セドリック外伝
――あれは、まだ私がろくに剣も振れなかった頃のことだ。
この胸に、初めて誰かを想う感情が芽生えたのは。
当時、我が家は弱小貴族の端くれにすぎなかった。
領地といっても森と畑ばかり、馬車道は穴だらけで、屋敷も風雨を凌げる程度のもの。
父は朝から晩まで書類仕事と年貢の取りまとめに追われ、母は病床に伏していた。
そんな我が家と深い縁を持っていたのが、隣領の名門――ラインフェルト子爵家だった。
そこには、私と歳の近い少女がいた。
彼女の名は――エリシア。
のちにエーデルハルト家に嫁ぎ、リリアナを産むことになる人だ。
初めて出会った日のことを、今でも覚えている。
夏の終わり、陽射しが少しだけ柔らかくなり始めた頃。
手入れの行き届いた花壇の奥で、エリシアは白い花を見上げていた。
「……きれい」
その小さな声が、風に乗って私の耳に届いた。
「好きなのですか?」
思わず声をかけると、彼女は驚いたように振り向き、エメラルドのような瞳を見開いた。
その瞬間、胸の奥が熱くなった。
「ええ、とても。雪みたいに白くて、光を吸い込むように咲くところが好き」
「でも、茎にトゲがありますよ?」
「ふふ、そうね。……でも、この花にはね、美しい花言葉があるの」
そのときの笑顔を、私は一生忘れない。
気づけば、足元の枝を折り、そのルミエールの花を彼女に手渡していた。
エリシアは少し驚いた顔をしたあと、宝物のように「ありがとう」と言って受け取ってくれた。
――一目惚れだった。
あのとき、私は心に誓った。
いつか彼女の隣に立てる男になる、と。
それからというもの、エリシアと顔を合わせる機会は増えた。
父の使いで子爵家を訪ねれば、彼女はいつも庭園で花を摘んでいた。
時には屋敷の書庫で本を読み、時には厨房からこっそりパイを持ち出して、裏庭のベンチで分け合った。
「セドリックって、よく食べるのね」
「育ち盛りですから」
「ふふ、じゃあまた持ってきてあげる」
エリシアと会うたび、心が跳ねた。
だが同時に気づいていた。
彼女は名門の令嬢、私は弱小貴族の次男坊。
同じ景色を見られるのは、今だけだと。
それを悟ったのは、ある日のことだった。
エリシアの隣に、見知らぬ若い騎士がいた。
銀の鎧をまとい、整った立ち姿。
――彼女の隣が似合う男だった。
胸の奥が焼けるように熱くなり、何も言えずにその場を離れた。
(私は……彼女の隣に立つ資格がない)
悔しかった。
自分の無力さも、血筋も、全てが。
だから、決めた。
剣を取り、戦場で名を上げる。
地位を手に入れ、堂々と想いを告げられる男になる。
父に願い出て、王国軍への推薦状を書いてもらった。
「本気なのか、セドリック」
「はい。必ず手柄を立ててまいります」
出立の前日、あの庭を訪れた。
ルミエールの白い花が、風に揺れていた。
「……行ってくる」
彼女に直接言葉を残すことはできなかったが、
あの花が私の想いを代わりに伝えてくれると信じた。
王国軍での日々は、想像を超える地獄だった。
夜明け前からの訓練、泥だらけの行軍、眠れぬ遠征。
だが、折れることはなかった。
胸の奥に、エリシアの笑顔が灯っていたからだ。
そして、運命の戦が訪れる。
敵軍の急襲で前線が崩壊したそのとき、私は即座に地形と敵の布陣を読み、逆包囲の策を提案した。
わずかな兵を大軍に見せかけ、敵の恐怖心を突き、退路を断つ。
作戦は成功し、部隊は壊滅を免れた。
それが、軍師としての出世の始まりだった。
戦を重ねるごとに名が上がり、いつしか「不敗の銀狼」などと呼ばれるようになった。
だが、勝利を重ねても胸の空虚は埋まらなかった。
十年後、私は金色の勲章を胸に帰郷した。
ようやく堂々と彼女に会える――そう信じていた。
しかし、ラインフェルト家の侍女が告げたのは、あまりに残酷な現実だった。
「お嬢様は……すでにエーデルハルト家へ嫁がれました」
その言葉を聞いた瞬間、世界の音が消えた。
私は庭園へ向かった。
あの、かつて彼女が笑っていた場所へ。
そこには、白いルミエールの花が静かに咲いていた。
雪のように白く、触れたら消えてしまいそうで
――それでも、どこまでも美しかった。
(……遅すぎたのだ)
私はただ、その場に立ち尽くした。
以来、誰かを娶る気は起きなかった。
地位も名誉も手に入れた。
だが、それらはすべて、もう意味を失っていた。
戦場で血にまみれ、報告書に埋もれる日々は、心を鈍らせるのにちょうどよかった。
それでも――ふとした瞬間に、白いルミエールの花が脳裏をよぎる。
それが唯一、私の中で色を持って残った記憶だった。
そして今、私はエーデルハルト家の庭に立っている。
公爵との密談を終え、屋敷を出る途中だった。
秋を前にした風が、白い花弁を揺らしている。
「セドリック・モルデン様」
振り向くと、少女――いや、もう少女というより、令嬢と呼ぶべき年頃だろう――が立っていた。
青い瞳、凛とした姿勢。
一瞬、心臓が跳ねる。エリシアの面影が、そこにあった。
(この子が……エリシアの娘か)
王都での良くない噂は耳にしている。
気性が荒く、わがままで、周囲を困らせる令嬢だと。
だが、目の前の彼女からは、そうした嫌な雰囲気は感じられなかった。
形式的な礼だけ述べ、立ち去ろうとしたその時――
「モルデン様。ルミエールの花言葉をご存じですか?」
「いえ、存じ上げません」
「“愛するものへの帰郷の願い”――そう聞いております」
足が止まった。
振り返ると、リリアナは小さく笑っていた。
胸の奥で、何かが強く鳴った。
あの庭園で見た赤い実、告げられなかった想い。
十数年の時を越えて、その名を耳にした瞬間、運命の糸がかすかに揺れた気がした。
(……未練ですね)
◇
「――そういえば」
紅茶を一口すすったリリアナが、ふと首をかしげた。
「結局、あのときセドリックがルミエールの話に反応したのは、なんでだったのかしら?」
モブロックは、椅子の背にもたれながら彼女を見た。
無邪気な疑問を投げかける紫の瞳は、相変わらず何も悪気を含まない。
(……原作ゲームのセドリックルート)
脳裏に、かつての記憶がよみがえる。
――昔好きだった女性がいて、その人はルミエールの花が好きだった。
それ以上のことは、クリスの質問にも彼は決して答えなかった。
プレイヤーにも、最後まで正体は明かされない設定だ。
当時はセドリックのキャラ付けのフレーバー程度に思ってたんだけど…。
だが、今のリリアナの話で、全てがつながった。
リリアナの母――エリシアが、ルミエールを好んでいた。
つまり、セドリックが想い続けていた女性は、彼女の母だったのだ。
(……そうだったんだな)
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
十数年前、彼はその想いを胸にしまい、独り身を貫き、今に至る。
そして、エリシアの面影を宿す少女と出会い、運命のように同じ花の名を聞いた。
それは、彼の心にどんな波を立てただろう。
「……ねえ、なんでだと思います?」
リリアナが、また問いを重ねる。
「さあ、なんでだろね?」
モブロックは軽く肩をすくめた。
(本当のことは言わない。
その思い出は、セドリックと、もういない女性だけのものだ。
それを壊す権利は、僕にはない)
彼はそっと紅茶を口に運び、胸の奥でその答えを封じた。
第一章完結です。次から第二章が始まります




