4.アリアドネの糸玉、そして深淵へ
私はガイドライン――洞窟の入口から奥へと張り巡らされた厚手のナイロン製のロープを片手でたどりながら、横穴の奥へ奥へと進んでいく。
水深は38メートルまで下がっていた。
奥へ行くにしたがい、水温まで冷え込んでいく。ウエットスーツを通して冷気が染み込んでくるのがわかる。
視界は恐ろしいほどクリアだ。クリアすぎる。
浮遊物は一切なく、このあたりは沈殿物も少ない。
ライトの光で洞窟の景色が晒される。天井には、何万年もの歳月をかけて形成された鍾乳石が、まるでホホジロザメの牙のように垂れ下がっていた。
枝道が増えてきた。迷宮部にさしかかったのだ。
このあたりの迷路なら地図化されている。ハロルドはさらに奥の未踏エリアをめざしたはずだ。
しかしながら息子や妻の亡骸を捜しに行ったのなら、そうとも限らないだろうが……。
いずれにしろ、捜索隊はこのあたりは隈なく捜したはずだ。だから脇道は無視した。
ライン沿いに進むしかない。なにせエアには限りがある。
私は前もって【ノートルダムの竪穴】の立体地図を頭に叩き込んであった。ケイブダイビングでは陸上でのイメージトレーニングで完全に学習しておかないといけない。
どれほど進んだろうか。
時間感覚にして、さほど経過してはいまい。水中をバディなしで泳ぐと、私の中の決定的ななにかが麻痺していくようだ。
ダイブコンピューターのデジタル表示に眼をやる。
残圧なら、まだたっぷりある。
しばらく泳ぎ進めると、洞窟の壁面に、以前も見た人工物が見えてきた。古い金属のプレートが打ち付けられているのだ。
『STOP. PREVENT YOUR DEATH. GO NO FURTHER.』
――やめろ。死を防げ。これ以上進むな。
大鎌を手にし、フードをかぶったマント姿の死神のイラストが描かれた警告看板。
レジャーダイバーに向けた最終警告の境界線だ。この手の看板は、あらゆる水中洞窟で建てられているので、さほど驚きはない。
前回、ハロルドと来たときは、看板を無視して進み、大迷宮の中ほどまで行ったところで引き返したのだった。
今回も、警告プレートの横をすぎた。
ここから先は、ほぼ地図が完成していない世界。
ハロルドが最期に辿ったであろうエリアが広がっている。
途中までガイドラインが断線していたのに、ここからはラインが張られている。きっと前回ハロルドが、もしも後続のダイバーが来たときのために残してくれたにちがいない。
したがって、彼はこの先まで進んだという意味だ。
この糸こそ、ミノタウロスがひそむ迷宮から生き残るためのアリアドネの糸玉。
ラインを片手に添えながら進むと、洞窟は急激に狭くなり、天井まで低くなった。
ここに来るまでいくつか狭隘部をくぐり抜けてきたが、比べものにならないほどの狭さと長さだ。私はその場にホバリングし、暗い穴をのぞき込んだ。
8年前、私とハロルドが【ノートルダムの竪穴】に初挑戦したとき、こんな穴は潜らなかったはずだ。
とすれば、どこかで道を誤ったのか?
しかしながらこんな狭隘部の壁に、ガイドラインが張られているということは、ハロルドの導きということではないか?
こうなったら、アリアドネの糸玉を信じて進むしかない。
サイドマウントシリンダーでは通過できない。
左右の腰に吊り下げた金具を外し、二本のシリンダータンクを前方に押し出す恰好で泳ぐ。
指先で岩の突起を引っかけ、身体を狭い隙間に入れていく。
「シュコー……、シュコー……、シュコー……、シュコー……、シュコー……」
窮屈すぎる穴の中で、私の呼吸音だけがやたらと大きく反響する。レギュレーターから洩れた泡が天井にぶつかって邪魔され、視界が利かない。
しばらく進むと、タンクは前に押せるのだが、私自身の胸郭が押し潰された。
焦りが喉からせり上がってくる。
左右だけではなく、上と下からも凍り付くような寒さが伝わってくる。
数センチの余裕すらない。
海洋実習で岩の隙間に挟まれ、出られなくなったとき、教官時代のハロルドに叱られたことが嫌でも頭をよぎる。
ここでパニックを起こし息を吸い込めば、膨らんだ胸が岩に引っかかり、ますます動けなくなるだろう。のみならず、過呼吸はエアの残圧を著しく速めることにつながるのだ。
だからこそ、恐怖をコントロールしなくちゃいけないと教わったのに!
――『なにやってる琉夏! 落ち着いて、呼吸を整えろ。すべて出し切れ。身体を小さくするんだろがっ!』
ハルの怒声が、脳内で再生される。
あれほどしごかれ、克服したはずなのに、苦手なものは苦手だ。
別に閉所恐怖症ではない。
このまま身動きとれなくなったら、どうなるんだろうという不安が先に立つ。そもそも恐怖症を抱えているなら、わざわざケイブダイビングなんてしない。
私は眼を瞑り、肺の中の空気を吐き出した。
横隔膜を緩め、胸郭が縮むイメージを心がける。
窮屈だと思った穴に、わずかな隙間ができた。
糞づまりしていたはずの胴体が動く。
フィンをばたつかせ、前進した。
なんとか狭いトンネルをくぐり抜けることができた……。
広い通路に出ると、私はホッとひと息つき、装備を整え直した。
それからも洞窟は細くなったり広くなったりをくり返しながら、いくつもの分岐点にぶつかった。
とはいえアリアドネの糸玉のおかげで、奥へ奥へと進むことができている。
やがて前回二人で潜り、限界残圧を迎え、引き返した地点に追いついた。
私はダイブコンピューターのデジタル表示に眼をやった。
エアの残圧ならまだ大丈夫。なまじ迷宮を行ったり来たりしていないし、呼吸も前回よりかは安定している分、遠出できるのだ。
さあ、これからが本番だ。いよいよ未踏のエリアに入る。
この先で彼の遺体を見つけられたらいいが……。
ガイドラインを辿りながらいくつもの狭隘部をくぐり、よけいな枝道を避けて進むことさらに10分。
そのときだった。
突然、視界が歪みはじめたので、私はフィンをキックする速度を落とした。
あたかも水中にオイルを流し込んだかのように滲みが生じている。キャニスターライトの光が不規則に屈折し、周囲の岩肌がゆらゆらとうねっているのだ。
「塩分躍層……」
上層の冷たい淡水と、下層の温かく密度の高い海水が交わる境界層である。密度の違いによって光の屈折率が変化し、ダイバーの視界を奪う。
このハロクラインを抜けると、完全に海水域へと入るわけだ。
境界を突っきった。
淡水エリアにあった微かな透明感すら消え去り、海水の重みが身体に覆いかぶさってくるよう。
しばらく狭い通路をくぐり抜けると、突如として巨大な空間に出た。
なんだここは……。
まるで巨大なオペラハウスのような広さじゃないか!
恐るべき景観!
ライトの光を調整し、全開にしてみる。
光条は穴の向こうの壁に辛うじて届くほどの距離だ。まさかこんな大空洞があるとは思いもよらなかった。
ゴツゴツした天井は見えるものの、真下はさらに闇。
眼も眩むような深淵。
私は浮力調整装置に空気を入れて中性浮力を取り戻し、広場の中央にポツンと漂った。
上下左右、すべての感覚が失われる。はたして上を向いているのか、下を向いているのかさえ、ダイブコンピューターの深度計を見なければつかめない。
擬似的な宇宙空間。
水深42メートル。凍えるほどの水温にゾクゾクしてきた。
さらに潜水しはじめた。
きっとこの水底に、沈んでいるような気がする。
潜るにつれ頭の芯がホンワカと温かくなった。全身がわななき、多幸感に包まれる。ブワッといっせいに鳥肌が立つ。
これは恐怖からではない。
長距離マラソンで得られるランナーズハイにも似ていた。ダイビングマスクの中で、無数の小さな光が遊んでいるように見えてきた。
これは、ただごとではない。




