私の葛藤
今日は、バーツが戦場に向かう日だ。
朝ごはんを食べて部屋の掃除を済ませると、バーツはベッドの上に座って後ろから私を抱きしめ、離そうとしなくなった。
「ねぇ……」と身じろぎしても、腕の力が増すだけだ。無言でずっと抱きしめ続けられていると、不安だった気持ちが逆に少しずつ落ち着いてくる。しばらくして、ようやく渋々といった仕草で私を部屋に置き、外から鍵をかけた。
「……悪ぃな。不安なんだ」
扉越しに、バーツの声が聞こえてくる。
「心配すんな。虫なんて、さっさと片づけて帰ってくる。な?」
そして――いやだ、いやだ、という呟きが、重たい足音と一緒に小さくなっていった。
私は、ひとり。
ベッドの上で膝を立てて頭を埋めていると、抱きしめられていた間だけ落ち着いていた不安が、また足元から這い出てくるようだった。
ランプをつけなくても、壁の隙間から陽の光が少し差し込んでくる部屋。でも膝の間は暗い。それより、もっと暗い不安が胸の中にある。「絶対に帰る」なんて約束できないのが戦場だし。そんなこと、バーツが一番わかってるくせに。
――嘘つき。
まだ約束を破ってもいないのに、彼を嘘つきと思っている自分がいる。不安が喉の奥に詰まって、窒息しそうだった。バーツが怪我をしたら。もしも、帰ってこなかったら――。
生い立ちのせいか、子供のころから一人でいる時間には慣れていた。自分では、寂しさがたまに辛いぐらいで、孤独はむしろ性に合っているとまで思っていた。けれど、落ちてきてからの彼との日々が、私を甘やかしたのかもしれない。今している自分との戦いは、頭がおかしくなりそうなくらい辛かった。
「優しすぎ」
「甘やかしすぎ」
「かっこよすぎ」
「ずるすぎ」
本人がいないのに、ぶつぶつと文句を言ってみた。でも心に染み出した不安は消えない。
明日は?
――そんなのわからない。命を掛けてるんだから。
じゃあ、外に出る?
――いや、そもそも私は部屋から出られない。
出れたら、外にいる人たちは怖くない?
――恐い。
でも、一番怖いのは彼に依存している今の自分。生活の基盤がすべてあの人にある。いつでも裏切られる。いつでも失う。まるで足元にぽっかりと穴が開いて、じわじわと沈み込んでいくような感覚。声をあげたら、そのまま闇の底まで落ちてしまいそうだった。
「もう、いやだ」
零れ落ちた言葉は、喉に不安が詰まっていたせいで掠れて弱々しかった。
――情けない。
顔を上げて、ベッドサイドのランプをつける。ほんのりと部屋を照らし始めた。陽の光と相まって、少しだけ明るくなる。
「覚悟をひとつだけ決めれば、違う未来もあるんじゃない?」
バーツが出ていった扉を見つめながら自分に言い聞かせてみた。でも出した言葉は、私の心には届かず、革の絨毯の上に落ちていった。
音もしない部屋の中で、不安だけが重く動かない。握り合わせた指先が、冷たかった。
ランプをつけても、自分を鼓舞しても、この沼から這い出ていけない。理由はわかっている。あの扉を開ける勇気がない。この世界で生きていく覚悟が決まらない。それが、未来への不安を払拭できない理由だ。
決まるまでゆっくりしていればいいのかもしれない。別にバーツが焦らせてくるわけでもない。でも——そんな自分の生活を誰かに預けることに、私は慣れていなかった。誰にも裏切られたくない。ひとりなら傷つくこともない。だから「誰も好きにならない」。昔、決めたはずのその決意が、今、音を立てて崩れていく。
私、彼のことが………。
――いや違う。誰も好きにならないって決めた。
でも、ドキドキしてる。
――違う、あんな人、好きなわけない。憧れてるだけ。かっこよすぎるだけ。
指が無意識にシーツを掴んでいた。離そうとしても、一本一本がゆっくりとしか動かない。いつの間にか、呼吸が浅くなっている。
沸き起こる気持ちが消せなくて、否定しても嘘をついている自分がわかるから、もっと胸が苦しくなっていく。「自分で自分を守らなきゃ」と言い聞かせるたびに、胸の奥が軋む。軋むというより――裂けるような痛みが、波のように押し寄せてきた。
そっと、息をつく。
こんな気持ち、疲れるだけ。強くありたい。ひとりでいられる自分でいたい。そう願ってきたのに――自分を守ろうとする力と、バーツに惹かれる気持ちが、胸の中で綱引きをしている。どちらかが勝つまで、この苦しみは終わらない。
自分の未来が、手の内にない気がして。
自分の心が、身体の内にない気がして。
もう泣きそうだった。
――助けて。
鍵を掛けた手が、妙に重い。
どうしても振り返ってしまう。扉の向こうにルルがいると思うだけで、胸が焼けるようだ。
「……悪ぃな。不安なんだ」
離れたくなかった。あいつの小さな身体が腕の中で温かくて。
「心配すんな。虫なんて、さっさと片づけて帰ってくる。な?」
口ではそう言ったけど――本当は、俺が一番ビビっている。あいつの手を離すのが怖い。この手が、もう二度と、ルルに触れられなくなったらと思うと、足がすくむ。
……ったく、俺らしくもねぇ。
「あーあ、ダメだな」
足が重い。
だけど、あいつが待ってくれるなら――俺は帰る。這いつくばってでも、絶対にだ。
「ルル、待ってろよ。こんなモン、余裕で片づけて、また抱きしめてやるからな」
背を向けたまま、ぼそっと呟く。
届かなくていい。
でも、やっと手に入れたあいつだけは――絶対に手放さねぇ。




