1.恐怖をコントロールしなくてはならない
世界には、神の御業としか思えない場所がいくつか存在する。
私は今、メキシコ・ユカタン半島にある巨大洞窟群のひとつに潜っていた。
そこはまるで、地球の深部へ向かって垂直にくり抜かれた巨大な穴。
ダイバーにとってそこは【ノートルダムの竪穴】と呼ばれ、憧れの聖地であり、同時に恐れられていた魔の領域である。
透明度の限界を超えた淡水の中で、細やかな光が乱反射している。
白い光のカーテンがそこかしこで揺らいでいた。
私は人魚さながら身をくねらせてその光のシャワーを浴びた。久しぶりに帰ってきた私を歓迎してくれるかのようだった。
巨大な水がめの中で、私は羊水に浮かぶ胎児のようにしばらく漂っていた。
石灰岩の地層が自然のろ過装置となり、天然の浄水器となって澄んだ水を作り出しているのだ。
ウォーミングアップをかねてゆっくり潜水。
やがて底近くに達した。
水温はぬるい。
腕時計型のダイブコンピューターを見る。
水深は、きっかり30メートル。
時間や水深をはじめ、ガス残量、減圧情報、浮上速度まで管理する、いわばダイバーにとっての生命維持装置。ましてや洞窟潜水は天井つきのロケーションばかりなので、故障は死につながる。予備の同型を反対側の手首にもつけているほどだ。
頭上に眼をやる。
薄い碧の光彩が揺蕩っている。
ちょうど岩壁の威容が、まるでゴシック様式の大聖堂――昔写真で見たノートルダムの高く尖ったアーチ型天井を思わせ、うっとりと見とれてしまうほど。この洞窟がその名を冠された所以だ。
レギュレーターの二段口を通じ、私の呼吸音だけが、「コハー、コハー」と喉の奥で響く。
吐き出された気泡は、ダイビングマスクを掠め真上へと昇っていく。
すると泡は、天井の岩肌にぶつかり銀色の粒となって砕け散る。
上半身につけたジャケットタイプの浮力調整装置に入った空気が、私の身体を水平姿勢へと保持している。
重力から解放された肉体。水中でハチドリがホバリングするように静止する。
ケイブダイビングをはじめてから今日に至るまで――その間、大きな痛手に打ちのめされ、1年間のブランクこそあったが――、私は水中洞窟を怖いと思ったことがない。
恐怖という感情はパニックを引き起こし、人体の血中の二酸化炭素濃度を跳ね上げる。そうなると視界を狭めてしまい、死をたぐり寄せる危険因子となる。
だからこそダイバーたちは、恐怖をコントロールしなくてはならない。
むしろ今、この【ノートルダムの竪穴】で感じているのは、大自然への畏怖だと思う。
あるいは神へのそれか――。
【ノートルダムの竪穴】は本来、人の立ち入るべき場所ではないのだ。
挑戦者の命をことごとく奪ってきた。
ダイバーたちを退けてきた死の霊廟。
人類が挑むべきではない禁足地。
もしくは禍々しい魅力をもった魔所とも言える。
水底には、びっしりと白い泥が沈殿していた。
いったい、どれほどの年月をかけてこの沈殿物は積もったのだろうか?
地質学に疎い私には知る由もない。
ひとしきり巨大な水がめの中を漂っていた。
嫌でも壁面の、真っ黒な横穴が眼に入ってくる。
洞窟の入り口。
さっきの竪穴は母に抱かれているような歓迎ぶりだったのに、闇が広がるそれはあまりにも不吉で、よそよそしく、あらゆる侵入者を拒んでいるかのようだった。
私は腰のリールからプライマリーラインをくり出した。
横穴の岩肌に、先人たちによって常設されたガイドラインにジャンプラインを接続する。
カチリ。
金属音が、水を通じて直接骨に響く。
これが命綱となる。
とはいえラインがつながったからといって、ここでは気休めにすぎない。
身体を水平に保ったまま、足ひれを横に切った。
フロッグキック。
水底に沈む微細な泥を巻き揚げさせないための、静かな泳法。
私は、黒々とした横穴の奥へと進みはじめた。
地獄ははじまったばかり。
左手に握った強力なキャニスターライトの光条が、漆黒の闇を暴く。
数万年の年月をかけて冷水に侵食され、黒く研ぎ澄まされた岩壁の襞だ。まるでドラゴンの鱗みたい。
光の届く範囲だけが藍色を取り戻し、それ以外の周囲はタールのような闇に塗りつぶされる。
その闇をのぞくたび、私はある男の声を思い出さずにいられない。
耳元に、力強い声が甦る。
――「琉夏、ダイビング中に疑うべきは、むしろ自分の感覚だ。おまえの眼も、耳も、時間感覚さえも、すべてこの水が狂わせる。ましてや窒素酔いしてるときはなおさらだ。信じていいのはゲージの数字と、相棒のサイン、それとおまえ自身の冷めた思考だけだ」
と言って、彼は自身のこめかみを指さしたものだ。
ハロルド・J・ウィルソン。ノースカロライナ州アッシュ郡の出身のベテラン・ダイバー。
誰からもハルと慕われ、ダイバーの卵たちからは尊敬の念と恐れを抱かせた鬼教官。
◆◆◆◆◆
ハロルドとの出会いは、私がまだダイビングのいろはもわからない、19のときだった。
当時、彼は指導団体において、日本支社に勤める屈指のアメリカ国籍のインストラクターだった。血気盛んな42歳。
軍をはじめ商業潜水、テクニカルダイビングの修羅場をくぐり抜けてきた猛者で、その身体はドリルのように細いが、鋼鉄じみて頑健だった。
日焼けした顔には細かい皺と、右眉の上に抉れた傷痕があった。サメに嚙まれたとの触れ込みだったが、本当かどうか。
「いいか琉夏、レジャーダイバーは水中を楽しんでいればいい。だがテクニカルダイバーは水中で生き残らなきゃいけない。その違いがわからん奴は、今すぐおれの講習から出ていけ!」
ハルの講習は過酷を極めた。
マスクを水中ではぎ取られ、視界を奪われた状態で沈んだ予備呼吸器を探す訓練。
暗闇の中、ラインを指先だけでたどり、結び目を解かされたことも。
エアの供給を止められ、パニックになるなか、サードルール(使用ガスの3分の1を往路、3分の1を復路、残り3分の1を緊急予備とする原則)を計算させられたりと、さながら苦役のような日々。




