空中輪舞-2
「きたきた。おーい」
「ああ、あす姉」
暫く道なりに進むと、そこには明日美がいた。光弘を見るなり、寄りかかっていた壁から離れて、手を振りながら駆けてくる。
「お疲れ様ー」
「うん。ありがと」
懐いた犬のようにぱたぱたと笑顔で近づいてきた明日美だったが、光弘のそばまで来ると、途端にその表情が翳った。
「……ちょっと疲れた?」
そしてすぐさまこれである。この辺りは本当に敵わないと、光弘は思う。
事実、彼は久しぶりの『電池役』だったため、いつもよりずっと疲労していた。明日美は昔から、光弘限定で、この手の嗅覚に優れている。
「ん。……まあ少しね。でも大丈夫」
とはいえ、動けないと言うほどでもない。彼女が本格的に過保護モードになる前に、軽く笑いかけてみる。
「……」
だが、明日美はそのままの体制を崩さず、黙してしげしげと彼の顔を覗き込んだ。
「な、なに?」
困ったのは光弘である。ここに来てからも、ケガの療養を兼ねて、晴れて光弘の『世話役兼オブザーバー』のポストをもぎとった(余談だが、ジュアンによれば、本当に幹部からバッジをもぎ取るような詰め寄り方だったらしい)明日美とは、殆ど毎日顔を合わせているわけなのだが……それでも時々、こうして無防備に近づかれるたび、彼女の香気に当てられてしまう事がある。
(俺ってこんなに……なんというか、色ボケ? だったかなあ。よりによってあす姉に……)
ともすれば彼女の背中に回してしまいそうな手を、意思の力で気をつけに保つ。彼女はかけがえのない家族なのだと、全力で自分に言い聞かせる。
「……うん。おーけー」
そうして、光弘が、むしろこの接近のせいで疲れ果てそうになるその寸前、明日美はにへらと笑って離れた。
「どこらへんが『おーけー』なのやら……」
ほっと一息つきながらも、少し嫌味っぽく言ってしまう。
「いや。その『大丈夫』は多分本当に大丈夫なときのヤツかなって。いつも、確かめることにしてるの」
「なにそれ?」
「ううん。気にしなくて良いよ。もう解ったから。……それより、ほら行こう!」
「っとと、ちょっと!」
複雑な光弘の男心にはまるで頓着せず、一瞬だけひどく真剣な表情をした明日美だったが、彼が聞きとがめた時にはもう、くるりと笑顔に変わっていた。
そのまま有無を言わせず手をとって、ぐいぐいと先に進んでしまうので、光弘も勢いに飲まれてしまう。
「じ、自分で歩けるから!」
「じゃあいきましょー!」
彼の抗議を意にも介さず、明日美は元気いっぱいに宣言した。
*
そのまましばし空と海の間を歩き、外延部から居住区へ入る。
この辺りは、先ほどの無辺をさえ感じさせる大景観とはうって変わって、質素で広々とした碁盤目状の通路と、その『辺』にあたる部分に、1Kシャワー付きの部屋が無数に存在する、あくまで機能だけを優先した区画である。もちろん、明日美の部屋もここにある。が。
「あのさ」
「んー?」
「……あす姉、どこまで行くのさ」
既に彼女の部屋を通り過ぎていた。ちなみに、光弘の部屋は元から別の区画にあるので、そちらに向かっているわけでもない。
適当に話しながらついてきていた光弘だが、いつもと違う道を歩き始めてから、もう三回は角を曲がっていた。
先述の通り、監督役と言う役割にかこつけて、明日美と共に時間を過ごすこと自体は、そう珍しい事でもない。
むしろ、このまま彼女の部屋へ向かい、夕食を御馳走になったり、過日のごとく勉強を教わったり、適当にゲームをしてみたり……なんのかんのと二人で過ごし、寝るときだけ自分の部屋に帰る、というのが、最近の光弘の生活の典型ではあった。
それだけに、変化に乏しい側面もある。だから光弘は、三か月を経てなお、案内で一度足を踏み入れたきりの場所にさしかかったあたりで、少し不安にさえ感じ始めている。
「どこって……」
ぐいぐいと手を引きながら振り返った明日美は、少し口を尖らせていた。それを見て、しまった、と光弘は焦る。これは多分、彼女が言った言葉の内容や約束を、彼が忘れてしまっているパターンだ。
「はあ……また、私の話聞いてくれてなかったのね……」
「い、いや。そんなワケないじゃないか! もちろん覚えてる。うん。もちろん!」
思いのほか真剣なため息だったので、条件反射で適当に合せてしまったが、
「ホント?」
「う、うん」
「じゃあ、なんでどこ行くかなんて訊いたの?」
「えっと、それは……」
光弘は当然覚えてない。とっかかりさえ掴めない。明日美も、暫くもごもごと意味もなく口を動かす彼を見ていたが、ついにため息を一つ、前に向き直ってしまう。
「……」
「……」
無言のまま、足音だけが響く。言葉での追及は無いが、明日美の背中が非難するように揺れている。そのまま沈黙は彼を苛み、角を一つ曲がったところで、
「すみません嘘でした……全然覚えていません……」
とたまらず降参した。恐る恐ると言った体で、彼女の方を見てみるが、
「……あはは。なーんちゃって。当然知ってたよー」
案に違って、彼女は笑っていた。
(ああ……またか)
その笑顔でホッとしつつ、光弘は心の中で嘆息する。これもまた、最近知った彼女の癖の様なものだった。多分、さっきの彼の、無様なほどに慌てながら、悩んだ上での返答は、彼女の性向を鑑みて、ほぼ満点の対応だっただろう。
というのも、
「この前の勉強中、すっごい集中してるときに約束したからね。明らかな生返事だったもん。うー。とかあーとか、そんなの」
「やっぱりね……」
前から自覚していたことではあったが、光弘はマルチタスクが極端に苦手な人間だった。勉強でも、娯楽でも、一つの事にひどく集中していると、周りの声を聞き逃すことが時折ある。
そして、長い付き合いの明日美は、一体何が楽しいのか、それを知っていながら利用して、わざとこういう事態を作りだすことがままあった。
「まあ、みっちゃんが妖怪嘘つきボーヤだったというのは変えられない事実なんだけどねー」
「何も考えずに忘れた! ってだけ言うと、『もっと真剣に考えて!』とか、そっちの方が余計に怒るじゃんかよ……」
いたずらっぽく笑う彼女に、うんざりといったポーズで返す。この辺りの互いの呼吸も、三ヶ月前より随分と馴染んだ。
リュケイオンで別れた時、光弘はまだ十三だった。三年も経ったからには、自分も彼女も何かが変わっているだろうと、当初彼は警戒しているところがあった。
「よくわかってるじゃない! 偉い偉い」
「いいから、あす姉前向けよ。また転ぶぞ」
「失礼ね! またって言うほど転んでないじゃない!」
しかし、そんな懸念は彼女と日々を送るうちに、跡形もなく消えていった。明日美の隣の居心地は、在りし日のままだった。
色々とあったこの三ヶ月だったが、彼女のその変わらなさに、随分と救われた面がある。
「っと。着いた。目的地はここでしたー」
そうやっていくらか暖かい気持ちになっていると、明日美が立ち止まって宣言した。
「ってここ……」
そして、それまでの感慨は全て吹き飛んだ。
――第二セクター中央会議室。
何の変哲もないミーティングルームだったが、光弘は思わず眉根を寄せてしまう。この三ヶ月で、ここに来たのは一度ぎり。ただし、その時の思い出があまりいいものではなかった。
「ええ、今日は気取って会食でもしようかと思いまして。中は準備万端、綺麗どころが揃ってますぜ、ウへへ」
これまでのノリを崩さず、明日美は陽気におどけて見せるが、
「……」
「え、えーと」
途端に光弘が黙ったので、気まずげに顔をひきつらせる。
「あす姉、もしかして」
続く彼の一言は、とてつもなく低く、冷たい。いつもの和やかな雰囲気を、あからさまに拒絶する声音である。
「……はあ。……もちろん。テルスちゃんもいるよ」
「……」
この剣幕を前にして、明日美は観念するようにため息を一つ、ばつが悪そうにそう告げた。
面白くないのは光弘である。
テルスとの会食。今の彼にとって、楽しめるはずのない催しだ。
光弘の例の悪癖は、しばしばこのような時にも使われる。大抵の場合、単純にからかって遊ぶだけなのだが――時折、彼女は意図して、彼の言質を引き出そうとすることがある。
もちろん、それにはルールがあって、『後々彼の為になると、明日美が考えている事』の場合に限られるのだが――。
「あす姉」
「ごめん。でもさ、やっぱりこのままじゃ良くないと思うんだ。だってさ、二人はさ……」
「は、そうだね。俺たちは仲良く化物だもんね」
「ちょっと、みっちゃん!」
とはいえ、光弘が面白いわけがない。俄かに真面目になった明日美の言葉を遮って、思わず皮肉が口をつく。
「そうだよ。確かにあれ以来――」
指示代名詞で過去に触れるとともに、その記憶が蘇ってきた。あの時のテルスの顔、行動、発言。ディティールが増していくに従って、光弘は、己の声がどんどんと硬くなっていくのを感じる。
「……あいつが、ここで。あす姉を殺しそうになって以来。俺はあいつと……ほとんど話すらしてないよ。それにあす姉が気を揉んでいたのも知ってる。だからって、よりによってこんなところで、こんな反則まで使って……一体、誰の入れ知恵なんだ?」
「そんな……」
言葉を重ねていくうちに、自分でも驚くぐらいの怒気が滲んでいた。あの時ここで起こった事と、その後のテルスの言動を思い出すだけで、背筋がすうっと冷えていき、代わりに頭は煮え立ってしまうのだ。
目の前の明日美の悲しげな顔を見てなお、いや、寧ろその顔を見るにつけ、怒りは萎えるどころか勢いを増していく。
それは、彼がこの場所にきて、丁度一週間目のことだった。
*
「……あんな大仰に、『歓迎する!』とか言った癖して、話をするだけでこんなに待たされるのかよ……」
その日も光弘は、明日美に先導されてこの場所へたどり着き、シェイドを待って簡素なテーブルに座っていた。
彼の言葉が刺々しいのにも、一面の理由がある。グリーンアース・ネバダの一件で、移動拠点カメレオンに回収された光弘とテルスだったが、シェイドとの邂逅は、彼がもっともらしく姿を見せたあの一時だけで、その後、正式な会合を持つ為に、この日まで実に七日の時間を要したのだ。
とはいえ、
「その原因の大半は、お前がいつまでも惰眠を貪っていた所為だと思うのだが」
「それこそテルスの所為だろ……無茶ばっかりしやがって」
「お前が未熟? なのが悪い」
「あはは……」
あの日の光弘は、その死を前提として、かなり強力な薬を飲んでいたことと、二度にもわたるスピリティ・コラプスレベルのアバドンの行使したこととが重なり、脳を尋常でなく行使した代償として、安全な場所に到達した瞬間、糸が切れたように昏倒してしまったのだった。
明日美はパニックを起こし、取り乱して、周りの静止も聞かず光弘を背負って医務室に直行し、結果的にヒビしか入ってなかった肋骨を更に痛めたりしたのだが……とまれ、彼が目ざめることができたのは、その三日後の事である。
そして、非合法組織とはいえ、その長であるシェイドは、いつになるのか解らない、光弘の快復を悠長に待つわけにはいかなかった。何しろ、あんな大一番をやらかしたばかりだったのだ。後始末にはいくらでも人手が必要で、彼も例外でなく奔走せざるを得なかった。
「でも、本当に遅いね。もう来てもおかしくないんだけど……」
明日美もまた、頭の包帯と吊った右腕が痛々しい。あの事件のあとでもケロッとしていたのは、テルスぐらいのものである。彼女の唯一の明確な変化は、明日美のお下がりの、オレンジ色のワンピースを着ている事ぐらいだ。
かてて加えて、明日美と光弘の二人は、医療部にて山ほどの精密検査を受ける必要があった。その拘束時間は無茶をしただけにバカにならず……この日程、実はかなり妥当であったりする。
「やあ、待たせたね」
そうして、幾許か三人がやいのやいの話していると、目下の話題の中心であったシェイドが、横に誰かを伴って現れた。
「おいお前、人を呼びつけておいて、一体何を――」
「す、すみません! 初めましての重要な会合なのに、今後のカモフラージュを占う大変なお相手だと言うのに、私のスケジュール管理が甘かった所為でこんなにもお待たせしてしまいっ!」
「えっ? あっ……はあ」
光弘は条件反射で噛みつこうとしたのだが、シェイドが連れてきた『誰か』が、開口一番、土下座しかねない勢いで謝ったので、一気に毒気を抜かれてしまう。
「こらこら……ドロシー君。光弘君があっけにとられてしまっているぞ。まず、自己紹介をしなくては」
「あっ! はいすみません。すみませんごめんなさい! 私、シェイド理事の秘書をやらせていただいております、ドロシー・ディフラッソと言います。ごめんなさいごめんなさい」
「きゃー! ドロちゃんかわいー。結婚してー」
「あ、明日美さん……ご、ごめんなさい。嬉しいんですが、私には心に決めた方がおりまして……」
そうやって、明日美の冗談にさえぺこぺこと頭を下げるのは、眼鏡をかけ、豊かな赤毛を三つ編みに結った、いかにも鈍そうな妙齢の女性だった。
犯罪組織とは言え秘書というからには頭の働きが悪いはずもないだろうが……目じりの下がった大きな瞳が特徴的な、美人というよりは全体的に可愛らしい、クッキーでも焼いている方がよほど似合う純朴そうな外見をしている。
「兎も角始めよう。……ほら、君も座って」
「あ、はい。ごめんなさい!」
光弘はあっけにとられたまま、これがシェイドの女性の趣味なんだろうかだとか失礼な事を漠然と考えていると、二人はシェイドのエスコートで一番上座に腰かけた。
金髪碧眼の少年が、頼りないとはいえ、当たり前のように大人を従えている。わかってはいるが、とても不思議な光景である。
「ふむ。あいつは、もしかしてごめんなさいと言わないと死ぬ病気なのか?」
「そんなのあるわけないだろ……」
意気を削がれた光弘が、そうやってテルスと心底どうでもいい話をしていると、
「さて。では、お互い時間が有り余っているわけでもなし、話し合いを始めようか?」
それに付け込むかのように、シェイドが一言で場を取り仕切った。弛緩していた空気が少し緊張して、そこにいる全員が話を聞く体制になる。
人生経験が致命的に足りていない光弘でも、なんとなく気付いている。この男はこういう風に、人の呼吸を読むのがいやに上手い。
「まずは……私から、君らに謝罪が必要だね。本当に、この度は私が至らないばかりに、沢山の迷惑をおかけすることになった。申し訳ない」
そして劈頭、シェイドは誰かが反応を返すより速く、その金色の頭を深く下げた。
「私が反省すべきなのは――明日美君に、万全の準備をさせてあげられなかった点、光弘君に、殺人の強要をしてしまったという点、そして――」
そこで一呼吸置いて、興味なさげな視線を送るテルスへと、再び深く頭を下げる。
「――テルス君の力量を、見誤った点、でいいかな?」
「ふん」
「……」
「そんな。元は私のわがままで……」
三者三様のリアクションだったが、少なくとも明確な否定は無い。
「うん。どうやら異論はないようだね。であれば、後はどうやって償うかになるわけだ」
その反応を見てシェイドは満足げに頷いた。そして、
「……まず、君たちは罰を欲するかい? 私に対してのペナルティなら、いくらでも条件付きで受け取るが」
性急なまでに踏み込んでくる。
「……なんだそれは。自発的に羽虫を殺しに行く愚か者がいるのか」
「そうだな。そんな事をして、俺達になんのメリットが――」
「メリット」
「な、なんだよ」
不平を述べようとしたその瞬間、我が意を得たりとばかり、シェイドは光弘の言葉尻をさらう。
「それが大事なんだ。損得の概念が通じると言う事は、話し合いができると言う事だ。ただ死ね、と言われなくて本当に良かった」
「……お前、俺を舐めているのか?」
「いいや。大真面目さ。私が対立する相手の中には、どのような利を擲ってでも、一途に私の命を狙う輩がごまんといる。主に、正義と悪という構図を当てはめてね。これは光弘君にも覚えがあるんじゃないかな?」
「……」
少し手痛い指摘だった。先の事件のただ中において、グリーンアースの教育にどっぷりと漬かっていた光弘は、『カモフラージュ』と聞いただけで、半ば脊髄反射的に反発を覚えてしまっていた。冷静に考えることを放棄して、一度は怒りに身を任せ、アバドンを暴走させた。
結果的に見れば、そのおかげでテルスと出会えたわけなのだが……光弘は、危うく明日美すら殺しそうになったのだ。
もちろん、今でも彼らの起こした事件について、批判的な立場ではあるが――
「……ここでの暮らしを見せられたら、そうも言っていられない」
カメレオンで三日ほど寝起きして、光弘は少しだけ考えを改めていた。
暮らし――。そう、ここには暮らしがあるのだった。
医療区画で彼を看護してくれたものの中には、ここに拾われた少年少女たちが少なからずいたし、そんな子供たちに、率先して勉強を教える明日美のような大人たちの姿があった。
居住区では、走り回る幼児も、一緒にはしゃぐ児童も、それを見守り、時に注意する大人もいた。そして、彼らの殆どは、本来グリーンアースで死を宣告されたモノたちなのだ。
子供と、大人と。それらの関わりで少しずつ紡がれていく日常。
そんな光景を見せられてしまうと、同じ立場の光弘は、それらを単純に『悪』とは割り切れなくなってしまう。
「……お前が、話し合いの場を設けるのに、こんなに時間を開けたのも、一つにはこの効果を狙ってのものだろ。お前があの時、執拗に連呼していた『組織』がどういうものなのか、その正当性を見せつけたわけだ」
「もう、みっちゃん!」
「よくわかったね」
それでもやっぱり、到底素直には認められないので、シェイドにはへんに噛みつく結果になる。明日美はそれを咎めるが、当の本人はむしろ嬉しげだ。
「……これも、洗脳の一種だぞ」
「よく、わかったね」
「……」
柳に風。呆れた鉄面皮だった。
「さて。ならば、話の軸を賠償に移そう。私が用意できるのは、光弘君のここでの生活基盤と、出来うる限りの組織の保護だ。これは、明日美くんと既に取り交わした契約の内に入っている。最低限のレベルは前提だと思ってくれていい。流石に、毎日酒池肉林に溺れさせろと言われると、看過できないわけなのだが……まあ、ここのドロシー君ぐらいなら自由にしてくれてもいいよ」
「なっ」
「ひえっ」
突然の言葉に驚き、思わず二人、目を見合わせる。彼女の表情は驚きから戸惑い、そして段々と深い悲しみをたたえていき、
「そんな、そんな……で、でも……シェイドさんが……言う、なら……い、言う、……ひっく……ならっ……わ、わたし――」
「もちろん、本人の自由意思が優先するがね。同意の上なら、ハレムを形成してくれても構わんよ。私が許可する」
「シェイドさん!」
そして、ドロシーが健気にも泣きそうになった段階で、さっと梯子をはずすのだった。真っ赤になって怒る彼女を見向きもせず、ニヤニヤと光弘に笑いかけるシェイド。冗談にしても、少しやりすぎである。
「おい、ちょっと悪質すぎるだろ。彼女、泣いちゃってるじゃんかよ……」
「彼女が泣くと、君に何か問題が?」
「いや、気分のいいものではないだろ」
「つまり、君はうちの構成員を、人間として扱ってくれるわけだ」
「そんなの当たり前――」
「だとすると困ったことがある。人間は、互いに互いを支え合わないと生きていけないんだ。もちろん、私たちは君に無理を強いた手前、どこまでも尽くす準備はある。だがね……」
そこで漸く、光弘にもシェイドの意図が飲みこめてくる。
「保護する代わり、俺たちに手を貸せと言いたいのなら、はっきりそう言ったらどうだ」
「これは失敬。どうにも性分でね」
そして当然、全く悪びれない。こんな成りでありながら、随分と簡単に相手の譲歩を引き出そうとしてくる。どんな見た目であろうとも、彼はリーダーなのだった。
だが、ことこの問題に関しては、光弘にも譲れないラインがある。
「それについては、こちらも条件を提示したい」
「ほう。それは?」
「あす姉に、もうあんなことをさせないと約束しろ」
「みっちゃん!? そんな、ダメだよ!」
「ごめん、ちょっとだけ黙ってて」
当然明日美は反発するが、光弘は意に介さない。その本気の瞳を覗きこみながら、シェイドが尋ねてくる。
「……君ぐらい話が早いと、代わりに私が何を求めるか、当然わかっているんだよね」
「ああ。以降のああいう仕事は、全部俺の方に回せ」
「ええっ!?」
「私も賛成だ。こいつの『七大罪源回路』の使い方を、もっと習熟させたい」
「テルスちゃんまで!?」
それまで黙っていたテルスが援護に入り、明日美はどんどん混乱する。
「……うん。それは本当にありがたい申し出だ。むしろ、それをなんとか君の口から言わせるのが、私の今日の仕事だった」
「あの、ちょっと」
「だが、当然その分の要求を聞いてもらう」
この件に反対なのははわかり切っていたから、意図的に明日美を無視して、彼らは交渉に移っていく。
「ああ、構わんよ。君たち二人の価値に比べたら、大抵の譲歩が許される。なんだい? やっぱりドロシー君が欲しいかい?」
「ひっ」
「……段々お前の手口が解ってきた。そうやって相手を驚かすか、怒らすか、どちらかして自分に交渉のイニシアチブを引き寄せるんだな」
「よくわかったね」
と、二人が不敵な笑みを浮かべて意味もなく角逐していると、
「私の話をききなさいッ!」
明日美がついに大声をあげ、思い切り机をぶっ叩いた。その場にいた全員が、思わず彼女に注目する。
「あす姉。悪いけど、ここはいくら言われたって……」
「明日美君、これは純粋に私と光弘くんの間の……」
「違うの!」
そして、今度は彼女が、二人の言を無視して続けた。
「確かにみっちゃんが危ないことするのは嫌だし、止めたい。……でも、私が言える立場じゃないのもわかってるの。先に、みっちゃんの意見も訊かないで――正確には訊けなかったんだけど――あんなことまでしちゃったんだもん。解ってるよ」
「なら――」
「でも我儘ぐらいは言わせてよ。私だって、みっちゃんを助けるために、すっごく、すっっごく努力したんだから」
反対ではない。しかし、自分の意見を通したい。
光弘には、明日美の意図がまったく読めない。
「……つまり?」
「止める権利がないのはわかってる。だから――」
だから、彼は続く言葉で本当に驚いた。
「せめて一緒に行かせて。危険な時には必ず」
「それじゃ意味が――!」
「シェイドさん!」
反発しようと声を荒げたが、遮って明日美はシェイドに振る。まるで打ち合わせでもしていたかのように、彼は、にやにやと笑いながら即答した。
「当然否やはないよ。寧ろ、私にばかり利益があって、いいのかなと不安に思うぐらいだ」
「テルスちゃん!」
「……私から特に言う事は無いな。任せる」
自分には関わり合いのない事とばかり、テルスの答えも投げやりだ。
「あす姉、何を……」
「これで賛成3、反対1!」
「……いやいやいやいや。数関係ないでしょ今……つか、なにしれっとテルス賛成に入れてんのさ。明らかに今のは棄権――」
「ドロシーちゃん!」
「え、わ、私ですか!?」
ついには書記をしていた秘書までをも巻き込む。先程から振りまわされて涙目の彼女は、またしても注目を集め、狼狽した。
「巻き込むなよ、ドロシーさんは関係ないだろう」
「ある! 同じ女性だもの!」
「めちゃくちゃだ……」
非合理極まりない強弁だった。が、光弘はこうなった明日美が、頑として考えを曲げないことを知っていた。さらに、
「え、えっと……私の考えになっちゃうんですけど……」
おずおずと、ドロシーが質問に答える。
「だ、大事な人に……危ない事をしてほしくないっていうのは、当然、解ります。でも……それが無理なら一緒に受け止めて、乗り越えたいって考え方は……す、凄く素敵だなあと、思います」
「……」
その言葉を聞いて、光弘は、自分と明日美が結局同じことを言っているのだと気づいた。
自分が死んでも、大事な人には生きていてほしい。その考えが双方にあって、真っ向から対立し、それでもなんとかお互いの満足が多い妥協点を探すのだとしたら――
「『一緒に死にたい』と。明日美君はそう言っているんだよ。自分の命を投げ出してまで救おうとした命が、よりにもよって自分の為に消えるぐらいならね。男冥利に尽きるじゃないか」
「それは……」
珍しくシェイドが真面目な口調でそんな事をのたまう。その言葉には、いやに実感がこもっている。
「みっちゃん、お願い」
そして明日美は、目に涙さえ浮かべて懇願していた。
「……はあ」
最終的には泣き落としである。実は今まで、光弘はこれを断れたことがない。
幾度も考え、苦悩し、あーだのうーだの呻いていたが、最後には処置なし、と重く首を縦に振った。
「いいの?」
「やっぱいやだって言ったら?」
「勝手について行くかもね」
「だよね……」
解り切っていたので、そう言うしかなかった。そもそも、光弘すら覚えていなかった別れ際の約束程度で、殆ど死にに来てまで自分を助けようとする相手である。目の届くところに居た方が、いくらかましなのかもしれなかった。
そうやって光弘がなんとか自分をごまかそうとしていると、シェイドが軽く手を叩く。
「さて……大枠で、話がまとまったかな? 私と光弘君の間で、正式に協力関係が成立した。ありがとう。よろしく。……それにしても、随分と実りある会合だった」
「そりゃ、お前はな……」
やたらにこにこして一人で拍手しているシェイドを半眼で非難すると、彼はその笑みを苦笑に変えて、
「これじゃ、私たちが有力な協力者を得ただけだからね。流石に気の毒だから、先程言った通り、何か条件があるならまだ聞いてもいいよ? これからへの希望とか、単純に欲しいものでもいい」
「と、言われてもな……」
元々、光弘は一週間前に死ぬ予定だった。身辺整理(というほどのものが彼にあったのかは疑問だが)は済んでいる。その意味で、彼は生まれ変わったばかりの様なものなのだ。欲しいもの、と言われても簡単には思いつかない。
唯一提案しようとしていた、自分が危険なところにいる間、明日美に護衛を付けろという要求も、すでにして無駄になってしまっている。
「何もないのかい? この先ここで生きるにあたって、君はかなり危険を冒す事になるよ? そういった時に君が私たちを信用するために、私たちが君を信用するために、程度の差はあれ、なるべく持ちつ持たれつがいいんだがね」
信用。その単語を言われて、漸く光弘は思い至る。自分には、ある部分で彼らに対してまだ蟠りがあると言う事に。
「……なら、情報が欲しい」
「情報?」
「ああ。グリーンアースに居る間、俺はずっと、死ぬために必要な事と、彼らを正当化することしか教わらなかった。でも俺は、なんの間違いか生き長らえてしまったから……本来だったらいらなかったはずの、その先が知りたい。具体的に言えば、お前たちがなんでこんな事をしているのか、その理由についてだ」
これは、彼が『カモフラージュ』と関わってから、ずっと気になっていたことだった。彼らは、そうと習っていたほど、無慈悲な殺戮集団というわけではなかった。
ならば、グリーンアースが教えなかった部分にこそ、彼らにとっての不都合な真実が隠されているはずである。光弘は、この三日でそう考えるようになっていた。そして、そこを知ることができれば、もしかしたら彼らを本当の意味で『信用』できるのではないか、とも。
「なるほど。どちらにせよ、話さねばならなかった事だ。当然構わないよ。ならば、まず……なんで私たちがテロ行為に及んでいるかについて話そうか。ついでに、グリーンアースにとっての、『アバドン』の意味について」
正しく意図を汲んだシェイドは、居住まいを正してそう言った。
「これはちょっと、組織の自己弁護にもなってしまうということまず申し添えておくよ。その上で、判断は慎重にしたまえ。……光弘君、君は、クオリア調整装置から、空中水蒸気固定装置、水耕栽培用、ミネラル元素合成装置……私たちの衣食住インフラ全てに関わる動力、精神子エネルギーパックがどこで生産されるか知っているかい?」
「え? なんだよそれ」
「重大な関係がある事柄なんだ。君たち『ラストステージ』が、なぜ厳重に管理されているのかにも関わっている」
「……確か、大気圏外ソーラー発電の受信施設……この辺で言うと、ラスベガスがそうだな。そこで一日日二回、昼と夜に、それまで充電した大電力を、大気圏外から『エクソスフィア』に落として……その際のエネルギーを使って、合成するんだ」
大気圏外ソーラー発電と、それによる精神子エネルギーパックの合成を元に、ほぼ自給自足の体制を空中にて実現するという先進システム。
現在、グリーンアースの指導のもと、多くの都市がこのモデルを採用している。
わけてもラスベガスはその元祖と言ってよく、いち早く移行に成功したため、今でも旧時代の娯楽施設が生きていた。一日二回の電力供給の時でさえ、わざわざ明かりをすべて消し、天から降るエネルギーの軌跡を鑑賞すると言う見世物が、伝統になってしまっている。
これは、このシステムを導入していない、食うや食わずの都市群からは大変評判が悪いのだが、逆を言えば、このご時世に、それほどまでの余裕がある証拠だとも言える。
「うん。正解だ。それが彼らの公式見解であり――」
言って、シェイドはひどく邪悪な顔で鼻を鳴らす。そして、あからさまな侮蔑を言葉に乗せて続けた。
「同時に、最も罪深い嘘でもある」
「これが、嘘?」
「そう。まあ、余りもったいぶるのもおかしな話だ。端的に言おう。精神子エネルギーパックの原料はソーラー発電のエネルギーと、空気中の精神子なんかじゃない……君たちだよ」
シェイドは余りに残酷な現実を、相変わらず何でもない事かのように語った。
「……は?」
「ついでに、エネルギーパック加工システムの基幹部分も、君たちの先輩さ」
「……意味が解らないぞ、もっとわかりやすく言え」
そしてそれは、光弘にとっては、あまりに難解にすぎた。
「『ゼロセカンド』の前、増え続ける人口に頭を抱え、全世界は新時代のエネルギーを模索し続けていた。精神子エネルギーはまだまだ理論さえ構築が済んではおらず、最も有望視されていたのは三重水素を用いた核融合反応炉だった。だが、それが完成するより先に――」
そこで、シェイドは光弘を指さす。
「人は、アバドンに出会った」
「……」
光弘は思わず息をのむ。いつのまにか、嫌な汗を全身にかいていた。
「その昔、核分裂反応を用いて、電力を作っていたことは知っているだろう? アレは、質量欠損のエネルギーを、なるべく緩やかにコントロールできるよう、いわば、『薄く長く爆発させて、エネルギーを絞り取る』という手法だった。アバドンの、あの街一つが吹き飛ぶ巨大な爆発を見て、同じ事を考えた奴がいたのさ」
ラストステージの光弘にとって、それは到底許容しえない残酷な論理だった。そして、凄まじいまでの冒涜だった。
「じゃ、じゃあ……」
「君らは人々を養うエネルギーになるために生かされて、それだけの為に殺されている」
目眩がするのを感じる。これまでの価値観が裏返るのも感じる。
「私たちカモフラージュは、そういった成すすべなく人柱にされる犠牲者を、なるべく多く救おう、というのを理念に発足し――今でも変わらず、それを抱き続けている」
「軍事施設ばかりでなく、ソーラー発電の受信システムを狙っているのは……」
「アレを用いて精神子エネルギーパックを合成するためには、“バレット”と呼ばれる『原料』側の人間と、“シリンダー”と呼ばれる『工作機械』側の人間、両方の『加工』が必要になる。“シリンダー”は一度定着させてしまえば理論上千年でも耐久するが、当然、“バレット”は一定間隔でエネルギーを絞り取られると消耗する。……入れ替えが必要なんだ。そこを、私たちのような悪漢に狙われたらどうなる? 成りたちとして逆なのさ。軍事施設は、それらを隠蔽・護持するために、どうしても必要だったんだ」
光弘君は原料側――“バレット”になるはずだったんだよ、と変わらず何でもない事のように語る。が、その軽い声の割に、シェイドはいつもと全く違い、目が笑っていなかった。
「ま、彼らの幹部に言わせれば、それらは人類の繁栄の為の、尊い犠牲――ということになるのだろうけどね。実際、もう戻れない位置に居る都市ばかりさ」
光弘は混乱する頭で、これが全てが嘘である可能性を考えて、しかし、すぐに行き当たった事があった。
治療の為に生かされている、と光弘はずっと言われていた。お前は一歩間違えると危険だから、どうしようもなくなるまで、グリーンアースの温情で、人として生きることを許されている。しかし、いよいよ無理と判断したら、必ず浄化を行わなければならないのだと。それに納得しろと。
だが、そうすると少なくとも一つ、理屈の合わない事がある。
「グリーンアースの……」
「うん?」
光弘は、自分の出した声が思っていたよりずっとしわがれていて驚いた。とても喉が渇くので、ごくりと生唾を飲み込んだ。
「グリーンアースの、理念は……自然への融和と、世界平和だ。……全部、嘘だったって言うのかよ?」
蒼白な顔色でそう言うと、シェイドは珍しくすまなそうに笑って返した。
「いや。私はどうしてもこちらよりの人間だから、真実を語らせるだけで、随分おどろおどろしく聞こえるかもしれないけれど……効率としては、そう悪い技術じゃないんだ。“バレット”だって、一人で三カ月は持つ。年にたった四、五人。それで何万からの衣食住を養える。しかも自然に一切の悪影響を与えることなくだ。素晴らしい『調和』と『世界平和』じゃないか」
「そんなの……」
納得できるわけがない。そんな算数のように単純な回答で、人が殺されると言う事に。彼は当事者なのだから。
「みっちゃん」
細かく震える光弘の手を、明日美が優しく包み込んだ。
「あす姉……」
お陰で、随分と楽になった。そして、彼女がなぜあれほどまでに無茶を犯して、自分を助けたのかに納得がいった。もし逆の立場だったなら、光弘は間違いなく彼女を救うために命を賭けるだろう。たとい、それが多くの人間を飢えさせる結果になるとしてもだ。
ここに至ってようやく、彼は真の意味で決心する事が出来た。
「大丈夫かい?」
「ああ。よく……わかった。改めてお前らに――いや、シェイドとカモフラージュに、協力することを誓おう」
変に気づかわしげなシェイドに、若干の違和感を覚えつつ。もはや、光弘の心は決まっていた。自分を救ったこの悪は、正しい悪である気がすると。
「そうかい? 少し簡単に信じすぎなんじゃないか……?」
「なんだよ。気味が悪いな。お前の話は筋が通ってる。昨日あす姉にちょっかい掛けてたジュアンとかいうあの軽薄な男――一目見ただけで、浄化対象だってわかった。なのに。俺よりずっと年上なのに、きちんとここで生きれてる。……それだけで、俺にとったら大きな欺瞞じゃないか」
「……まあいいか。ありがとう。好意は素直に受け取るタイプなんだ」
「ああ、よろしく頼む」
二人がっちりと握手した、その時だった。
「お前、『ミツキ』を知っているな?」
最初に発言してからずっと黙りきりだったテルスが、唐突にそう口にした。
「テルス……?」
「……なんだって?」
「気を付けろ。こいつは嘘を言わない代わりに、本当のことを黙して、結果的に相手を騙すタイプだ……おい、いつまで触ってる」
言うなりテルスは右手を振る。
「おっと……」
シェイドは間一髪、光弘の手を離した。その時、彼の手首があった場所を、透明ななにかが通り過ぎ、
「テルス、何を! ってうわっ!」
シェイドの後ろにあった壁が、縦一文字に切り裂かれる。
「しぇ、シェイドさん!」
凄まじい轟音と明日美の悲鳴が重なる。建材の煙が、もうもうと立ち込める。その中にあってやけに鮮烈な赤が、空間にしぶいてドロシーの顔を濡らした。
「あ……」
反射的に彼女は自分の顔に手をやる。そしてそこについた液体を見やり、
「しぇいどさ……あ、ア、A……あぁぁぁあああ!?」
喉もかれろとばかり、奇怪な声を張り上げた。
その瞬間、ドロシーの緩やかな衣装の服が大きく盛り上がる。空気を入れ過ぎた風船のように、一瞬にして人としての輪郭を失うと――中から数多の武器がじゃらじゃらと現れた。面制圧用のスピリトン兵器から、旧時代の質量兵器、一撃必殺のレールガン――三十丁はくだらない数が、テルスに照準を合わせていく。同時に、カメレオン内部に、けたたましい警報が鳴り、壁からも複数の銃が顔をのぞかせる。
「なっ……ドロ……ええ!?」
「そのデク人形がお前の切り札か。つくづく……悪趣味? と言う奴だな」
「アァァァァァアアアアッ!?」
光弘は混乱の極みだった。明日美も驚愕で動けない。
そんな二人を尻目に、醒めた視線を投げかけるテルスに向けて、最早甲高い音を鳴らす自律兵器そのものとなったドロシーが、部屋の兵器群の援護を頼りに特攻する。
銃座からのレーザー誘導、メイデンによる輻射誘導、ドロシーの人口筋肉がキリキリと撓む響きに、侮蔑を浮かべて光球を侍らせるテルス――コンマ数秒もない世界で、複数の敵意が交錯する。最早どちらかが消え去るまで、互いを殲滅し合うしかない、凶的な状態が幕を開け――。
「やめろ!」
しかし、その殺意のパレードは、今まさに進行を開始しようとしたところで、シェイドの声によって止められることとなった。
「……」
エンヴィーコーティング型特殊ブレードを、テルスへ突き出す寸前の恰好で、ドロシー……だった兵器は、動きを完全に止めていた。
「どうした? 私はそのままやりあっても構わなかったぞ?」
「いやはや……なかなか情熱的なアプローチだ」
腕を斬り落とされそうになっても、未だにシェイドの軽口は健在だった。しかし、その手元は深く裂け、袖に血がにじみ出ている。
「だが、私にはこうまで言い寄られる心当たりがないんだがね……」
「私は人間の事を良く知らない。だが、やはりお前は変だ。ただの天才? とやらにしては、色々と知りすぎている。……本当の名前を言ってみろ」
「……申し訳ないが、それは遠慮させてもらおう」
しかし、それも、テルスの続く一声で崩れ去った。苦虫をかみつぶしたような顔をして、なんとかそう主張する。
「……ふん。やはりか。お前『被っている』な? よくもまあ人の命がどうだと言えたものじゃないか。あのメンバーの一人か。こんなことをしているからには、仲間割れでもしたのか? それとも、これがお前らの言う『シナリオ』か?」
何らかの結論に至ったテルスが、弾劾するような調子で攻め立てる。そこで漸く残りの二人が正気をとりもどし、テルスの蛮行を咎めた。
「おい、お前何してんだよ!」
「テルスちゃん!? どうしたのいきな……」
そして、おどおどとしながらも、隣にいた明日美は、テルスに不用意に手を伸ばしてしまい、
「触るな!」
殺気立った彼女の警戒に触れてしまう。
その神経質な声を聞いて、明日美の背筋に怖気が走る。
先程斬撃を放った時と同じく、テルスの右手がピクリと動き――
「やめろ!」
今度は光弘の必死の叫びが、その行動を寸前で止めた。
「……なんのつもりだ、テルス」
余りの怒りで、図らずも声が震えていた。……こいつは今、この一瞬、一体何をしようとした?
「そこの金髪は、『私の』敵である可能性がある。だから疾く排除したい。許可をくれ」
しかし、光弘のそんな心はまるで伝わることなく……否、最初から伝わるはずもないかのように、テルスは、淡々と殺人に許可を求めた。
「……なぜ、あす姉に攻撃しようとした?」
「敵である可能性があったからだ」
「俺との契約はどうなった!」
「? 彼女を助けろという要請は、一週間前のあの時限定のものだろう? 以降、彼女のプライオリティを上げろなどと、お前に言われた記憶がないぞ」
光弘は限界だった。
「……このっ! 化物が!」
最初に会ってからずっと、この自称『地球』の化物は、彼の言葉を拡大解釈し、酷い事態を引き起こし――のみならず今まさに、彼の大切な人までも傷つけようとした。許せるはずもない。
「最初からずっと! 口があるのに説明せずに! 何を考えているかも言わないで! 余計なことは捻じ曲げて理解する癖に、よりによってあす姉を……!」
今まで感じていた不信感が束になって、喉から迸った。しかし、そんな彼の怒りにも、テルスはまるで痛痒を感じないようで――
「化物? ……何を言っているんだ? お前だってもう、私と同じ存在じゃないか」
「なっ……」
後から後から湧いてくる罵りを、予想外の言葉が遮った。
「はあ? な……え? おまえ、何を……」
「まさか気付いていなかったのか? 最初にプライドを使った段階で、既にお前の体は、私と同じ精神子体になっている事に」
「どういう……」
「手段としては、先ほどそこの金髪が言っていた、“シリンダー”を加工するものに近い。逆エントロピーの法則に従う、大規模な精神子エネルギーを存在に定着する事によって、物質そのものの拡散・劣化の時間を停滞させるんだ。スピリティ・コラプスに至る最終段階では、往々にしてこう言う事が起こる。そうでなければ、ブラックホールを形作る前に、脆弱な体が先に燃え尽きてしまうからだ。厳密に言うなら、お前や私はもっと高等な理論によるものだが、認識としてはそれで良い」
「……」
感情の起伏より先に衝撃の事実を連発され、光弘は一瞬忘我する。
『“シリンダー”は一度定着させてしまえば理論上千年でも耐久する』
そしてすぐに、つい先ほど聞いたシェイドの説明が蘇る。
つまり。それがもし本当なら――
「言っていなかったか? だが、まあそう大した問題ではあるまい。あまりに脆い人間の体より、むしろ存在の強度はずっと増したぞ」
もう。彼は、ヒトと同じ時間を歩めないのではないか。
「……このっ」
酷い目眩を覚えながら、光弘はテルスの胸倉をつかんでいた。
「なんだ? 最初から、そういう契約だっただろう?」
「聞いていないっ」
「『詳しくは教えない』という契約だった」
この期に及んでテルスは悪びれない。その目にも、声にも、一かけらも後ろめたさが無い。それは今の光弘にとって、最悪なレベルでの挑発でしかない。光弘は腕を振り上げる。
「……っ」
「やめて……」
しかし、寸前。最早言葉もなく、衝動のまま振るおうとした拳を止めたのは、被害者であったはずの明日美だった。
「あす……」
「もう、やめて……」
すでにして彼女は泣いていた。どういう感情がそこにあるのか、怒り昂った光弘にはわからなかった。とはいえ、これも……一種の泣き落としだ。
「……」
「どうした?」
さめざめと泣く明日美を見ているうち、光弘はとてつもない脱力感を覚えた。沸騰した頭は一気に冷え、しかし怒りだけが凍てつかずにそこにある。
「テルス」
「なんだ?」
「あす姉を攻撃することは許さない。これは、最上のオーダーだ」
「では、この金髪は?」
「当然不許可だ! これは、この拠点の人員にも適用する。あと――」
そこでぐっと顔を近づける。彼女特有の、あの神秘的な瞳は健在だったが、もうそれに惑わされることはなかった。
「契約も、何も、どうでもいい。二度と俺に近づくな」
「……それでは契約の意味がない」
「これも、俺からの最上級の要請だ!」
「……」
そこまで言ったところで、今度は怒りまでが萎え、突き飛ばすようにテルスを離した。
「くそっ……」
残ったのは壊された機材と、気まずい空気だけ。明日美でさえ光弘に声をかけるのを憚られて、自然と全員が無口になる。
その沈黙が一分ほど続いたころだろうか。部屋の外からどたどたと、多数の人間が近づいてくる足音が聞こえてきた。警報に駆け付けた、カメレオンの制圧部隊だろう。
「ふむ。少し……遅いかな。警備体制の見直しが要る」
沈鬱の中でただ一人、シェイドはいつもの軽口をいうだけの余裕を取り戻している。
「なんにせよ、もう人が来る……残念ながら、今日はお開きだね」
しかし、瓢げたその言葉には、誰が返す事もなく。いつもの調子でありながら、ずっと空しく響くのだった。




