5.【Floaters】あるいは【トモカヅキ】
私の身体の両側に配置した二本のシリンダー内には、混合ガスが充填してある。
成分は酸素に加え、窒素とヘリウムのトライミックス。水深30から40メートルを超えて深く潜ると(ダイバーによって個人差もあるが)、高い圧力によって窒素のせいでアルコールを飲んだような症状に襲われる。
これが窒素酔いだ。
正常な判断能力が失われ、パニックや判断ミスを引き起こす。これを防ぐため、窒素の一部(もしくは大部分)を麻酔作用のない軽量なヘリウムに置き換えてあるのだが、それでも完全には抑えきれない。
「くそっ……。集中しなきゃ」
私は身体を丸め、こぶしで太ももを強く叩いた。水の抵抗があったが、痛みを憶えた。
窒素中毒で酩酊しかけた意識を力づくで引き戻す。
この場合、さらに潜れば症状はますます激しくなるので、浮上すべきなのだが……。
そのときだった。
私は深淵をのぞいた。
チラリと、なにかが視界の端を横切ったような気がしたのだ。
今のは、人影ではなかったか?
ダイビングスーツ姿の?
あ。
まただ。今度は左から右に通り抜けた。
とっさに、生前ハロルドが私に言った言葉を思い出さずにはいられない。
二人で【ノートルダムの竪穴】に潜り、失敗した後日だったと思う。
別の海中洞窟に挑戦すべく、翌日のダイビングを控え、夜、ホテルでリラックスしていたとき――。
◆◆◆◆◆
「琉夏、もしこれから先、一人で未知の洞窟に潜ることもあるかもしれん。そのときは【Floaters】に用心しろ」
「フローターズ?」シャワーを浴びたばかりの私は、タオルで髪の毛をごしごしやりながら聞き返した。「浮遊物のこと?」
「ちがう。とくに狭い通路から広い空間へ出たときや、ましてや窒素でラリってるなら要注意だ。はじめは視野の隅に、チラチラなにかが横切るだけにすぎん。そのものを真正面から捉えようとしても、奴らは焦らすようにサッとマスクの外へ逃げてしまう。こちらもダイビングに集中したいのに、気になって仕方ない。そんなときは無理せず、小休止して奴らが消えるのを待つべきだ」
ようやく腑に落ちた。
【ノートルダムの竪穴】の迷宮で見せた彼の異変のわけを知ったのだ。あのときのハロルドも眼を瞑り、やりすごしていたっけ。
「窒素酔いから来る幻覚じゃ? フローターズなんて専門用語、初耳なんだけど」
「【Floaters】の正体は、洞窟内で死んだダイバーたちだ。しかも見つかっていない遺体だと相場が決まってる」
「え」
「奴らは水の底でもなく、水面でもない。中層の同じ深さをずっと漂ってる。はじめは視界の端でしか捉えられないんだが、やがて立ちふさがる形で真正面に回り込むんだ」ハロルドは窓際に佇み、夜景を見ながらめずらしく神経質そうな顔で言った。目頭を揉む。「ダイバーが残圧を失って死ぬとな、気体がスーツや体内に溜まって、絶妙な中性浮力を保つことがある。そうして、潮流に乗って彷徨い続けるんだ。ライトの光を当てると、まるで泳いでるみたいに、ゆっくりこちらへ顔を向けてくることもある。中にはしゃべりかけてくることも」
「まさか。ただの都市伝説でしょ? 死体は通常、底に沈むか、ガスが体内に溜まったら浮上するだけなのに。しゃべりかけてくるなんて――」
「おれは見たんだ、何度も。声まで聞いた。こっちへ来いと手招きしてくるんだ。奴らに引きずり込まれたら終わりだぞ」
ハロルドは真剣な顔でそう言った。そのあと壁に凭れたまま座り込み、頭を抱えた。
もとより私を冗談で脅かそうとするタイプではない。
そのときになって、私はひらめいた。
「ねえハル。三重県の鳥羽や志摩の海女たちに伝わる妖怪を知ってる?」
「海女の――なんだって?」
「トモカヅキのことだよ」
『共潜き』は、志摩沿岸などに伝わる海中の怪異で、海女にそっくりの姿で目撃されるという。すなわち水中版ドッペルゲンガーと言えるだろう。
なぜか曇天の日に出会いやすく、白の磯着姿はいっしょなのだが、鉢巻の尻尾が不自然に長いので見分けがつくともいう。
トモカヅキはクロアワビを差し出してきたり、暗がりへ誘うこともあり、誘いに乗ってしまうとおのずと潜水時間が長くなるわけだから命を落とすと恐れられた。
それゆえに海女の世界では、頭にかぶる頭巾に格子や五芒星を刺繍して魔除けにしたのだ。
「……なるほど。【Floaters】にそっくりだな。この手の話は万国共通なのかもしれん」
「トモカヅキの正体はきつい潜水の仕事をくり返してるうちに、低酸素脳症にかかり、幻覚を見た説が強いらしいの。だからもしトモカヅキが見えてしまったら、しばらく潜る仕事を休めとまで言われたそう。なまじ見た直後に死んだくらいなら、妖怪の仕業と結び付けられたのかもしれないね……」
◆◆◆◆◆
あのときのハルの昏い顔を思い出し、私は思わず身震いした。
そうだ。【Floaters】はトモカヅキと同義語なのだ。
自分と同じウエットスーツを着、同じ顔をし、暗い水底で微笑みながら『こちらへ来い』と手招きする死の幻影。
私はキャニスターライトの光で深淵を照らした。
広大なオペラハウスの暗闇。
あるいは深い井戸の底か。
ニーチェの有名なフレーズが頭を掠める。
光の束が、下方の闇を照らし出す。
やはり、そこにいた。
ついに視界の真ん中に捉えた。
私の心臓が、ビクン! と、まるでパンチングボールでも殴られたみたいに動揺する。
レギュレーターを咥えた口元から、思わず気泡が洩れた。
穴の真ん中。
水深56メートルの浮遊域に、一人のダイバーが浮いているではないか。
黒いダブルスキンのウエットスーツ。
腰の両側につけた二つのシリンダーなら、ケイブダイビングにはありがちな恰好だ。
特徴的な黄色いフィンに眼を奪われた。
バディと潜った際、先行者が目立つためにとあえて黄色を選んだのではなかったか?
そのダイバーは、完全な中性浮力の姿勢を保ち、マスクをつけた顔をうつむけたまま、ゆっくりと円を描くように旋回していた。
「まさか、ハル……?」
まちがいない。
あの黄色いフィンは、彼が愛用していたジェットフィンにちがいない。
ドリルを思わせる細身の身体つき、あの年季の入ったシリンダー。ブロンドの短髪がふわふわと海藻みたいに揺れている。
ハロルドが、そこにいた。
彼の遺体は沈んでもいなく、岩の割れ目に挟まってもいなかった。
この暗黒のオペラハウスの中心で、1年前からずっと、揺られていたにちがいない。
「ハル! 助けに来た!」
近づこうとした。
どういうわけか、足が動かない。
窒素酔いのせいで、身体が異様に重いのは確かだが……。
それだけではない。
ライトの光を浴びたハロルドの亡骸が、意思をそなえたかのように、180度の方向転換――ヘリコプターターンをしはじめたからだ。




