第6話「完済の報せとすれ違う未来」
屋敷を飛び出したロイは、王都の入り組んだ路地をあてもなく歩き続けていた。
冷たい雨が降り始め、薄い麻の服を容赦なく濡らしていく。
足元の石畳は滑りやすく、すり減った靴の底から冷気が直接肌に伝わってくる。
ロイは風呂敷を抱きしめるようにして、寒さに震える体を丸めた。
胸の奥には、アレクの強い視線と、彼が触れた手の温もりが焼き付いて離れない。
私がお前を手放すわけがないだろう。
その言葉が何度も頭の中で反響する。
しかし、ロイはそれを愛情だとは受け取れなかった。
彼は責任感が強い。
借金を背負っていた自分を哀れみ、保護する義務があると感じているだけだ。
身元のしれない出稼ぎ農夫をそばに置けば、いずれ彼の政敵に利用される。
高貴なαである彼の経歴に、泥を塗るわけにはいかない。
『これでよかったんだ……』
ロイは雨の冷たさに感覚が麻痺していくのを感じながら、独り言をこぼした。
王都の喧騒は雨音にかき消され、世界には自分一人しかいないような錯覚に陥る。
どこへ向かえばいいのかわからない。
故郷の村へ帰るには、馬車を乗り継いでも数日はかかる。
手持ちの金は、数枚の銅貨だけ。
それでも、歩き続けるしかなかった。
日が落ちる頃には、雨はさらに激しさを増していた。
体温は奪われ続け、視界がぐらぐらと揺れる。
足がもつれ、ロイは路地裏の泥水の中に倒れ込んだ。
風呂敷が転がり、中からわずかな私物が散乱する。
それを拾い集めようと手を伸ばしたが、指先は言うことを聞かなかった。
聖なる指先と呼ばれるこの手も、自分の命を繋ぎ止めることはできない。
泥にまみれた手の甲を見つめながら、ロイは静かに目を閉じる。
意識が遠のき、暗闇に沈んでいく中で、温室の土の匂いと冬の森の香りが微かに鼻をかすめた気がした。
◆ ◆ ◆
一方、アレクの屋敷では、普段の静けさが完全に失われていた。
執務室の机には書類が散乱し、ガラスのインク瓶が床に砕け散っている。
アレクは窓枠に両手をつき、降りしきる雨を険しい目つきで睨みつけていた。
「捜索隊からの報告はまだか」
背後で控えるシュウに向かって、低い声で問い詰める。
その声には、隠しきれない焦燥と、今まで見せたことのない怒りが混ざっていた。
「王都の主要な門はすべて固めた。衛兵も動かしている。だが、この雨だ。匂いも足跡も消されてしまう」
シュウは丸眼鏡を押し上げながら、淡々と事実を述べる。
「どうして引き留められなかったんだ」
「君が不器用だからだろう」
シュウの容赦ない指摘に、アレクは窓枠を強く叩いた。
木製の枠が軋む音を立てる。
「私は、あいつの借金を無くし、あいつが望む場所を与えようとした。それのどこが間違っている」
「君は彼に、自分の気持ちを伝えたかい?」
シュウの問いに、アレクは言葉に詰まった。
「彼は自己評価が極端に低い。君のような高貴な存在が、自分を心から求めているなんて想像もできないんだ。君が彼を保護しようとする態度は、彼にとってただの同情にしか見えなかったんだよ」
「同情だと?」
アレクは振り返り、信じられないというように眉間にしわを寄せた。
「私が誰かに同情などするものか。私はあいつが」
そこで言葉を切り、アレクは深く息を吐いた。
彼自身、自分がこれほどまでに一人の人間に執着するとは思っていなかった。
最初はただ、領地を救うための道具として見ていた。
しかし、土にまみれて花を咲かせる彼の姿に、ひたむきに生きるその強さに、いつしか心を奪われていた。
彼から漂うΩの甘い香りが、自分の理性を狂わせる。
彼に触れた時、自分の内に眠るαの独占欲が暴れ出しそうになるのを、必死で抑え込んでいた。
その結果が、これだ。
自分の不器用さが、彼を雨の中へ追いやった。
「私が、直接探す」
アレクは窓際から離れ、壁に掛かっていた外套を手に取った。
「馬鹿な。宰相自らがこんな夜更けに動くなんて。明日は王宮で会議があるはずだ」
「そんなものはどうでもいい」
アレクは外套を羽織り、シュウを鋭く睨みつけた。
「彼を見つけ出さなければ、私は私でいられなくなる。それだけのことだ」
その目には、狂気にも似た深い執着が宿っていた。
シュウは小さくため息をつき、道を開ける。
「わかった。馬の用意はできている。気をつけて行けよ」
アレクは無言で頷き、執務室を飛び出した。
雨が叩きつける中庭に飛び出すと、冷たい水滴が顔を打つ。
しかし、彼の体内には熱い炎が燃えたぎっていた。
絶対に手放さない。
泥にまみれようが、身分が違おうが、関係ない。
彼は自分のものだ。
アレクは馬に跨り、手綱を強く引いた。
いななきと共に、黒い馬が王都の暗闇の中へと駆け出していく。
雨音を切り裂く蹄の音が、ロイの消えた足跡を追って響き渡った。




