第5話「完成する香水と隠した心」
厚い雲の隙間から、青白い月の光が温室のガラス屋根に落ちている。
深夜の冷気が忍び込む空間で、ロイの額から落ちた汗が黒い土に染み込んだ。
呼吸は荒く、肩が上下に揺れている。
指先から流し込む熱は、もう限界に近かった。
目の前にある香草は、昼間とは比べ物にならないほど逞しく成長し、何十枚もの葉を広げている。
その頂点には、固く結ばれた蕾があった。
魔力枯渇地を再生するための鍵となる、特別な花。
その蕾が今、ロイの熱を吸い上げて、わずかに震え始めている。
ロイは歯を食いしばり、最後の力を振り絞った。
荒れた指の腹から、自身の生命力を削り出すようにして熱を送り続ける。
体内を駆け巡る血液が沸騰するような錯覚に陥り、視界が白く明滅した。
その時、かすかな摩擦音とともに、緑色の外皮が縦に裂けた。
中から現れたのは、夜の闇に浮かび上がるような純白の花びらだ。
一つ、また一つと、花びらがほどけていく。
同時に、温室内のむせ返るような緑の匂いを一掃するほど、清冽で甘い香りが爆発的に広がった。
ロイは大きく息を吐き出し、その場にへたり込んだ。
両腕の力が抜け、土の上に手をつく。
目の前では、大輪の白い花が月の光を浴びて誇らしげに咲き誇っている。
「咲いた……」
掠れた声でつぶやくと、胸の奥から熱いものが込み上げてきた。
やり遂げたという達成感と、これで自分の役目が終わるのだという虚無感。
相反する感情が入り混じり、ロイは動くことができなかった。
背後で、パチパチという拍手の音が響いた。
振り返ると、入り口の影からシュウが歩み出てくる。
手には銀色のハサミと、ガラスの容器を持っていた。
「見事だ。本当にこの短期間で咲かせてしまうなんて」
シュウは花の前にしゃがみ込み、丸眼鏡の奥の目を細めて純白の花びらを見つめる。
「すごい魔力だ。これなら間違いなく、最高の香水が作れる」
彼はハサミの刃を茎の根元に当て、ためらいなく切り落とした。
切り口から溢れ出た樹液をガラスの容器に集め、花そのものも丁寧に収める。
「すぐに蒸留室へ持っていくよ。朝には完成しているはずだ」
シュウは立ち上がり、ロイを見下ろした。
その顔にはいつもの飄々とした笑みはなく、真剣な眼差しが向けられている。
「君の仕事はこれで終わりだ。よくやってくれた。アレクも喜ぶだろう」
ロイは土に手をついたまま、無言で頷いた。
終わったのだ。
アレクが自分を雇った理由が、すべて達成された。
シュウが温室を出て行った後、ロイは一人で黒い土を見つめていた。
花を切り取られた茎の残骸が、そこにあるだけ。
役割を終えた自分が、あの茎と同じように見えた。
膝の震えを堪えながら立ち上がり、ロイは温室のガラスに寄りかかった。
外はまだ暗く、冷たい風が木々を揺らしている。
アレクの冷たい瞳、彼が触れた頬の感触、不器用にかけられた言葉。
それらすべてが、もう手の届かない場所へ行ってしまう。
「これでいいんだ」
ロイは自分に言い聞かせるように、小さくつぶやいた。
村の借金はなくなる。
自分は元の生活に戻るだけだ。
身分違いの恋心など、最初から抱くべきではなかったのだから。
翌朝、ロイが自室で荷物をまとめていると、扉を叩く音がした。
薄い麻の服に着替え、わずかな私物を風呂敷に包み終えたところだった。
扉を開けると、そこにはシュウが立っていた。
彼の手には、美しい装飾が施された小さなガラス瓶が握られている。
中には、透明な液体が揺れていた。
「完成したよ。君の育てた花から抽出した、最高の香水だ」
シュウは小瓶を太陽の光にかざし、満足そうに目を細める。
「これを領地の水源に一滴垂らすだけで、死んだ土に魔力が戻る。君は英雄だよ、ロイ」
「俺は、ただ花を咲かせただけです」
ロイは視線を落とし、風呂敷の結び目をきつく握り直した。
「荷物をまとめているのか」
シュウの問いかけに、ロイは小さく頷く。
「俺の役目は終わりました。これ以上、お屋敷にご迷惑をおかけするわけにはいきません」
シュウは小さくため息をつき、頭をかいた。
「君がそう言うと思っていたよ。でもね、アレクは君を帰すつもりはないと思う」
「え」
「彼は不器用だからね。君にどう接していいかわからないだけなんだ」
シュウは小瓶をポケットにしまい、ロイの肩に手を置いた。
「彼が戻ってくるまで、待っていてあげてくれないか。今朝早く、彼は王宮へ向かった。領地の再生計画の許可を取るためにね」
ロイはシュウの手を見つめ、静かに首を振った。
「あの方は、国の頂点に立つ方です。俺のような汚れた農夫がそばにいては、あの方の経歴に傷がつきます」
「ロイ」
「お世話になりました。シュウさんにも、色々助けていただいて」
ロイは深く頭を下げ、部屋を出ようとする。
しかし、シュウはロイの腕を掴んで引き止めた。
「待て。アレクが君の村の借金について、何か言っていなかったか」
「香水が完成すれば、肩代わりしてくださると」
「それだけじゃない。彼は君の村の借金の元凶である悪徳商人を、すでに捕らえているはずだ」
シュウの言葉に、ロイは目を丸くした。
「え……?」
「彼が独自の情報網で調べ上げたんだ。君の村が騙されて背負わされた借金は、そもそも無効なものだったとね。それを証明するために、彼は王宮で戦っているんだよ」
ロイの心臓が、大きく跳ねた。
アレクが、自分の村のためにそこまでしてくれていた。
ただお金を払うだけでなく、根本的な原因を解決しようとしていた。
「どうして、言ってくれなかったんですか」
「彼のことだから、確実な結果が出るまでは口にしたくなかったんだろう」
シュウは腕を離し、優しい目をしてロイを見つめる。
「彼は君を手放さないよ。君が思っている以上に、彼は君に執着している」
ロイは風呂敷を落とし、その場に立ち尽くした。
アレクが自分を思ってくれている。
その事実が、凍りついていた心を溶かしていくように感じた。
しかし、同時に恐怖も湧き上がってくる。
もし自分が彼に寄り添えば、周囲の人間はどう思うだろうか。
貴族の社会で、身元も知れないΩの農夫が彼の隣に立つこと。
それは彼を、底なしの泥沼に引き摺り込むことにならないだろうか。
「俺は……」
ロイの言葉は、廊下の奥から響いてきた足音に遮られた。
硬い靴音が、まっすぐにこの部屋へ向かってくる。
シュウが振り返り、ロイも息を呑んで視線を向けた。
現れたのは、執務服の乱れも気にせず、息を切らしたアレクだった。
彼の瞳には、普段の冷静さはなく、焦燥の色が濃く浮かんでいる。
「アレク、早かったな。許可は下りたのか」
シュウの問いに、アレクは短く頷いた。
「悪徳商人の不正は証明された。借金は全て帳消しになる」
アレクの言葉に、ロイは両手で顔を覆った。
終わった。
本当に、全ての苦しみから解放されたのだ。
アレクはロイの前に進み出ると、その両手をそっと引き剥がした。
「泣いているのか」
彼の指が、ロイの目尻からこぼれ落ちる涙を拭う。
その手は震えており、彼がどれほどの思いで王宮を駆け回ってきたのかが伝わってきた。
「あ、ありがとうございます。何とお礼を言っていいか」
「礼などいらん。私はただ、当然のことをしたまでだ」
アレクはロイの手を握りしめ、強い視線で真っ直ぐに見つめる。
「お前はもう、自由だ。借金のために働く必要はない」
自由。
その言葉が、ロイの胸に冷たく突き刺さる。
自由になったということは、ここを出て行かなければならないということ。
彼は借金という鎖を断ち切り、自分を解放してくれた。
それなのに、どうしてこんなにも悲しいのだろう。
「はい。すぐに荷物をまとめて、村へ帰ります」
ロイが絞り出すように言うと、アレクの眉間に深いしわが寄った。
「帰るだと? 誰がそんなことを許した」
「え?」
「お前はここにいろ。私がお前を手放すわけがないだろう」
アレクの言葉は、まるで命令のように強く響いた。
しかし、その奥にある感情を、ロイは正しく受け取ることができなかった。
彼が自分を引き留めるのは、まだ何か役目があるからなのか。
それとも、同情からなのか。
身分違いの自分が、彼の隣にいる資格などない。
ロイはアレクの手を振り解き、一歩後ろへ下がった。
「俺は、農夫です。土を耕し、作物を育てるのが俺の生き方です。こんな立派なお屋敷で、何もせずに生きることはできません」
「ならば、私の領地へ来い。お前の望むだけの土を与えてやる」
「だめです!」
ロイは初めて、アレクに向かって声を荒げた。
「あの方の経歴に、俺のような泥まみれのΩがいてはいけないんです。どうか、俺を村へ帰してください」
ロイはそれだけを言うと、床に落ちていた風呂敷を拾い上げ、部屋を飛び出した。
背後でアレクが何かを叫ぶ声が聞こえたが、振り返ることはできなかった。
涙で滲む視界の中、ロイはひたすらに屋敷の出口を目指して走り続けた。
彼の優しさに触れれば触れるほど、離れるのがつらくなる。
だからこそ、今ここで断ち切らなければならない。
彼の未来のために。




