3.心の幻肢痛
ハロルドは気を取り直し、それからも迷宮の探索が続けられたが、やがて限界残圧に達してしまった。
時間切れだ。引き返さなくてはエアが持たない。
私たちは無言で頷いた。
ハロルドは苦渋の決断を下す。
親指を立てるサム・ザ・ダイブ――中断のハンドサインだ。
正直、私は撤退の合図を確認すると、ほっと胸を撫でおろした。こんなこと、彼には口が裂けても洩らせなかったが。
ダイビングを終え水面から上がったすると、太陽の日を眼にした途端、涙をこぼしたのを憶えている。
反対にハロルドはウエットスーツの背中を私に見せたまま、しばらくうつむいていた。
自尊心を打ち砕かれた男の姿がそこにあった。
「あの迷路の先には、まだ誰も見たことのない空間があったはずだ」と、ハロルドは膝に顔を埋めたままの恰好で言った。「……琉夏、おれたちは引き返し方を間違えていなかった。ちゃんとおまえをエスコートしてこれた。未踏の地へ進むおれの技術が足りなかっただけだ」
そう言って、唇を噛んだ。
以来ハロルドは、毎晩【ノートルダムの竪穴】のマップとにらめっこし、記憶を頼りに書き直していた。
それこそ憑かれたように。
私が32歳のとき。ちょうど1年前のことだ。
ついに悲劇は起きた。
ハロルドはなにも告げず、たった一人でこの水中洞窟へリベンジしに潜ってしまったのだ。7年ぶりの再訪。
生涯、バディを組むならおまえしかいないと言ったのに、私を置き去りにして。
彼はベースキャンプのテントに一枚のメモだけを残していた。それが遺書になった。
――『琉夏、おまえを巻き込みたくない。おれ自身の問題なんだ。もし明日になってもおれが戻らなければ、警察を呼んでくれ。自分勝手だと罵ってくれてもかまわない。ただし絶対に追うな』
もちろん警察を呼んだ。
のみならず、水中洞窟専門のダイバーにも救助を要請した。通常のレスキュー隊では手に負えない現場なのだ。ハロルドを知るダイバーたちは、各地からこぞってかけつけてくれた。
数日をかけて大規模な捜索がなされたが……。
しかし、横穴の入口から300メートル地点で彼のちぎれた予備ラインが見つかったものの、ハロルド自身も、彼が身につけていたシリンダーさえも回収されることはなかった。
捜索は二次被害を懸念し、打ち切られた。
ついに暗い深淵へ、彼は消えてしまった。
あとで人づてに訊いたところによると――。
ハロルドが30代半ばのときだ。やっぱり彼は、ふつうの家庭を築いていたらしい。
まだ年端もゆかぬ息子が、実力もないのに功名心にかり立てられた。反抗期の感情もあり、父親の鼻を明かしてやろうと【ノートルダムの竪穴】に挑戦したというのだ。
しかしながら息子はあえなく消息を絶った。自殺したも同然だった。
悲劇はそれで終わらなかった。
息子を捜そうと、同じケイブダイバーの妻までもがハルの制止をふり切り、竪穴に潜った。息子を溺愛していただけに半狂乱になっていたという。
こうなっては後の祭り。結局――彼女も帰ってこなかった。
◆◆◆◆◆
ハロルドが家族を失ってから20年の歳月が流れていたことになる。
機が熟したわけでもない。
彼は愛する妻や息子の遺体が、今でも洞窟のどこに眠っているかと思うと矢も楯もたまらず捜しにいったということだろう。
私との初挑戦は、いわばシミュレーションをかねた探査だった。あわよくば見つけられるかもと、私をバディとして連れていったのかもしれない。
こうして、常にノーミスを信条とした男までもが【ノートルダムの竪穴】の餌食となった。彼にも魔が差すことがあったのだ。
ミイラ取りがミイラになる。
なんて愚かだと、世間の人は呆れ、また死と隣り合わせの道楽に熱中する者を軽蔑したことだろう。
私だって後ろ指さされたことも一度や二度じゃない。
ふだん仕事に出かけ、長期休暇を利用して潜りに行こうとするたび、「あの人、変わり者だから」と陰口を叩かれたものだ。
わざわざ死にに行くようなダイビング、どこに惹かれるんだ。もし事故にあったらまわりに迷惑をかけるのに。――お定まりの日本特有の自己責任論。島国ならではのムラ社会の発想。
まったくおっしゃるとおりだと思う。
ハロルドを失ってからすごした日々を、私はよく憶えていない。
腑抜けになった私は、ダイビングをすっぱり辞めてしまった。器材のすべてをクローゼットに押し込み、カーテンを閉ざした暗い部屋で膝を抱えたまま、じっと壁の染みを見つめてばかりいた。
途方もない失意。なにもしたくない。
事故や病気で四肢を切断した人は、時折存在しないはずの手足が痛み出したり、指先がむしょうに痒くなるという。
詳しい医学的な原因はわかっていない。一説によると、脳内にある身体の各部位に対応するマップが、その部位を失ったにもかかわらず更新されないためだとも言われている。
なにをするのも一心同体だったはずのハル。
言うなればこれは、心の幻肢痛か。
心に穴が開いたどころではない。
魂の片割れまで捥ぎ取られたかのようだった。
夜、浅い眠りにまどろむと、暗闇の向こうからハルの声が聞こえる。
――『琉夏、おまえのサードルールはどうした? 浮力調整ができていない。このままじゃ沈むぞ』
そのとおり。
このままだと浮上できなくなる。
皮肉なものだ。
沈んでしまったのなら、命のかぎり手を伸ばし、光さす水面をめざすべきなのに。
苦しみを払いのけるために私が選んだ答えは、遮光カーテンを開け、陸上へ出ることではなく、さらに深く潜ることだった。
すなわち、あの人が消えていった闇の奥へ。
『ただし絶対に追うな』――ハロルドが手紙にそう書いたのだから本心にちがいない。
追えば、きっと彼のことだから烈火のごとく叱るに決まっている。
ごめん、ハル。どうやら約束は守れそうにない。
どうせあなただって自分勝手に無茶をしたんだ。
だったら私だって、あえて危険を冒す権利があるでしょ?
◆◆◆◆◆
1年のブランクを経て、私はふたたび器材を引っ張り出した。
シリンダーに混合ガスを充填する。
もちろんブランクを取り戻すために、きついトレーニングを重ね、感覚を研ぎ澄ましていった。
貯金を使い果たし、単身【ノートルダムの竪穴】へ戻ってきたのだった。
33歳になった今でも肉体に衰えはなく、むしろ身体の内側にはマグマのような熱塊が滾っていた。
これから危険な賭けに挑む。
弔い合戦ではない。
死んだバディを供養するためのラスト・ダイブでもない。
理由なんか、どうでもいい。
一条の光すら届かない闇の牢獄で眠るハルの遺体を回収する。
たとえ骨の欠片になっていたとしても、あるいは岩の隙間に挟まりボロボロに朽ち果てていたとしても、できる限り陸に引き上げてやりたい。
仮に取り戻すのが物理的に不可能なら――せめて彼がどこで息絶え、どのような姿勢で眠っているのかを見届け、洞窟のもっとも深い片隅に、彼が愛用していたナイフでも打ち込み、彼の墓標としたい。




