番外編 浮かれたオス
俺はルルのオスだ。
……何度でも言う。俺は、ルルの、オスだ。
俺の毛並みは、毎日ルルが梳いてくれる。
毛づくろいはツガイの役目だからな。俺が自分でやるのは、戦場で血や泥を落とすときくらいだ。あとは全部、ルルの小さい手が整えてくれる。
俺は昔からブラシにだけはうるさかった。いつ俺のメスに会ってもいいように、毛をキメておかなきゃならねえ。何でも自分で作れる俺だが、ブラシだけは職人に頼んできた。
……だが。
もうあのデカいブラシは用済みだ。ルルの手には合わねえ。二度と必要ねえ。
新しいブラシを手に入れたのは、まだ正式な蜜月ではなかったが――食料を仕入れに出た初めての日。ついでにブラシ屋にも寄った。
「ちっ……今日もオスばっかか」
店内は俺と同じ考えの連中でいっぱいだ。毛並みを磨いて、いつか出会うメスに備える。分かる。分かるが――今日の俺は違えんだよ。
零れ落ちそうな笑みを隠す気もないまま、カウンターに肘をついた。
「おい、チェダ。ツガイの小さいふわふわな手に合ったブラシをひとつ。色は黒だ」
店内が一瞬、凍りついた。
全員が俺を見る。俺も見返す。……いや違えな。俺が見るのは連中の"手"だ。どいつもこいつもデカいブラシを握っていやがる。
俺の買うブラシは、小さい。
そういうことだ。
さらに、最大の注文を重ねた。
「それと、ツガイ用の"櫛"をひとつだ」
……空気が変わった。
櫛は女神が使ったもの。真っ直ぐな毛並みにしか通らねえ。女神が真っ直ぐだったから、真っ直ぐが美人の証。黒は最高の色だ。
にやけそうになる口を押さえながら言った。
「櫛の色は黒。"黒の毛並み"が映える緑の狼を入れてくれ」
そうだ。俺のメスは、黒の真っ直ぐな毛並みだ。
「バーツ! ツガイが見つかったのか!?」
声をかけてきたのはジャン。あの"でかい"ブラシを持ってる、欲求不満丸出しのオスだ。
「あぁ、かわ――」
言いかけた瞬間、食い気味に割り込まれた。
「どこでだ!? どうやって見つけた!? 新しい匂いの辿り方を掴んだのか!?」
気がつけば、周りのオスどもが俺を取り囲んでいた。
鬱陶しい。暑苦しい。おい、牙を剥いて必死に迫るんじゃねえ。
「小さいブラシを買うのか?」
「ツガイなのか?」
「黒色の真っ直ぐな毛並みなのか?」
「どこで会った?」
「匂いはどうやって嗅げたんだ?」
……蟻か、てめえらは。
「ジャン、お前もブラシを買いに来たのか?」
「そうだ。女神の伝承にあるだろ。毛並みが大事だってな。メスに会ったときのために整えておかないとな。ブラシを使い分けりゃ艶も増す……それよりどこで会った!? 教えろ!」
「バーツ、用意ができたら家の前に置いとく。祝いだ、最速で届けてやる」
チェダが割って入ってくれた。
「助かる、チェダ。支払いはいつも通り、国払いだ」
――国払い。
かつて国がいくつも存在していた頃は文化も違っていたが、女神が共通で使えるものをいくつか作って交流を可能にした。通貨もそのひとつだ。俺はもう、一生分の金を貯めてある。ツガイができたら、一生蜜月で閉じこもるためにな。ツガイ貯金ってやつだ。
用は済んだ。俺はさっさとルルのもとに帰る。邪魔だ、どけ。
「会わせろ! 連れてこい!」
まだジャンが喚いてやがる。こりゃ明日には群れ中に広まってるな。
「お前も、ツガイ祝い持ってこいよ!」
そう言い返して、俺は走った。
――ルルの待つ家へ。
家に戻ると、まだルルは布団の中で小さく丸まって眠っていた。その寝顔を見ただけで、胸がきゅっと鳴った。
俺はそっとクローゼットを開ける。中には何着も仕立てた服が並んでいる。何年も前から――ツガイを迎える日のために作り続けてきた。夢を見ながら手を動かして、破いては縫い直して、ずっと作ってきた。あとはルルの身体に合わせて少し調整するだけだ。
……いや、実際には何着も作り直すことになるだろう。だがそれでいい。あの小さな手と黒い毛並みに完璧に似合う服を作り上げてこそ、オスの務めだからな。
果物も山ほど用意してある。毎日、今日会えるかもしれない、明日かもしれないと思いながら森へ足を運んだ。腐っていく果物を見るたびに胸が抉られて、涙が出た夜もあった。
けれど今は違う。その果物を小さな牙でかじるルルの顔を見られる。――あの時間がすべて報われた気がした。
「あの時は、一生で一番幸せだと思ったんだがな……」
俺は笑って首を振った。ベッドで眠るルルを眺めながら思う。
とんでもねえ。今が一番幸せだ。ルルと会ってからまだわずかしか経っていないのに、幸せは倍増しになっていく。掃除だろうが、料理だろうが、呼吸ひとつすら――ルルと一緒にすることが、こんなに満ち足りたものだとは知らなかった。俺はもう、一生巣に閉じこもって生きていたい。虫との戦いも、群れの義務も、どうでもいい。ツガイと一緒にいることが、すべてだ。
――その時だった。
ガンガンガンッ!
鋭く、家の扉を叩く音が響いた。
「ちっ……叩くな、馬鹿。ルルが目を覚ますだろうが」
舌打ちして扉を開けると、ジャンのでかい図体が現れた。
「いつツガイを連れてくるんだ?……いや違う、次の狩りにいつ出るんだ? 一週間後か?」
うるさい。声がでかい。
ツガイを連れてこいという言葉には、思わず喉の奥から低いうなりが漏れた。牙を剥かずに我慢しただけ、俺は偉い。
だが狩り――これは簡単に断れない。俺は一匹でも戦場を荒らせるオスだ。俺が抜ければ仲間の生存率が下がる。群れのためには出ざるを得ない。
「……一週間? バカ言え。最低でも一か月はくれ」
言い切った瞬間、俺とルルの蜜月は残り一か月に決まった。
……短い。短すぎる。
俺の中では、一生蜜月でも足りねえのに。




