Ep.7
「これは、海外の貿易船団から入手した逸品だ」
ウィンザー公爵は、宴の最中に一本の真紅のボトルを取り出した。
照明の光を反射して妖しく輝くその瓶を、彼はまるで宝石のように掲げてみせた。
「深紅の果実酒。香りが良く、口当たりもまろやかで、女性に人気だとか」
公爵の合図で、銀のカップが三つ並べられた。
使用人が恭しく注ぎ分ける。
赤い液体が、静かに杯の底を満たしていく。
「ぜひ、乾杯を」
公爵が微笑み、セシルが無言でカップを取る。
私もそれに倣い、軽く笑みを浮かべてカップを持ち上げた。
――その瞬間までは、何の違和感もなかった。
「――っ」
唇に触れた液体が、妙に重たく感じたのを覚えている。
口に広がる果実の甘み、その裏にほんのわずかな苦味。
そして、喉を通り抜けた瞬間――世界が、揺れた。
「きゃああああああっ!!」
自分の悲鳴なのか、誰かの叫びなのかも分からなかった。
視界がぐにゃりと歪み、銀のカップが床に落ち、赤い液体が飛び散る。
次の瞬間には、私は冷たい絨毯の上に崩れ落ちていた。
◇
「……また……っ」
意識が戻った時、最初に感じたのは寝具の冷たさだった。
目を開けると、見慣れた天蓋が視界に入る。
陽の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の輪郭を照らしていた。
「……戻ってきたのね、私……」
エーデルハルト公爵邸の私室。
喉の奥に残る鉄の味は、まだ消えない。
あの宴で――私は確かに、血を吐いて倒れた。
(毒……ワインに、仕込まれていた……)
まぶたを閉じ、あの瞬間を思い出す。
三つのカップ。
ウィンザー公爵、セシル、そして私。
毒が入っていたのは、私が手に取った“手前の”一杯。
あの配置、あの流れ――偶然ではあり得ない。
どれに毒が入っていたか、見た目では分からなかった。
それでも、結果として死んだのは私だけ。
「犯人は……誰?」
ワインを出したのはウィンザー公爵。
だが、カップを並べたのは――セシル。
どちらかが。
あるいは、二人が共謀していたのか。
「……セシル……」
彼の姿が脳裏に浮かぶ。
冷静沈着、原作ではアレクシスに次ぐ実力者として描かれていた男。
アニメでは“影の主役”として多くの視聴者に愛された。
だが――現実の彼は、違う。
「討伐軍の……先鋒だったのよね……」
前の周回。北方を焼き尽くした討伐軍の先頭に立っていたのは、紛れもなく彼。
つまり、反乱の密約を反故にし、真っ先に剣を振るった張本人。
「……セシルが、犯人……?」
握りしめた拳に、爪が食い込む。
胸の奥で怒りと疑念が渦巻いた。
「……確かめるしか、ありませんわね」
私は静かにベッドから立ち上がった。
朝日が床を照らす中、ひとり呟く。
この毒殺の真実を暴かない限り、次の一歩には進めない。
◇
再び、港町リグニス。
再び、ウィンザー邸の宴の夜。
目の前に、三つのカップが並べられる。
前回とまったく同じ光景――まるで悪夢の再演。
「ぜひ、乾杯を」
ウィンザー公爵が穏やかに笑う。
その隣で、カップを並べているのは……やはりセシル。
一度見たはずの手の動き、指の位置、注がれる赤い果実酒の輝きまで、すべてが寸分違わない。
――前回、私は“手前”のカップを取って死んだ。
(ならば、今度は……)
私は息を整え、右側のカップに手を伸ばした。
セシルは迷いなく手前のカップを取り、ウィンザー公爵は左端を手に取る。
「貴族の誇りと、西方の栄光に――」
ウィンザー公爵の音頭。
三つの杯がほぼ同時に傾けられた。
数秒の沈黙。
そして――
「ぶっ……!!」
咳き込むような音が響く。
銀のカップが床に転がり、赤い液体が飛び散った。
「公爵……!?」
ウィンザー公爵が、口から血を吐いて倒れた。
目の前の光景を理解するのに、数秒かかった。
「まさか……」
――毒が入っていたのは、左端のカップ。
私の心臓が跳ねる。だが、すぐに空気が張り詰めた。
セシルの瞳が燃えるように光り、私を睨みつけていた。
「君が毒を……!? 父上を殺したのかッ!」
「違いますわ! 私じゃ――!」
否定の声を最後まで言い切る前に、彼の手が剣の柄を掴む。
周囲の騎士たちが一斉に武器を構え、私を取り囲んだ。
(まずい……!)
私は躊躇なく、背後の扉を蹴り破った。
響く怒声。追う足音。
「待てッ、リリアナ!!」
セシルの叫びが背中を突き刺す。
けれど、もう止まれない。
廊下を抜け、階段を駆け下り、城の庭園へ。
噴水の裏手でようやく足を止める。
胸の鼓動が耳の奥でうるさいほどに響いていた。
懐から、小さな銀の小瓶を取り出す。
これだけは、前もって用意していた自決用の猛毒だ。
「ここまで……ですのね」
私は微笑んだ。
敵に捕らえられるくらいなら――自ら終わりを選ぶ。
瓶の蓋を開け、口に含む。
喉を焼くような苦みとともに、液体が流れ落ちていく。
意識が遠のく。
夜風が、頬を撫でた。
(……次は、必ず……真実を)
そう願った瞬間、世界が音もなく崩れ落ちた。
◇
三度目の朝を迎えた。
目を開けた瞬間、胸の奥に残る焦燥がじりじりと疼いた。
今度こそ、失敗は許されない。
そして、私は再びリグニスへ向かった。
◇
「今回は……左のカップを」
あの夜、毒が入っていたのは手前。次の周では左。
ならば、今度こそ――。
私は心を決めて、三度目の宴の夜に臨んだ。
「今宵の一杯、ぜひに」
ウィンザー公爵が穏やかな笑みを浮かべ、
セシルが慣れた手つきでカップを並べていく。
三つの銀の杯。
その配置も、手の動きも、すべてが既視感に満ちていた。
私は左端のカップに手を伸ばした。
公爵は手前を、セシルは右を取る。
「乾杯を――」
三人の杯が静かに傾けられた。
喉を通る果実酒の甘み。
息を殺し、心臓の音だけを数える。
……沈黙。
――次の瞬間。
「ぶっ……!!」
激しくむせるような音。
床に転がるカップの音。
「セシル……?」
私の視界の端で、セシルが膝をついていた。
唇から血がこぼれ、肩が震える。
「まさか……そんな……」
私は立ち上がったが、すぐに周囲の空気が変わった。
使用人たちの悲鳴。公爵の低い唸り。
「……リリアナ嬢。あなたには、もうしばらくこの屋敷に留まってもらう」
公爵の声は冷え切っていた。
その瞳には怒りよりも、深い混乱と焦燥が見えた。
机の上には、血の飛沫を浴びた三つの銀のカップ。
私は椅子に座らされ、両側を衛兵に固められていた。
(セシルが……死んだ……?)
信じられなかった。
なぜ、彼が。




