空中輪舞-3
思い出してみるだけでも、胸の悪くなるような怒りがせり上がってくる。
「あす姉には悪いけど、やっぱり、俺、あいつと顔合わせたくない」
「みっちゃん。そんないじわる言わないで。……ねえ、お願い」
明日美が、なお懇願していた。またしても、例の泣き落しだった。
それを見て、どうしても許せない方に傾いていた天秤が、ぐらぐらと振幅を大きくする。光弘はしばし迷い、考えた。
「でも……あいつ……あんなの……」
とはいえ、簡単に許せる問題でもない。
何せ、彼女は明日美を殺そうとしたのだ。それだけでも許せない。
かてて加えて、殺人の片棒を担ぐよう求め、のみならず、もう戻れない道へと光弘を引き込んだ事さえも黙っていた。
「解る。解るよ。私だって、みっちゃんが『そうなった』って聞いた時は目眩がするぐらいショックだったし、テルスちゃんこと……うん。正直ちょっと、憎らしかった」
「ならどうして。それどころか、あす姉はあいつに殺されそうになったじゃないか!」
そう言うと、明日美はきょとんとした顔になり、そしてすぐにはにかんだ。
「……あはは。ごめん。ちょっと嬉しいかな。そか……そか。そこでも怒ってくれてたんだ」
「いや、まあ……だってあす姉は、俺の、命の恩人で……」
予想以上に明日美が照れた顔を見せたので、光弘の怒りもすぐさま羞恥に変換される。なんとも気恥しい空気が訪れ、双方もごもごとしているうち、ついに明日美は背を向けてしまった。
「いけないいけない……今はそんなことで照れ照れしてる場合じゃない……」
そして何事かを呟いた後、思い切り自分の頬を張る。
「よしっ」
「あす姉?」
「みっちゃん、私ね」
急に気合いを入れた明日美に、どうしたのかと声をかけると同時、彼女は一転、優しい声音で呟いた。
「私、自分でもびっくりするぐらい、あの子の事怖くないの」
「は、はあ?」
「凄い力じゃない。あんなことして。どう考えたって普通じゃない」
「それはまあ」
「もちろん、微塵も怖くないわけじゃないんだよ? 地下から人間をぽーんと打ち上げちゃった時も、地面を30メートルもどーんと押し下げた時もびっくりした」
ぽーん、どーんと擬音を口に出しながら、両手で何かを持ち上げたり押さえつけたりするポーズをとる。
「でも、あの子を見てると、なんだかとっても……うん。怖いよりもまず先に、ほっとけないんだ」
そしてまた向き直って笑みを見せた。
「それで、なんでだろうなーって考えるようになったの。なんで私はこの子のする事を簡単に許せちゃうのかなって。そうやってちょっと考えながら接し始めたら、すぐに分かった」
そこで彼女は笑みを悪戯っぽく変化させ、光弘を指さし、
「あの子、みっちゃんと似てる」
「どこが!」
光弘にとっては心外この上ない。反射的に言い返したが、明日美は苦笑しながら付言する。
「性格じゃなくて、境遇がね」
「それは……」
地球。彼女は自分の事をそう言っている。本人の言を全て信じているわけではないのだが、それでも、凄まじい力を持つ存在であることは確かだ。そして出会ったとき、彼女はグリーンアースの基地の最奥とも言える場所にいて、『眠っていた』と言っていた。
「……」
言われてみて初めて、光弘も気づいた。彼女は自分の過去を語らないが、過酷な境遇であったことは想像に難くない。
「だから。彼女は本当に、解ってないんじゃないのかなって。そう思ったの」
「解ってない?」
「うん。力も、言動も、全部が全部強すぎて、人格とか、思考力とか、そういうのも同じく普通に持っているんだろうと勘違いしちゃうけど……彼女、自分のこと幼女ってよく言うじゃない。本当はその通りで、大事なこと、何も解ってないだけなんじゃないかって」
「……だから、許せと? 解らなかったで人の体を勝手にいじったり、人の生き死にを左右したりしても?」
テルスに同情できる部分はあるのかもしれないが、それと彼女を許すかどうかとはあくまで別の問題である。なんだか明日美が言いくるめにかかっているように思えて、光弘は声が硬くなる事を抑えられない。
それに対する返答は予想外の方向から来た。
「でも。私は……昔、その『解らなさ』に救われたよ。何も解ってなかったみっちゃんが、空気も礼儀も全部を無視して、私に声をかけてくれたおかげで救われた。あのままじゃ、私はいずれ壊れちゃってたと思う」
「そ、それとは状況が違いすぎるし、今は関係ないじゃないか!」
『ねえ、げんき?』と。何も、それこそ言葉すら解っていなかった光弘は、彼女と出会ったとき無遠慮にそう話しかけた。それが救いだったと言われても、今の彼には恥じ入ることしかできない。
それからいろんな事があって、いろんな経験をして、今の彼になっているから。
「状況が違うかもしれないけど、関係はあるよ。彼女にも、誰かが必要なんだって事。まっさらな彼女にかかわる誰かが要るの。いい方向に行くなら伸ばしてあげて、悪い方向に行っちゃいそうなら道を正す人が」
あなたにとって私だけがそうだったって言ってるわけじゃないよ? と続けざま、明日美はまた笑んだが、
「その役目を俺にやれと? 馬鹿言うなよ。そもそも、あいつは真実を告げないことが、嘘より悪い結果をもたらすことがあると知っていた。だのに、俺の事には口を噤んだ。そこに悪意が存在しないって誰がいえるんだ」
「そ、それは!」
「なに?」
「それは約束してたからでしょ。その……」
と、なぜかそこで言いよどみ、頬を染める。
「ど、どんな事になってでも、私を助ける手助けをするって」
照れながらも、精一杯真面目に明日美は言う。
「ぐっ……そ、それにしたって、あいつが何考えてるかなんてわかんない以上、あす姉の思い違いである可能性だって残ってる」
「そうだよ。彼女に三ヶ月間付きまとって、最近ちょっと話せるようにはなったけど、友達と言えるほど仲良くはなれてない。まだまだわからないことばっかりだよ」
「そんなことしてたのかよ……」
「だからこそ、話さなきゃ。わからないなら、きちんと話して見ようよ。今のみっちゃんはそれもできてないじゃない。そうじゃなきゃ、みっちゃんがテルスちゃんを誤解してる可能性だって同じぐらい残ってる」
「……」
「ねえみっちゃん。私は許してあげてって言ってるんじゃないの。話してあげてって言ってるの。私だけじゃ、理由を訊いても『お前には関係ない』って突っぱねられちゃう」
そして、明日美はまた哀しそうな視線をこちらへ向けるのだった。
失敗した、と光弘は思っていた。彼女の言うことが、どんどん正しく聞こえていたからだ。
確かに光弘はテルスのことをまったく知らず、その上、間に生じた溝を飛び越えてまで近づこうなどとしなかった。あるいは、その事を解っていたからこそ――自分がかように流されやすい人間だと自覚していたからこそ、彼女を良く知らないままで憎もうとしていたのかとさえ思えてきた。それは、彼女の言葉に説き伏せられたも同然の考え方だった。
「……なんで、そんなに一生懸命なのさ」
だから、光弘は自分の敗北を半ば悟りながら、悪あがきのように明日美に問う。
「だってあの子は、私と」
何度目になるのか、その質問に彼女はまたはにかんで、
「わ、私の大事な人……を、助けてくれた人だもの」
そう言って笑った明日美は、何年も彼女を見てきた彼の目から見てさえ美しかった。光弘の張っていた意地は、もろくも崩れ去っていた。
第二セクター中央会議室。彼女と繋がるそのドアは、彼のすぐ目の前にある。
*
「これがお前らの言葉で言う『修羅場』というやつだったわけか」
意を決して室内に入った光弘に、テルスが開口一番そう言った。観音開きの扉に向かって垂直に置かれた会議机――立体映像コンソールの右側に座し、彼女はとても感心した風に頷いている。
彼女の目の前には、明日美の手作りだろう、種々の手料理が並べられていた。
「…………」
聞き耳を立ててやがったのか! という怒りは無駄である。そもそも、相手がこんなに近くにいるのに大声で話していたのは光弘本人だ。とはいえ、力が抜けてしまうのも事実だ。
「あ、あはは……ちょっと違うんじゃ、ない、ですかね」
その言葉に苦笑を返すのは、はす向かいに座るドロシーだった。彼女も少なからず確執があるようで、少しだけ怯えた体である。
「そうなのか? 明日美が『ヒトの心を知る上で勉強になる』と渡してきた少女漫画のなかに、類似の展開がいくつもあったぞ。優柔不断な男が、本命の女の涙ながらの訴えで、本質的な部分で事態の原因となった己の所業全てに開き直って、当て馬を無残に無慈悲に切り捨てる覚悟を決めるのだ。それが優しさだとかなんだとか言う正当化をして……なんだ。それで行くと光弘は少なからず私に恋慕の情? があったのか。すまんな、気づかずに」
「え、えーと……そうなの、かな?」
「つまりこの三ヶ月間の、意図の読めない無視は伝え聞く『ツンデレ』ということだったのか……しまった。それでいうとフラグ? とやらがすでに折れてしまっているじゃないか」
「……いやテルスちゃん、前提からおかしいんだって」
「そうなのか?」
「うん。なんていうか、観点として偏ってる感じ」
「うーむ。偏り、か」
顎に手をやり真剣に考えるテルス。しかしすぐに何かに思い当たったようで、手を打ってのたまう。
「そういえば、明日美から資料として受け取ったのは『お姉さまに恋しなさい』『私の家族の気になるアイツ』『ラブラザーズエクストラ』。確かにやたらジャンルにバイアスが……」
「い、いやあの! それは今はひとまずおいとくとしてね! 明日もあさってもおいとくとしてね! ……ほらみっちゃん! ぼうっとしてないで座って座って!」
「いってぇ! え? な、なんでいきなり俺叩かれたの!?」
「ごめんね? でも詳しいことは気にしなくていいの。いいからいいの。とにかく座って? すわりなさい? 座る、ほら!」
「いやわかったから押すなって!」
「ふむ。これがいわゆる『ぽんこつ系姉キャラ』……」
「テルスちゃんはもういいから!」
テルスの正面に光弘が、明日美がドロシーの向かいに行き、なんとか全員揃ったものの、話は一向に始まらない。
ぎゃあぎゃあとわめき合ううち、シリアスな空気はパーセク単位で彼方へ行ってしまっていたのだ。
「だからね、私は別にそういう意図があってテルスちゃんに特定書籍を貸し与えたわけじゃなくってね? そもそも古典とも言うべき昔の日本の漫画産業には、昨今では失われた夢とか希望とかそれになんていうか……真実の愛? みたいのがあってね? それをテルスちゃんに知ってもらうことには、情操教育としてとても意義があると思っただけで……」
「いや別に俺そこ訊いてないんだけど……」
そして、立会人を務めるはずだった明日美が冷静さを欠いてしまったため、すでにして話し合いの席は崩壊していた。各々が一緒のことを話しているようでてんでばらばらのことしか言っていない。
しかもここで話すべきだった本題には、一ミリどころか一オングストロームもかすっていない。ある創作分野における明日美の嗜好がいかに文化的な雅やかさを持つかを証明する場になっている。
「あ、あの!」
見るに見かねたドロシーが大声をあげた。明日美の主張が、弟萌えというジャンルから始まり、大古典源氏物語より連綿と続く母親萌え、近親への憧れの系譜が、日本人としていかに正しい愛の姿なのかという、もはや文化論とも照れ隠しともいい難い謎議論に突入していたところであった。
「え、えと……」
その場の注目を一心に受けることになった彼女はへどもどしてしまう。
「どうしたの? ドロシーちゃん? ……あ、ドロシーちゃんも一言あるよね。メイドとご主人様が最終的にくっつくのが好きで――」
「そっ……それはおいおいお話するとしまして!」
顔を真っ赤にしたままわたわたと手を振って、若干言い難そうに続ける。
「こ、この場に集まったのって、そういうことを話すためじゃなかったんじゃない、かなーとか……思ったり、しまして。私もシェイドさんに記録係を頼まれた手前……」
「あ……」
ばつが悪そうに明日美は光弘を見る。自分の言動に恥じ入って、耳まで真っ赤である。なんとも情けないその姿に、この部屋に入っておきながら、往生際悪く、敢えて話題の脱線を許していた彼の覚悟も漸く決まった。
「……しかたないか」
「うむ。今度こそ知ってるぞ。これこそ『自爆系ヒロイン』とか言う古の……」
「それはもういい」
うんざりしながら、光弘はテルスを遮る。そして、今までずっと明日美に向けていた視線を、正面の彼女に戻した。
「そうなのか?」
三ヶ月ぶりに見たテルスの瞳は、変わらず不思議な存在感を醸し出していた。精巧にカットされた宝石のように、鳶色の虹彩が複雑な光を閉じ込めている。
「俺は、お前とそんな話をしにきたわけじゃない」
「みっちゃん……」
直前の明日美とのやり取りのお陰か、今日は、それに呑まれたりはしなかった。
力あるその目を努めて無視し、そのまま焦点をぼやかす。そうやって、彼女の上半身全てを努めて視界に収めてみると、
(……小さいな)
そこには普通の――というにはいささか造作の整った――少女が、座っているだけなのだった。
「じゃあ何の話があるんだ?」
きょとんとしながらテルスは問う。
両の手のひらを机の端に引っ掛けてこちらを見上げる様は、お座りをした小形犬をさえ思わせる。光弘や明日美と違い、無駄な服飾を嫌う彼女は、こんな時期でも無地の半そで短パンで、その言葉を言ったとき、真っ白ですらっとした二の腕に、彼女のつややかな髪が幾筋か流れかかるのが見えた。
「……」
髪。そういえば彼は一度だけ触れたことがあった。細く、やわらかく、しかし芯のある綸子のような肌触り。顔も、肌も、髪も。彼女は、確かに一線を画して美しかった。とはいえ、それはあくまでも、化け物ではなく人の体だった。
「俺が、お前と付き合っていけるかどうかについてだ」
そして、光弘はようやく気付いた。初めて出会って、助けられて。その間、一度も彼女を理解しようとしなかったという事に。
(『化物』か……俺と相対した人間は、ずっとあんな気持ちだったのか)
その時ふいに、光弘は、一つの理解に達していたのだ。
「付き合う……」
難解な数式でも前にしているかのように、一方のテルスは眉根を寄せる。
「ああ。俺とお前、今後についての重要な話だ」
「重要な……今後の……あっ」
クエスションマークを浮かべていたテルスが、その一言を受けてはたと手を打つ。
「わかったぞ! つまり『男女交際』と言うやつか!」
「ちっげえよ! それはもう良いって言っただろ!」
あまりに的外れな発言に突っ込みを返しつつ、光弘は信じはじめていた。
彼女は何も解っていない――明日美が先ほど言った事は、まさしくその通りなのかもしれない。と。
「と、とりあえず食べようか? せっかくのお料理が冷めちゃう」
そうしてまたどうしようもない言い争いを始めようとしていた二人を、ようやく冷静になった明日美がとりなし、今度こそ、彼らの話し合いは始まった。




