2.【ノートルダムの竪穴】への初挑戦
海洋実習など最たるものだった。
Cカード(Certificationの頭文字。認定カードのこと)を取得するために、私は悔し涙を流すだけでなく、口の中を切って血まみれになったり、意識が飛んだことさえめずらしくなかった。今では考えられないスパルタ教育だったろう。
「サイドマウント(身体の左右に2本のタンクを装着するスタイル)のシリンダーの位置が2センチずれてる。やり直せ」
「姿勢が乱れてるぞ。なんだこの水の濁りは? さてはフィンで泥を巻き揚げたな。ここが暗闇の洞窟なら、おまえのせいでバディは視界0で死んだぞ!」
「どうした琉夏。ピクニックしに来たわけではあるまい? 恐怖を我が物にしろ! 死ぬ気で息を整えるんだ!」
「琉夏、これしきの狭隘部をくぐれないでどうする! 岩にかじりついてでも脱出しろ!」
鬼教官ぶりは噂に違わず、容赦なかった。
水中での実地訓練でいっしょに潜っても、怒号はくぐもった重低音となり、私の鼓膜に突き刺さった。
しかしひとたび陸に上がり、重い器材を降ろせば、彼は嘘のように柔和な人物に戻った。
たっぷりしごかれたあとの夜、ベースキャンプで他の訓練生と焚き火を囲んだときだった。みんなはぐったりと疲れ切っていた。
彼は不器用に淹れたコーヒーをマグカップに注ぎ、大きな手で渡してくれた。
憤怒の形相は消え、どこか寂しげな横顔が忘れられない。
「すまんな、琉夏。厳しすぎるのはわかってるつもりだ」と、ハロルドは火の粉が舞い上がるのを見ながら詫びた。「だがな、水中での甘えはいっさい許されない。魚じゃあるまいし、呼吸器官を持たない人間があの蒼い牢獄へ入っていくんだ」
「蒼い牢獄」
「そうだ。おれたちはわざわざ囚われにいくようなもんだ。わずかな油断、わずかの過信が、一瞬で命取りになる。下手すりゃバディまで道連れだ。常にノーミスを心がけろ。だからこそ己にも厳しく、他人にも厳しくないといけない。さもないと、ロマンチックだがハードな世界では生きられない」
「ロマンチックでハードですか」と、私はバスタオルを頭にかぶったまま言った。「なんだか、レイモンド・チャンドラーの小説のセリフみたい。『プレイバック』のマーロウです」
「そうだっけか……」
ハルは照れ臭そうに鼻の頭をかいた。
彼はカップを手にしたままずっと遠くを見つめるような眼をして笑った。
「水中には地上では味わえない静けさがある。人間の歴史よりはるかに古い時間が、そのまま残されているんだ。一度あの静寂を知ってしまうと、陸の騒がしさには嫌気がさすほどだ。……だがな、魅入られたダイバーから死んでいく。水中洞窟は美しすぎる墓場だから」
今にして思えば、あの言葉こそ、そっくり彼自身への警告だったのかもしれない。
◆◆◆◆◆
私はダイバーとして成長するにつれ、しだいに彼に惹かれていった。
どちらかが先に好意を持ったのかは憶えていない。
生徒と教官としてではなく、その垣根も、年齢差さえ越え恋仲になるなんて、私にしても思ってもみなかった。
ハロルドには家族がいるからと、誰かにこの恋を止められたことはない。
周囲は、てっきりハロルドは死と隣り合わせの洞窟探検で、いつ死んでもいいようにあえて家庭を持たなかったんじゃないかと思われていた。今さらながら虫のいい解釈だったかもしれないが。
未熟な生徒たちをしごいていたとき、奥さんや子どもの影すら感じさせなかった。さもなくばダイビングばかりぞっこんだったから、とうの昔に家族に逃げられたかだ。
職業を超え道楽も度がすぎると、大抵家庭は崩壊する。
ハロルドは私とバディを組み、世界各地の主な水中洞窟を攻略していった。
私はめきめき腕を上げていった。
25歳になったとき、私たちは【ノートルダムの竪穴】に初挑戦した。
時間をかけて作戦を練ったつもりだった。
まさかこれが破滅へのプロローグになろうとは……。
【ノートルダムの竪穴】は、竪穴自体は神秘的な水がめにすぎない。ところが真下の横穴をくぐると、その様子は一変する。
内部は枝道がいくつもあり、巧妙に入り組んだ迷宮と化していることで知られている。
淡水と海水が混ざり合う深い領域に、激しい引き潮のような水流と、人ひとりが通りかねる狭隘部が無数にあった。
狭い通路は上へ下へと縦横無尽に伸び、袋小路もあった。入ったら最後、戻ることのできないトラップじみた穴まであった。
奥を極めた人は未だいないというのだ。
すなわち、未踏のエリアが眠っていた。当然マップも未完成のまま。誰もが最奥を極めたくてウズウズしていた。
人は人跡未踏の地があると、攻略せずにはいられない生き物だ。冬山登山然り。
こんな水中洞窟でさえ、人類は征服すべく、危険を承知で出かけてしまう。死後も自身の功績が残されるからだ。
時に冒険心は業である。それがために命を落とし、家族を泣かせ、路頭に迷わせるというのに。
私たちは、徹底的に研究していたにもかかわらず、想定以上の複雑な地形に悩まされた。
おまけにそのダイビングにかぎり、ハプニングが続出。
メインラインの断線を皮切りに、度重なる天井からの崩落により、通路が遮断されたり、リブリーザーの二酸化炭素吸収剤の過熱に手を焼き、強烈な吸い込みに行く手を阻まれ、それを超えるのに時間を費やした。
極めつけは迷宮の複雑さ。
奥へ進むにつれ、水温は凍えるほどになった。
手持ちのラインやマーカーの数が底を尽き、これ以上分岐を進めばマップの作成だけではなく、帰還の安全さえ担保できなくなる恐れがあった。
しかも、ハロルドにこんな異変があった――。
「クソッ、まただ……。こんなときにかぎって」
黄色いフィンがフロッグキックをやめる。
なぜだかハロルドは泳いでいる最中、頭をふることがあった。マウスピースを咥えた彼の唇が動いた。水中での話法でふつうにやりとりができた。レギュレーターから大量の泡が洩れた。
直後は決まって、マスク越しに手のひらで目元を覆い、しばらくその場から動かない。
心配した私が前に回り込むと、強く眼を瞑っていることがしばしばだった。
「ハル、どうした。具合でも?」
「なんでもない。気のせいだ」と、ハロルドは眼をしばたたくと、私の肩を叩いた。「潜水病による後遺症のひとつにすぎん。前からたびたび見えるようになった。じきにおまえも見るようになるだろう」




