第3話「土の匂いと氷の宰相」
ガラス張りの天井から、柔らかな朝の光が降り注いでいる。
温室の中はすでに十分な湿度を保ち、むせ返るような緑の香りが空気を重くしていた。
ロイは膝をつき、目の前にある黒く乾いた土に両手を沈める。
手入れの行き届いた他の区画とは違い、ここだけは依然として生命の気配が薄い。
香草の苗は、黒い土に張り付くようにしてかろうじて形を保っている。
ロイは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
肺を満たす湿った空気を体内で熱に変え、それを肩から腕、そして指先へとゆっくり流し込んでいく。
荒れた指の腹が、枯れかけた茎の表面をそっと撫でる。
冷え切った植物の奥底に、ほんのわずかな脈動を探り当てる。
それに同調するように、ロイは自分の内側にある熱を少しずつ分け与えた。
急激に力を流し込めば、香草はそれに反発して自ら命を絶ってしまう。
シュウが錬金術で調整した特別な培養液を含ませた土と、ロイの指先から伝わる微かな熱。
その二つが絶妙な均衡を保つことで、香草は少しずつ周囲の魔力に順応し始めていた。
茶色く変色していた茎の根元に、淡い緑色が浮かび上がる。
ロイはゆっくりと指を離し、額に浮かんだ汗を手の甲で拭った。
「今日もいい調子だね」
背後から声が掛かり、ロイは肩をすくめて振り返る。
丸眼鏡をかけたシュウが、手にしたガラスの小瓶を揺らしながら歩いてきた。
だぼだぼの白衣の裾が、歩くたびに床を擦る音を立てている。
「この培養液のおかげです。土に少しずつ力が戻ってきているのがわかります」
「いやいや、君のその手がないと、いくら僕が薬を作っても意味がないさ」
シュウは小瓶の中の青い液体を、苗の根元に数滴だけ落とした。
液体は土に触れた途端に細かな泡を立て、すぐに染み込んで消えていく。
「この香草は、魔力を溜め込む器としては優秀すぎるんだ。だからこそ、周りの環境を破壊してしまう」
シュウは眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、香草の葉を観察する。
「君が毎日少しずつ生命力を注いで、器の強度を上げている。このままいけば、あと半月で最初の蕾がつくかもしれない」
蕾がつく。
その言葉に、ロイの胸の奥で小さな喜びが跳ねた。
花が咲けば、そこから成分を抽出して香水を作ることができる。
それが完成すれば、アレクの領地の土を救うことができるのだ。
そして、故郷の村が背負わされた重い借金も。
「頑張ります。もっと早く花を咲かせられるように」
「焦らなくていいよ。君は昨日も夜遅くまでここにいただろう。ちゃんと寝ないと、君の体がもたない」
シュウの指摘に、ロイは曖昧に微笑んで視線を逸らした。
与えられた客室は、農夫のロイには広すぎて落ち着かなかった。
ふかふかの絨毯も、絹のシーツも、自分が触れれば汚れてしまうような気がしてならない。
結局、土の匂いがするこの温室が一番安心できる場所だった。
「それに、君が倒れたら僕の首が飛ぶ。あそこの怖い主にね」
シュウが肩をすくめながら温室の入り口に顎をしゃくった。
ロイがそちらへ視線を向けると、ガラスの扉の向こうに長身の影が立っている。
心臓が跳ね上がり、ロイは弾かれたように立ち上がった。
分厚い扉がゆっくりと開き、冷たい外気を引き連れてアレクが中へ入ってくる。
上質な紺色の執務服に身を包み、夜空のような深い色の髪をきっちりと撫でつけている。
彼の姿が現れただけで、温室の空気が一段階冷え込んだように感じられた。
アレクが発する冬の森のような鋭い香りが、むせ返るような植物の匂いを切り裂いて近づいてくる。
「進捗はどうだ」
アレクはロイを一瞥した後、足元の香草へと視線を落とした。
低くよく響く声が、温室のガラスをかすかに震わせる。
「順調だよ。彼の力のおかげで、苗は確実に根を張り始めている。培養液の吸収も予想以上だ」
シュウが報告すると、アレクは無言のまましゃがみ込んだ。
手袋に包まれた長い指が、淡い緑色を取り戻した茎の表面をなぞる。
その横顔には一切の感情が浮かんでいないが、鋭い瞳の奥にわずかな安堵の色が混ざったのを、ロイは見逃さなかった。
「そうか。引き続き頼む」
アレクは短く言い、ゆっくりと立ち上がる。
その際、彼の視線がロイの手元で止まった。
ロイは慌てて両手を背中に隠す。
爪の間にまで黒い土が入り込み、手の甲には植物の棘でついた細かいすり傷がいくつもあった。
高貴な宰相に見せるような手ではない。
「怪我をしているな」
「い、いえ。これはただの擦り傷で、農作業ではよくあることです」
ロイは一歩後ずさるが、アレクはそれより早く距離を詰めてきた。
大きな手が伸びてきて、ロイの背中に隠した手首を強引に引き寄せる。
手袋越しの冷たい感触が肌に触れ、ロイの肩がびくっと震えた。
アレクはロイの手を自分の目の高さまで持ち上げ、じっと観察する。
至近距離に迫った端正な顔立ちと、そこから漂う圧倒的なαの香りに、ロイの呼吸が浅くなる。
「治療をしろ。その手が使えなくなれば、計画に支障が出る」
「洗えばすぐに治ります。本当に、たいしたことじゃ」
「私の指示が聞けないのか」
低い声で遮られ、ロイは言葉を飲み込んだ。
アレクは自分の胸元から、雪のように白い絹のハンカチを取り出す。
そして、それをロイの手の甲に押し当てた。
「え、あの、汚れてしまいます」
「構わん。傷口に土が入れば化膿する。シュウ、後でこいつに軟膏を渡しておけ」
「はいはい、了解。お前も過保護だな」
シュウが呆れたように肩をすくめるが、アレクはそれに答えない。
彼はハンカチでロイの手についた土を丁寧に拭い取っていく。
その動作は、冷徹な言葉とは裏腹にひどく慎重で優しい。
手首を掴む指の力も、逃げられないようにしっかりと固定しているだけで、痛みは全くなかった。
ロイは自分の心臓が、耳の奥でうるさいほど鳴っているのを感じた。
拭き取られた肌の表面から、アレクの体温がかすかに伝わってくる。
彼から漂う冬の森の香りの奥に、どこか甘く静かな気配が混ざっていることに気がついた。
それは、彼が内に秘めている領民への思いや、責任の重さからくるものなのかもしれない。
「これでいい。必ず薬を塗れ」
アレクは汚れたハンカチを無造作に丸めてポケットに突っ込むと、ロイの手首を解放した。
熱を奪われたような感覚に陥り、ロイは自分の胸に手を押し当てる。
「あ、ありがとうございます」
蚊の鳴くような声で礼を言うと、アレクはわずかに顎を引いた。
そして、去り際に一瞬だけロイの顔を見下ろす。
「お前からは、妙に甘い匂いがする。土にまみれていても、隠しきれていない」
その言葉に、ロイの顔が一気に熱を持った。
Ωとしての自分の香りを指摘されるのは、着ている服を剥ぎ取られるよりも恥ずかしい。
アレクはそれ以上何も言わず、外套の裾を翻して温室を出て行った。
バタンと分厚いガラス扉が閉まり、再び静寂が戻ってくる。
「あいつ、相変わらず言葉が足りないよな」
シュウが苦笑しながら、白衣のポケットを漁って小さな薬瓶を取り出した。
「ほら、これ塗っときな。あの匂いのこと、嫌味で言ったんじゃないと思うよ。彼はただ、事実を口にしただけさ」
「事実だとしても、俺みたいな汚い農夫の匂いなんて」
「君は自分の香りの良さに気づいていないんだね。それに、君のその土にまみれた姿、あいつは嫌いじゃないはずだ」
シュウの言葉の意味がわからず、ロイは首を傾げた。
手渡された薬瓶を握りしめると、そこにはまだほんのりとシュウの体温が残っていた。
しかしロイの手の甲には、先ほどアレクに触れられた時の、ひんやりとした熱の記憶が鮮明に焼き付いている。
身分の違う相手だ。
自分はただ、借金返済のために雇われた道具に過ぎない。
そう言い聞かせても、胸の奥で芽生え始めた小さな感情の種は、温室の熱を吸ってゆっくりと根を張り始めていた。
◆ ◆ ◆
夜の帳が下り、屋敷全体が深い静寂に包まれている。
温室の中は魔力で灯された光がわずかに揺れ、植物たちの影をガラスに落としていた。
ロイは一人、枯れた区画の前に座り込んでいる。
昼間にシュウが言った言葉が、頭の隅でずっと反響していた。
君のその土にまみれた姿、あいつは嫌いじゃないはずだ。
アレクの冷たい瞳の奥にあった、微かな安堵の色。
彼はただの冷酷な宰相ではない。
不器用で、言葉が足りないだけで、誰よりも領地と民を思っている。
ロイは自分の指先を見つめた。
アレクにハンカチで拭われた肌は、今でもそこだけが熱を帯びているように感じる。
『だめだ。あの方は雲の上の人だ』
ロイは独り言をいい、両手で自分の頬を軽く叩いた。
勘違いしてはいけない。
彼が必要としているのは、自分の持つ聖なる指先の力だけだ。
香水が完成すれば、この契約は終わり、自分は村へ帰る。
それだけの関係だ。
ロイは再び土に手を入れ、香草の根元に熱を送り始める。
雑念を振り払い、ただ目の前の命と向き合う。
植物の息吹が指先から伝わり、それに呼応するようにロイの体内でも熱が巡る。
その時、温室の入り口の扉が微かな音を立てて開いた。




