の意味があるの?」
「しかし、痛みを消せば、あなたが彼から受け取った『温もり』さえも捨てることになる。傷跡は、愛があった証拠です。それを消してしまえば……」
(──君はまた、空っぽの人形になってしまう) 言いかけた言葉を、愁は必死に飲み込んだ。しかし、瑠璃が次に紡いだ言葉は、愁の心臓を容赦なく踏みにじった。
「愛があった証拠? そんなもの、ただの呪いです。……ねえ、私、昔ね。大切な思い出を無理やり消した人を『化け物』ってなじったことがある気がするの。でも、今ならわかるわ」
瑠璃の虚ろな瞳が、まっすぐに愁を捉える。
「あの化け物は、正しかったのよ。悲しみなんて、人生を腐らせる毒だもの。だからお願い、私のこの地獄を、あなたの手で綺麗に抜き取って」
かつて自分が抱いていた傲慢な正義が、今、最も愛する人の口から呪いとなって返ってくる。
抽出の準備が完了する。魔法のピンセットに手を触れる愁。これを引くと瑠璃の心から愁は1ミリも残らず消える。愁のピンセットを持つ手がガタガタと震えて止まらない。




