第2話「秘密の庭と特別な契約」
馬車の車輪が石畳を転がる音が、規則正しく響いている。
ロイは贅沢な革張りの座席の端に身を縮め、膝の上に抱えた素焼きの鉢植えをじっと見つめていた。
向かいの席には、腕を組んで目を閉じているアレクが座っている。
閉ざされた空間には、彼から発せられる冬の森のような香りが充満していた。
それは息苦しいほどの威圧感を持っているのに、なぜか心を落ち着かせるような静けさも孕んでいる。
ロイは自分の薄汚れた服から漂う泥や汗の匂いが、この美しい空間を汚してしまわないかと気が気ではなかった。
やがて馬車は速度を落とし、重厚な鉄格子の門を抜けて止まる。
従者が恭しく扉を開けると、目に飛び込んできたのは王城と見紛うほどの巨大な屋敷だった。
手入れの行き届いた前庭を抜け、アレクは無言のままロイを屋敷の奥へと先導する。
磨き上げられた大理石の床に、ロイのすり減った靴が情けない音を立てた。
長い回廊を歩き続けると、やがて空気がわずかに湿りを帯びてくる。
分厚いガラスの扉をアレクが押し開けると、そこは別世界だった。
肌にまとわりつくような温かい湿度。
濃厚な土の匂いと、多種多様な植物が放つむせ返るような緑の香り。
広大なガラス張りの温室には、ロイが故郷でも見たことのない奇妙な形をした植物が所狭しと並んでいる。
天井まで届きそうな巨大なシダ、毒々しいほど鮮やかな色をした花、壁を這うように蔓を伸ばす蔦。
農夫としての血が騒ぐのを感じながら、ロイは目を丸くして周囲を見渡した。
「よく手入れされているだろう」
背後から突然声が掛かり、ロイはびくっと肩を跳ねさせた。
振り返ると、サイズの大きな白衣のような上着を着た男が立っている。
緩く結んだ茶色の髪と、丸い眼鏡の奥の細い目が印象的だ。
男からは、肌を刺すような威圧感も、思考を鈍らせるような甘い香りもしない。
彼がβであることを感じ取り、ロイは少しだけ強張っていた肩の力を抜いた。
「俺はシュウ。ここの主の右腕であり、しがない錬金術師さ。君がアレクの言っていた、面白い力を持つ子だね」
シュウは人懐っこい笑みを浮かべ、ロイの手元にある鉢植えを覗き込んだ。
「路地裏の土でこれを咲かせたのか。見事な魔法だ」
「魔法なんかじゃありません。俺はただ、少し植物の調子がわかるだけで」
「謙遜しなくていい。君のその手が必要なんだ」
シュウの言葉を遮るように、アレクが進み出て温室の最奥にある区画を指差した。
そこだけが、まるで呪われているかのように異質な空間だった。
周囲の豊かな緑とは対照的に、黒く干からびた土が広がっている。
等間隔に植えられた苗はどれも生気を失い、茶色く枯れ果てていた。
ロイは鉢植えを近くの台に置き、その枯れた区画へとゆっくり近づく。
足を踏み入れた瞬間、靴底から嫌な冷たさが這い上がってくるのを感じた。
土が死んでいるのではない。
土の中にあるべき命の巡りが、根こそぎ奪われているのだ。
「これは、魔力枯渇地を再生するための触媒となる香草だ」
アレクがロイの背後に立ち、静かな声で告げた。
「私の領地の半分は、数年前から土が死に、作物が育たなくなっている。この香草から抽出する成分があれば、土地の魔脈を正常に戻すことができるはずなのだ」
「ですが、この土では育ちません」
ロイはしゃがみ込み、枯れた苗の根元の土を指でつまんだ。
パラパラと崩れる土は、水分も栄養も完全に失っている。
「この香草は、周りの魔力を吸いすぎて自滅しています。普通の土では支えきれない」
ロイの言葉に、シュウが感嘆の息を漏らした。
「正解だ。僕が錬金術で土の成分を調整しても、香草の魔力吸収速度に追いつかない。芽が出る前に根が腐るか、葉が展開する前に干からびるかのどちらかだ」
シュウは丸眼鏡を押し上げ、ロイの手元をじっと見つめる。
「君の力で、この香草の成長を強制的に進められないか。根が張るより先に葉を開かせ、周囲の魔力を安定させるんだ」
ロイは指先についた土を払い、枯れた苗の一つにそっと触れた。
路地裏で花を咲かせた時とは比べ物にならないほどの、強い抵抗を感じる。
植物自体が、成長することを拒絶しているようだった。
ロイは目を閉じ、深く息を吸い込む。
温室の湿った空気を肺に満たし、自分の内側にある熱を指先に集めた。
荒れた指の腹から、香草の細い茎へと熱を流し込む。
拒絶の壁を押し除け、奥深くで眠っている命の欠片を探り当てる。
かすかな脈動。
それに同調するように、ロイはさらに熱を送り込んだ。
茶色く変色していた茎に、ほんのわずかな緑色が戻ってくる。
しかし、そこまでだった。
ロイが指を離すと、緑色はすぐに失われ、再び枯れた茶色に戻ってしまった。
「だめです」
ロイは立ち上がり、首を横に振った。
「俺の力は、植物の命を手助けするだけのものです。この香草は、自分から生きることを諦めています。無理に力を流し込んでも、すぐに反発されてしまう」
「やはり、そう簡単にはいかないか」
シュウがため息をつき、頭をかく。
アレクは無表情のまま、ロイと枯れた苗を交互に見つめていた。
「方法はないのか」
「時間をかければ、少しずつ慣れさせることはできるかもしれません。でも、それには毎日つきっきりで世話をする必要があります」
「ならば、今日からここで暮らせ」
アレクの言葉に、ロイは目を丸くした。
「暮らすって、俺は王都の宿に」
「あんな環境で、まともな休息が取れるとは思えん。この屋敷の空き部屋を使え。食事も衣服も用意させる。お前はただ、この香草を育てることだけに集中しろ」
有無を言わさぬ口調。
それは提案ではなく、明確な命令だった。
ロイは戸惑いながらも、断る理由を見つけられなかった。
故郷の借金を返すためなら、どんな環境でも耐え抜くつもりだった。
それが、こんな温かい場所で土に触れる仕事なら、なおさらだ。
「わかりました。俺にできることなら、やらせてください」
ロイが頭を下げると、アレクはかすかに目を細めた。
「報酬は、月に金貨三十枚。香水が完成した暁には、お前の村の借金を全額私が肩代わりする」
提示された破格の条件に、ロイは息を呑んだ。
金貨三十枚など、農夫が一生働いても稼げない額だ。
それが毎月支払われるというのか。
「そ、そんな大金、受け取れません。俺はただの素人ですし」
「素人の戯言ではない。お前の持つ価値に対して支払う正当な対価だ。私に二言はない」
アレクはそう言い捨てると、背を向けて温室の出口へと歩き出した。
残されたロイは、自分の荒れた手をじっと見つめる。
これからどうなるのか、全く想像がつかない。
しかし、この温室の土の匂いは、ロイに故郷の村を思い出させた。
「彼、ああ見えて結構焦ってるんだよ」
シュウが隣に立ち、歩き去るアレクの背中を見つめながら口を開いた。
「領地の枯渇は深刻でね。領民の生活がかかっているから、無理もしている。君の力が、彼の救いになるかもしれない」
シュウの穏やかな声に、ロイは再び枯れた苗へと視線を落とした。
冷徹に見えるあの男が、領民のためにこれほど必死になっている。
その事実に、ロイの胸の奥で小さな感情の芽がわずかに揺れた。




