第130話 『Good night』
夕闇の空を
ゆっくりと雲が包み込んでいった。
俺はコンクリートの地面に
大の字に倒れていた。
心臓が早鐘を打っている。
男が俺を見下ろしていた。
「危ないな。
こんな物を振り回したら、
大怪我をするだろう」
男は俺から奪った彫刻刀を
フェンスから投げ捨てた。
「お前のような人間が、
何食わぬ顔で
教壇に立っていることは、
この国の汚点の1つだ」
「先ほどから気になっていたんだが。
目上の人に『おまえ』と言うのは、
いかがなものかな。
君は大人に対する口の利き方が、
なっていないようだ」
男はそう言って、
わざとらしく溜息を吐いた。
「この国の汚点の2つ目は、
年功序列の制度だ。
引き際を知らない老害は
国を腐らせる。
儒教の思想が根付いている
どこかの国も
20年後にはその内情はボロボロだ」
俺はゆっくりと立ち上がった。
「君の考えには
手放しで賛成することはできないが、
君がチェリーのことで、
ムキになっていることは
よくわかった」
「今後その名前で相馬を呼ぶな!」
俺は腹の底から声を絞り出した。
「彼女は従順で頭のいい子だ。
私に逆らうとどうなるか、
きちんと理解している」
男は笑った。
男は俺を挑発していた。
俺がかつて大吾の前で、
奥川を口説いた時のように。
この男は。
俺の反応を見て楽しんでいる。
俺は大きく息を吸った。
それから。
ゆっくりと吐き出した。
激しく波打つ鼓動が、
徐々に静まっていった。
この9か月あまり。
子供達との触れ合いを通じて、
俺は随分と丸くなったようだ。
今もこの程度の挑発に
心を乱している。
風が頬を撫でた。
「随分と冷えてきたようだ。
私はあと少し仕事が残っているから、
そろそろ失礼させてもらうよ。
君は『けいやく』に同意した。
それでいいんだね?」
男がオールバックの白髪を撫でた。
「『契約』は・・。
相対する当事者の
合意によって成立する。
俺はまだお前の素顔を知らない。
そのサングラスを外して、
素顔を見せろ。
話はそれからだ」
左目が義眼なら伊達。
そうでなければ織田だ。
「もう一度言う。
サングラスを外せ!」
俺の言葉に、
男はにやりと口元を歪めた。
「はっはっは。
秘密は秘密だからこそ価値がある。
それに。
手品の種明かしはルール違反だ」
男はどこかで聞いたことのある
台詞を口にすると、
くるりと背を向けて、
ゆっくりと歩き出した。
「本当のことを言うと!」
俺は男の背中に向かって叫んだ。
「もしお前に!
後悔や慙愧の念が
少しでも見えたら、
俺は法の裁きに委ねても
かまわないと考えていた」
男は俺の言葉にも足を止めなかった。
「葉山が残した手紙がある!」
俺はもう一度男に向かって叫んだ。
「葉山は子供を産んで
育てる決心をしていた。
名前こそ書かれてなかったが、
当然お前のことが書かれてる」
男が足を止めて振り向いた。
「なぜ俺が、
警察に手紙を渡さなかったか
知りたいか?
お前のためじゃない。
俺は葉山の名誉を守りたかった」
男の口元が
ぴくりと動いたのが見えた。
「お前は葉山の意志、
そして。
その思いを知らなくてはならない。
あそこにある封筒が見えるか?」
俺は最西端のフェンスを指さした。
男の目がフェンスに挟まれた封筒を
捉えたことがわかった。
「なるほど。
あれがイチジクが残した
証拠というわけか」
男が封筒に向かって歩き出した。
男は警戒するように、
俺の横を通り過ぎた。
同時に。
俺は屋上の扉へ向かって駆け出した。
あの日。
ボス猿が手にするはずだった
封筒と同じように、
中には何も入っていない。
そして。
男があれを手にした瞬間、
すべてが終わる。
扉の前に着いた時。
向こうで男が何か喚いていた。
男の声は、
吹きすさぶ風に掻き消されて、
ここまでは届かなかった。
俺は扉を開けて校舎の中へ入ると、
掃除用具入れから、
ゴミ袋を取り出した。
そして。
それを扉の外へ投げた。
男が走ってくる姿が、
夕闇の中でも確認できた。
俺が扉を閉めようとした時、
「・・待ちなさぁぁぃぃ」
と叫ぶ男の声が聞こえた。
俺はそれを無視して扉を閉めた。
風の音が遮断され、
校舎の中に静寂が広がった。
俺はポケットから鍵を取り出して
施錠した。
『Good night』




