第8話「泥の上の抱擁と本心の告白」
馬の背に揺られながら、ロイは厚い毛布の代わりにアレクの大きな外套で全身を包まれていた。
彼と同じ鞍に乗り、その分厚い胸に背中を完全に預けていた。
背後から回された太い腕がロイの腰をしっかりと抱き込み、手綱を握る手の動きに合わせて微かに揺れる。
雨はまだ降り続いているが、彼と密密着している部分から伝わる体温が、ロイの凍えた体を芯から温めていた。
アレクの心音は、いつになく早く、力強く鳴っている。
背中越しに伝わるその鼓動が、彼が決して冷静ではないことを教えていた。
「す、すみません。外套が、汚れて」
ロイが身を縮めて小声で謝ると、腰を抱く腕の力が一段と強くなった。
「口を開くな。体温が逃げる」
頭上から降ってきた声は低く、容赦がない。
しかし、その奥にある過保護なまでの気遣いを感じ取り、ロイは唇を閉じた。
屋敷に戻るまでの間、二人の間に言葉は交わされなかった。
ただ、雨音と蹄の音、そして互いの呼吸だけが夜の闇に溶けていく。
やがて重厚な鉄格子の門が見え、馬は速度を落として前庭に滑り込んだ。
馬車寄せには、ランタンを手にしたシュウと数人の使用人が待機していた。
シュウは濡れそぼった二人を見るなり、小さくため息をつく。
「本当に見つけてくるとはね。すぐに風呂と着替えの用意はできている」
アレクは手綱を離し、自らが先に馬から降りた。
そして、鞍の上に残されたロイへ向けて両手を差し出す。
「降りろ」
ロイは震える手で彼の肩に捕まり、身を預けた。
足が地面に触れた瞬間、力が抜けて崩れ落ちそうになる。
それを予測していたかのように、アレクの腕がロイの膝裏と背中をすくい上げ、軽々と抱え上げた。
「え、あの……自分で歩けます……」
「黙っていろと言ったはずだ」
使用人たちが驚きの目で見る中、アレクは泥まみれのロイを抱いたまま、屋敷の玄関をくぐり抜ける。
磨き上げられた大理石の床に、泥水と雨の滴が点々と黒い染みを作っていく。
ロイは自分の汚れた服が美しい屋敷を穢していくことに耐えきれず、目を伏せた。
アレクは迷うことなく階段を上り、自身の寝室へと向かった。
広い部屋の奥には、すでに湯気が立ち上る大きな風呂が用意されている。
アレクは湯船の脇にある長椅子にロイを静かに下ろした。
「服を脱げ」
命令に従い、ロイはかじかんだ指で濡れた麻の服の紐を解こうとする。
しかし、指先が強張り、うまく動かすことができない。
見かねたアレクが歩み寄り、ロイの手を乱暴に払いのけた。
「私がやる」
彼の手が、ロイの濡れた服の合わせ目に伸びてくる。
「だ、だめです。俺の服なんて、汚い」
「私の服もすでに泥まみれだ。今さら何を気にする必要がある」
アレクの長い指が、絡まった紐をほどき、冷たく張り付いた布地をゆっくりと肌から剥がしていく。
肌が露出するたびに、冷気が触れてロイの肩が小さく震える。
アレクの視線が、ロイの細い鎖骨、あばらの浮いた胸元、そして泥にまみれた素肌を静かになぞる。
その眼差しには、隠しきれない熱と、痛みを伴うような切実さが混ざっていた。
最後の布が床に落ち、ロイは両手で自分を抱きしめるようにして体を丸めた。
アレクは自分の泥だらけの外套と上着を無造作に脱ぎ捨てる。
そして、湯船からすくい上げた温かい湯を、柔らかい布に含ませた。
「顔を上げろ」
ひざまずいたアレクが、布をロイの頬に当てる。
温かいお湯が泥を洗い流し、肌の感覚を呼び覚ましていく。
彼の手つきは、まるで壊れ物を扱うように慎重で、ひどく丁寧だった。
首筋、肩、腕と、泥の汚れを一つ一つ拭い去っていく。
彼から漂う冬の森の香りが、浴室の湿気に混ざって濃厚に立ち込めていた。
「なぜ、自分には価値がないと思い込む」
アレクの手が止まり、低い声が響いた。
ロイは顔を上げ、彼の真っ直ぐな瞳を見つめ返す。
「お前は、死んだ土に花を咲かせた。私の領地を、数万の民を救った。それほどの力がありながら、なぜ泥水の中に沈もうとする」
「俺は、ただの農夫だからです」
ロイの目から、再び涙が溢れ出した。
「あの方のような、国を背負う立派なαの隣に、俺みたいな何も持たないΩがいてはいけない。俺がいることで、あの方が誰かに笑われたり、立場を危うくしたりするのが、怖かったんです」
涙が頬を伝い、アレクの手を濡らす。
「俺は、あの方のことが」
言葉の続きを口にする前に、アレクの手がロイの頭を引き寄せた。
濡れた髪に顔を埋め、深く息を吸い込む。
「私がお前を笑う者などすべて切り捨てる。立場の危機など、自らの力で捻じ伏せてみせる」
彼の腕が、ロイの裸の背中を強く抱きしめる。
「私が欲しいのは、お前だけだ。お前のその手も、その匂いも、すべて私のものだ。誰にも渡さない」
身勝手で、傲慢で、しかしこれ以上なく真っ直ぐな告白。
ロイは腕を伸ばし、アレクの広い背中に回した。
濡れた肌越しに、彼の強い心音が伝わってくる。
もはや、逃げ道はなかった。
身分も、立場も、彼の確かな熱の前では溶けて消えてしまう。
「俺も……アレク様のそばにいたいです。ずっと」
本心から絞り出した言葉は、雨音に消されることなく彼の耳に届いた。
アレクの腕の力がわずかに緩み、彼はロイの顔を見下ろした。
冷徹な宰相の仮面は完全に剥がれ落ち、そこには一人の男としての深い愛情が刻まれている。
彼は顔を寄せ、ロイの額にそっと唇を落とした。
触れた場所から、甘く熱い痺れが全身へと広がっていく。
「明日からは、私のために花を咲かせろ。一生だ」
その言葉に、ロイは静かに頷いた。
浴室の温かな空気に包まれながら、二人の間にある見えない壁は完全に崩れ去っていた。
雨の夜を越えて、彼らはようやく互いの熱を正しく分かち合ったのだ。




