6.サム・ザ・ダイブ
相手の顔が、こちらを向く。
光に照らされ、ダイビングマスクの奥が見えた。
そこにあったのは、ハルの顔ではなかった。
死人の顔は青白いわりにあまりにも滑らかで、あまりにも女性的であり、新しすぎた。
私自身の顔に見えやしないか?
マスクの奥で、死せるダイバーはレギュレーターを咥えたまま口元を緩め、微笑んだ。
なんてことだ。
手招きしてくる。
黒いグローブをはめた手が、私に向かって、『もっと深く、こちらへおいで』と動いていた。
――『来いよ、琉夏。ここはとびっきり静かだぞ』
私の頭の中に直接、語りかけてきた。
ハロルドのようでもあり、私自身の声でもあるし、ヘリウムガスを吸引して甲高くなった声――ドナルドダック効果も混ざっているようでもあった。
ケイブダイビング版トモカヅキ。
これこそが【Floaters】。
いずれにせよ、潜水する者を死へと誘う幻影にすぎない――はず。
いけない。
視界が白くぼやけはじめた。
呼吸が荒くなり、レギュレーターの音が激しい勢いでくり返され、大量の泡が洩れる。
無意識に残圧計に眼をやった。
私としたことが、うっかりしていた。
すでにガスを3分の1使い切っているではないか。
すぐ引き返さなければ、終電に乗り遅れてしまう。
ここでエアを使い果たせば、ハルと同じように、蒼い牢獄で永久に宇宙遊泳するはめになるだろう。
「いらっしゃいよ、琉夏さん……」
英語で語りかけてくるのは、淑やかな女性の声。
そのとき、【Floaters】が分裂した。
二つではない。
なんと三つ。
プラナリアを切断したら、それぞれが独立して再生したみたいに。
三人目の声がそれに続いた。
「僕たちといっしょに泳ごうよ、お姉さん」と、若い男性の声が私の脳にこだました。「家族だけだともったいないよ、ここは。ダイビング好きなら、ずっと遊んでいられる」
三体の【Floaters】が私の方を見つめ、一様に手招きしている。
ハロルドと私を合成したようなダイバーの腕が、ひょろりと伸びてきた。
異様な長さ。
まるでウミヘビみたいに、くねくねしながら私を捕まえようとする。
「消えろ!」私はレギュレーターのマウスピースを噛み締め、声にならない声で叫んだ。「ハルは……、ハルは、そんな顔で笑ったりしない!」
ハロルド・J・ウィルソンは、水中洞窟での死を恐れ、そしてなによりもそれに敬意を払ってきた男だ。それがために後進の育成にかけては激烈に厳しかった。
たとえ己のエゴのために命を落としたとしても、バディであった私を闇へ引きずり込もうとする人ではない。
彼は、『生き残れ』と教え込んだではないか。
眼を閉じ、頭をふった。
酩酊状態を払いのけるべく、肺の中の空気を吐き出す。
ふたたび眼を開けた。
そばにいた三人のダイバーは、ゆらゆらと漂っていたが、しだいに霞んでいき、かき消えてしまった。
そこに漂っていたのは、ハロルドの遺体でも、妖怪でもない。
ハロルドのものと思われる浮力調整装置の空気袋にすぎなかった。
見るも無残に破損していた。潮流になびいて、あたかも人が泳いでいるかのような姿に見えていただけだった。
しょせん極地におけるストレスと、窒素酔い、そして私の執着が見せた、悲しき譫妄でしかなかったのだ。
動悸を鎮めるために、ゆっくり呼吸をくり返した。
「ハル……。あなたは、もうここにはいないんだ」
結局、ハロルドの亡骸は、穴の底にも残っていなかった。
恐らくさらにこの奥にある、人類が到底たどり着けない水脈のどこかへ流されていったのかもしれない。
息子さんと奥さんの遺体さえ見つけられなかった。
残圧計を見なくては――。
針は、3分の1のガスを使い切ってしまい、このままでは2分の1まで失う。
サードルール違反だ。ハロルドが生きていたら、叱りつけられるにちがいない。
どうやらここが私の限界点らしい。
これ以上、1秒たりとも留まることは許されない。
腰のDリングにぶら下げた小型のダイビングナイフを外した。
講習を修了したとき、ハロルドから一人前のテクニカルダイバーの証として譲り受けたナイフ。
刃を起こす。
私は水底の岩壁の亀裂に、その刃先をグイと食い込ませた。
ライトの光を受け、チタンブレードが一瞬白く反射する。
「ここがあなたの墓石だ。安らかに眠れ」と、私は念じた。「あなたは私を置いていった。でも私は、あなたを忘れないよ」
私は誰に見せるわけでもなく親指を立てた。
サム・ザ・ダイブ。
これより帰還する。
うまく帰ることができればいいが。
◆◆◆◆◆
もと来た道を引き返した記憶は曖昧で、まさに夢の中の出来事のようだった。
暗闇の中、一本のガイドラインだけを頼りに戻っていく。
ハロクラインの揺らぎを突っ切り、いくつもの狭隘部をくぐった。
少しずつ、少しずつ、水深が浅くなるにつれ、窒素酔いもましになっていった。
ダイブコンピューターが命じる減圧停止を指示通りにこなし、辛抱強く身体を慣らすのも怠らなかった。
胸の中にあった心の幻肢痛も、いつしか消えていた。
結果的にハルの遺体を回収することはできなかったのは無念だ。
けれど、私はハルが最期に眼にした未知の世界を見届けることができた。
彼は死後、その魂は家族と会えたのだろうか?
知る由もない。
ハルは救いを求めてなどいなかったのだ。
あのオペラハウスのような大空洞で、世界の深部の一部となったのだから。
ようやく横穴を脱出した。
やれやれ、竪穴に戻ってこれた。
頭上から、エメラルドグリーンの燐光が降り注いでいる。
相も変わらずオーロラのような光の襞が波打っていた。
私は減圧症にかかるのを防ぐため、エアが続くかぎり、休み休み時間をかけて浮上していった。急浮上すれば肺が破裂し、最悪即死しかねないのだ。
そして水面を割った。
マスクを取り、レギュレーターを口から外し、新鮮な空気をいっぱいに吸い込む。
眩い太陽光線。
そよ風の音。
鳥たちの囀り。
水中での静けさが嘘のようだ。
地上にはこんなにもたくさんの音と、光と、生命があふれていたなんて!
了




