第55話 止まない雨
視線の先に、
闇に溶け込みそうな
2つの建物が見えた。
建物から漏れる光は
弱々しく頼りなかった。
それでも。
街灯のないこの道では、
灯台ほどではないにしても
心強い目印だった。
俺は大きく息を吐いてから、
ペダルを踏み込んだ。
建物を囲むように、
L字に走る道路に沿って
稲置川が流れていた。
その川は数10m先で、
忌寸湾へと流れ込んでいた。
古めかしい2棟の建物の窓明かりは、
6部屋分しか灯っていなかった。
空き部屋が多いのか。
それとも。
住人がまだ帰っていないのか。
その中で。
B棟の灯りは2つ。
1階と4階の2部屋だけだった。
俺は建物の敷地へ自転車を乗り入れた。
それぞれの建物の前に、
駐輪場が設けられていて、
俺はA棟の前の駐輪場に、
自転車を停めた。
何も考えず、
ここまで来てしまったが、
当然、
俺に相馬の部屋を訪ねる勇気はない。
ただ・・。
初恋の少女が暮らす家を、
一度くらい見ておこうと思っただけだ。
ふと。
俺の行動は
ストーカーになるのだろうかと自問し、
慌てて首を振った。
この時代。
ストーカーという言葉は、
まだ広く認知されていなかった。
知られていなければ、
存在しないことと同じ。
そう自分に言い訳をして、
俺は暗闇に紛れながら、
B棟1階の
明かりが灯った窓へと近づいた。
「やめてよ!」
その時。
突然、
静まり返った敷地に少女の声が響いた。
俺は驚いて、
周囲を見回した。
しかし。
誰もいなかった。
「こっちに来ないで!」
ふたたび少女の声が響いた。
その声は。
俺が目指している
明かりが灯った窓から聞こえてきた。
嫌な予感がした。
俺は音を立てないよう、
慎重に歩を進めた。
見ると。
明かりの点いた部屋は、
窓が開いていて、
半分は網戸になっていた。
俺は網戸の下へ身を寄せ、
耳を澄ませた。
静寂の中。
テレビ番組の不自然な笑い声が
漏れ聞こえた。
俺はそうっと頭を出して、
中を覗き込んだ。
壁を背に座り込んでいる少女の姿が
目に飛び込んできて、
俺は咄嗟に身を伏せた。
「どうした?
抵抗するとまた痛い目に遭うぞ。
大人しくしていればすぐに終わる」
男の声に
俺はふたたびこっそりと中を窺った。
大きな背中が見えた。
銀色の長髪が
腰のあたりまで伸びていて、
俺は一瞬女かと錯覚した。
狭い部屋には
2人の他に人の姿はなかった。
長髪の男は、
夜の闇のように黒いハットを被り、
真夏の影のように黒い服を着ていた。
「それ以上近づいたら・・。
大声を出すわよ」
男の背中の向こうに見える
少女が声を荒げた。
「それでどうなる?
誰かが助けてくれると
思ってるのか?
しかし。
そんな都合のいいことは起こらない。
人は他人のトラブルに
巻き込まれたくないんだ」
次の瞬間。
男が少女に覆いかぶさった。
「やだ!
やめてぇぇぇぇ!」
彼女の悲鳴が、
部屋を飛び出して夜空に舞った。
俺は一旦、
窓から離れた。
そして。
駐車場の砂利の中から
拳大の石を拾った。
それを手に、
ふたたび明かりの下へ戻ると、
窓ガラスめがけて
力いっぱい叩きつけた。
ガシャン!
大きな音が
夜の静寂を切り裂いた。
俺はすぐに窓から離れて闇に紛れた。
「誰だ!」
という声と共に、
男が窓から顔を出した。
銀色の髪は鼻の下まで伸びていて、
男の表情を覆い隠していた。
それでも。
男の顔が
赤みがかっているのがわかった。
髪の隙間から覗く鋭い目が、
男の狂気を物語っていた。
男は
「チッ」
と舌打ちをすると、
「チェリー。
割れたガラスを片付けておけ!」
と乱暴に吐き捨てた。
俺は男がテレビの前に座ったのを
確認してから、
その場を離れた。
それから。
自転車に跨って一心不乱に漕いだ。
気が付くと。
俺は
『Riverside Doom 春日』
の前にいた。
俺は駐輪場へ自転車を停めて、
侵入した。
屋上で1人、
ぼうっと夜空を見上げていると、
無性に煙草が吸いたくなった。
だが。
あいにく。
俺は煙草を持っていなかった。
考えまいとしても、
先ほどの光景が頭に浮かんだ。
相馬は日常的に、
父親であるあの男から
暴行を受けているのだろうか。
母親はそのことを
知っているのだろうか。
恐らく。
知らないのだ。
父親は母親のいない隙を狙って、
相馬を襲ったに違いない。
男は酒を飲んでいたようだった。
しかし。
どんな言い訳をしようと、
男の行動は許されないことだった。
一度ナカマイ先生に
相談するべきだろうか。
しかし。
相馬が誰にも話していないとして、
それが彼女の意思ならば。
その時突然。
周囲が暗闇に包まれた。
雲が月を覆い隠したのだ。
ふいに冷たいモノが頬に当たった。
続いて。
ぽつりぽつりと小さな雨粒が
そこかしこを濡らすと、
あっという間に大降りになった。
家に帰ると、
ずぶ濡れの俺を見た母が驚いていた。
「どうしたの?」
と訊ねる母に、
「何でもない」
と言って、
俺は階段を駆け上がった。
部屋のドアを開ける時、
階下から
「お風呂に入らないと、
風邪を引くわよ」
という母の声が聞こえた。
翌日になっても。
雨は止まなかった。
そして。
案の定、
俺は熱が出た。
母は
「すぐにお風呂に入らないからよ」
と呆れた顔で
体温計に目を落としていた。
ベッドの中で、
俺は相馬が学校に行ってるのか、
それだけが気になっていた。




