ep10 - ドーナッツの穴
「そうね……まずは自己紹介ね。」
少女は不気味に笑みを浮かべながら、話す。
いや、その笑顔はあの笑顔と同じだ。ただあれは別の笑顔だと直感が言っている。
「私は1145。ってのは私じゃない私に聞いたわね。じゃあ別にする必要はないかっ。」
「私じゃない私?お前は誰なんだ?」
腕から血が溢れていると言うのに、自分でもなんで質問できるのかわからない。
「ん〜?ああ!貴方が出会った私は本当の人格じゃないのよ。この器の正しい人格は私。でしょ?」
でしょと言われても……いや、そんなこと言ってる暇はない。なんとかしてこの状況を切り抜けなければ。
「なんで刺したんだ?死んで欲しいのか?」
「わたくし的にはそんなことなくってよ〜っ?的なわら。」
「じゃあなんで刺したんだ?」
「殺したいだけで死んで欲しいわけじゃないの〜。」
言葉は通じるが話が通じないってのはこのことか……。
どうにか助けを呼ぶしかないな。左腕の感覚も無くなってきた。
それに力も抜けてきて、今にも穴に吸い込まれそうだ。
気がつくと、少女が目の前に立っていた。
「ねえねえ。私、あの子は神様を信じすぎだと思うの。だってだって、偶然だってあるわけだし、偶然が全てだし、何よりそんな小説の世界のことなんてあるわけないじゃない?あとあと──」
どうにかしなければいけないと言う考えが頭を回り、声が聞こえなくなる。
そうだ、あの助けを呼んだ装置がある。
自分は少女の耳あたりを睨む。そこにはやはりあの装置がついている。
「ん〜?これが欲しいの〜?」
視線に気がついた少女はその装置を外す。
一か八かだな。装置の機能を知らなかったら騙すことができる。
「ああ、その装置のボタンを押すだけでいい……っ!?」
「えいっ!」
少女はその装置を思いっきり振り翳し、自分の傷口に押し付ける。
「うわぁぁぁぁぁぁ!!」
「ねえねえ!早口言葉言って見てよ!アドレナリンのおかげで言えるかも!」
悶え苦しむ自分を置いて、少女は笑う。
だめだ、足に力が入らない。
穴の吸い込みも強くなっている。
「あっ!」
足を滑らした。
穴に落ちるように、地面を滑って行く。
まずい。
まずい!
右腕だけで必死に耐えてると、少女が右腕を足で踏む。
「ああああ!!」
「ねえ!ダンゴムシの気持ちがわかるかもね!どんな気持ち?どんな気持ち?」
右腕も使い物にならなくなり、穴に勢いよく吸い込まれて行く。
体が地面から離れる。
少女はまだ笑って何かを言っている。
穴に体が吸い込まれる。
……死ぬ直前だからだろうか、周りが妙に遅く感じる。
ここまで頑張ってきたボロボロになった足が消えた気がする。
ドーナッツを入れた腹が消えた気がする。
少女が頭を寄せた左腕も消える。
そして、ドーナッツを入れていたカバンも消え始める。
カバンの中から一つ何かが飛び出す。
ああ、あのドーナッツだ。
穴の空いた。普通のドーナッツ。
帰りに食べようと思っていたドーナッツ。
自分の頭と共に、ドーナッツは穴に吸い込まれる。
縁の端っこから消えて行く。
消えて行く部分が穴へと近づく。
そして、穴と世界が繋がる。
──その時、穴は世界に広がった。
穴は情報となり、宇宙から地球へと降り注ぐ。
穴が次々と弾けるように消えて行く。
◆
気がつくと、晴々とした青空の下、仰向けになっていた。
穴の消えた、真っ青な空。
白い雲がふわふわと浮かび、小鳥が囀り周り、木々がそよそよと鳴いている。
体の感覚がない。
薄れゆく意識の中、誰かの声を聞く。
「ひろ!ひろ!」
涙声になっているその声は、あの少女の声だった。
あの純粋な目をした、優しい笑顔で笑う、ドーナッツが好きで、ヒーローになりたい。あの少女の声。
もう何も見えない。
もう何も聞こえない。
冷え切った手に温もりを感じる。
世界は平和になっただろうか。
少女は笑えているのだろうか。
もう、考えることもできない。
ああ。




