第4話「近づく距離と触れられない手」
深夜の温室は、昼間とは違う静謐な空気に満ちている。
ガラスに当たる雨の音が、一定のリズムで微かに響いていた。
開いた扉から流れ込んできたのは、雨の冷気と、それを凌駕するほど濃厚な冬の森の香り。
ロイは土から手を離し、弾かれたように振り返った。
入り口に立っていたのは、執務服の襟元を少し緩めたアレクだった。
いつも隙なく撫でつけられている髪が、わずかに乱れて額にかかっている。
その姿からは、昼間には見せない深い疲労の色が滲み出ていた。
「こんな時間まで、まだ作業をしているのか」
アレクは扉を閉め、ゆっくりとロイの方へ歩み寄ってくる。
足音が湿った床に響くたび、ロイの心臓が警鐘を鳴らすように拍動を早めた。
「あ、はい。夜のほうが植物の力が落ち着いていて、魔力を流しやすい気がして」
ロイは立ち上がり、慌てて服の裾についた土を払う。
アレクはロイの数歩手前で立ち止まり、香草の区画へと視線を向けた。
「確実に育っているな。葉の色が深くなっている」
「シュウさんの培養液が効いているんだと思います。あと少しで、次の段階に進めるはずです」
「お前の力あってこそだ。シュウもそう言っていた」
アレクの視線が、植物からロイの顔へと移る。
薄暗い照明の中でも、彼の瞳が鋭く光を捕らえているのがわかる。
「少し、休め。働きすぎだ」
「でも、早く終わらせないと、領地の土が」
「私の領地の心配など、お前がしなくていい。それは私の責任だ」
冷たく響く言葉に、ロイは唇を噛んでうつむいた。
突き放されたように感じて、胸の奥がちくりと痛む。
しかし、アレクは次の瞬間、小さなため息をついた。
「領民を飢えさせるわけにはいかない。だが、そのためにお前を壊してしまえば、本末転倒だ」
その言葉には、隠しきれない苛立ちと、微かな気遣いが混ざっていた。
ロイは驚いて顔を上げる。
アレクの視線は再び香草へと向けられており、その横顔には苦悩の影が落ちている。
彼は一人で、国を背負い、領地を背負い、どれほどの重圧と戦っているのだろうか。
ロイは自分の汚れた手を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「俺は、壊れたりしません。昔から土をいじることしか取り柄がないんです。だから、これが俺にできる一番の恩返しです」
「恩返しだと?」
「はい。借金を肩代わりしていただけるなんて、本当ならあり得ない話です。あの方は村の皆を救ってくれる。だから俺も、あの方の力になりたいんです」
言葉にすると、自分でも驚くほど素直な感情がこぼれ落ちた。
アレクはゆっくりと顔を向け、ロイの瞳を真っ直ぐに射抜く。
二人の間に沈黙が落ちた。
雨の音だけが、ガラスの向こうで響き続けている。
アレクが一歩、ロイに近づいた。
冬の森の香りが、温室の湿った空気を押し退けてロイを包み込む。
それはαの威圧感ではなく、ただ相手の存在を確かめるような静かな引力を持っていた。
「お前は、奇妙なやつだ」
アレクの声は、今まで聞いたことのないほど低く、掠れていた。
「自分の身など省みず、ただ泥にまみれて花を咲かせることだけを考えている。そのくせ、妙に甘い匂いを振りまいている」
大きな手が伸びてきて、ロイの頬に触れた。
革手袋は外されており、彼の素肌の熱が直接ロイの肌に伝わってくる。
その手は剣を握るための硬い剣だこがあり、ひんやりとしているのに、触れられた場所から火傷しそうなほどの熱が広がっていく。
ロイは息を呑み、動くことができなかった。
アレクの親指が、ロイの頬についた土汚れをそっと拭う。
「あ、あの……」
「動くな」
低い声で命じられ、ロイは目を伏せる。
心臓の音がうるさくて、自分の呼吸の仕方を忘れてしまいそうだった。
アレクの指先が、頬から顎のラインをなぞり、首筋へと滑り落ちる。
Ωの急所である首筋にαの手が触れているという事実に、ロイの体が本能的に震えた。
恐怖ではない。
それは、相手を受け入れたいという甘い痺れを伴う衝動だった。
アレクの呼吸も、わずかに乱れているのがわかる。
彼の指が、ロイの脈打つ首筋でぴたりと止まった。
「この匂いは、毒だ」
アレクがぽつりとこぼした言葉は、誰に宛てたものかわからない。
彼はロイの首筋からゆっくりと手を離し、一歩後ろへ下がった。
熱を奪われた肌が、急に冷たい空気に晒されて粟立つ。
ロイは自分の首筋に手を当て、アレクの顔を見上げた。
彼の表情はいつもの冷徹なものに戻っていたが、瞳の奥にはまだくすぶるような熱が残っている。
「今日はもう休め。明日以降も、夜中の作業は禁ずる」
アレクはそれだけを言い残し、背を向けて温室の出口へと歩き出した。
開いた扉から冷たい風が入り込み、ロイの前髪を揺らす。
バタンと扉が閉まり、再び一人きりになった温室で、ロイはその場にへたり込んだ。
首筋に残る彼の指の感触が、どうしても消えない。
アレクの言葉の端々に隠された不器用な優しさに、ロイは自分がどうしようもなく惹かれていることを自覚した。
しかし、同時に強烈な自己嫌悪が押し寄せてくる。
自分は出稼ぎ農夫だ。
借金を返すために、身売り同然でこの屋敷に来た。
対してアレクは、国の頂点に立つ宰相であり、高貴なαだ。
住む世界が違う。
彼が自分に触れたのは、ただ自分の香りに当てられただけのこと。
一時の迷いに過ぎない。
もし自分が彼に寄り添おうとすれば、彼の経歴に泥を塗ることになる。
『だめだ。これ以上、近づいちゃいけない』
ロイは両膝を抱え込み、小さく丸まる。
土の匂いに混じって、彼が残していった冬の森の香りがまだそこに漂っている。
その香りを肺の奥底に閉じ込めるように、ロイは深く息を吸い込んだ。
香水が完成するまでの辛抱だ。
それまでは、この感情には絶対に蓋をしなければならない。
ロイは固く目を閉じ、自分自身にそう言い聞かせた。




