赤い記憶
朝の砦の上は、驚くほど涼しかった。
雲ひとつない青空の下、陽射しは強いのに、さらっとした風が石壁の上をすり抜けていく。足元の石はひんやりしていて、砦の上から見下ろす平原は、柔らかい緑と土の色のまだら模様。遠くで砦内の喧騒がかすかに聞こえてくる。
私が提案した、「トカゲに身体を括り付けて、体重移動で操りながら虫を倒す遊撃部隊」。今日は、そのお披露目の日だった。
この遊撃部隊が完成すれば足を失くした人でも戦場に出れると想像して提案したけど、実際に形にして、鍛え上げてくれたのはブルーさんだ。
砦の上から身を乗り出して見下ろすと──戦場となる平原を、トカゲたちが駆けていた。何匹もの大きなトカゲに、オスたちが跨り操っている。身体を傾けるたび、トカゲの胴も滑るように曲がり、地面を切り裂くみたいに進路を変えていく。散開しては集まり、また散って──連携して虫を切り裂いていく様子は、まるで生きた矢の束みたいだった。昔は「仕事もなく、囮にしかなれない」と言われていた人たち。その彼らが、今は最前線で敵を薙ぎ払っている。
胸がいっぱいになって、視界がにじむ。風が当たって冷たいはずの頬が、熱くてたまらない。「昔の戦い方では、音で指示を出していた」と私が話したとき、ブルーさんはすぐに目を光らせた。そして今、低く腹に響くドラの音が響いている。
ドン……ドン…ドドン……!
規則的なリズムと、急かすような早打ち。虫は隊列を組まず、ばらばらの塊で動くから、アニメで見た“陣形を組んで突撃!”みたいな綺麗な動きにはならない。だけどドラの音が、「あっちから」「どの種類が」「どれくらいの数で」来ているのかを瞬時に伝え、それに合わせてトカゲ部隊が一気に滑り込む。戦い方そのものが、変わっていっている。
「……すごい」
「……あぁ」
バーツの体温と、ひんやりした風の温度が、肌越しに同時に伝わってくる。今まで、どれだけの仲間の死に立ち会ってきたのか。見上げたバーツの顔は、泣きそうに歪んでいた。
右隣にいるブルーさんに、改めて頭を下げる。
「ブルーさん、本当にありがとう。ここまで成功するなんて思ってなかった」
「いえ、礼を言うのは、むしろ私のほうです」
ブルーさんは、泣き出しそうな顔で、それでも穏やかに笑った。そして、視線をトカゲ部隊から遠い昔へと向けるように、静かに語り始めた。
「私には……兄がいました。とても、強い兄でしてね。誰よりも多く虫を倒し、毛並みも誰より美しく、尻尾はまるで女神の髪のようだと評されていました」
その赤い目は、遊撃部隊のもっと奥を見ていた。
「そんな兄ですが、ある日、私をかばって……虫に両足を食われまして、ね」
そこから先は──私もよく知っている「道」だった。
「兄は、そのまま“囮”になりました。意識を手放せるよう、薬草を食べさせて……虫を引き寄せるために転がされ……メルの魔法が落ちるまで、食われ続け、呻き続けていたのです」
砦の上を通り抜ける風がひやりと肌を撫でるのに、身体の芯はじりじりと焼けるみたいに痛かった。噛みしめた歯が軋んで、目の奥が、胸が、頭が、ぎゅっと締めつけられる。
「思うわけですよ。他に、何かできたんじゃないかと。兄を生かす道はなかったのか。せめて、あんな死に方だけは変えられたんじゃないかと。……そりゃあ、毎日考えましたとも」
淡々とした口調なのに、そのひと言ひと言が、鋭い刃みたいに胸に刺さる。
「ですが──ひとりのメスが、こう言うのです。『過去は変えられないから、今を変える』と。違う世界から来て、何も知らない、力もないメスが……狂ってもおかしくないほど悲しい現実に泣きながら、それでも這いずって前に進んでいるんですよ」
そこまで言って、ブルーさんは少しだけ笑った。
「だから、オスである私は、嘆くのをやめました。兄がいないのは……今も、どうしようもなく辛い。あのような終わり方をさせたことを考えると、今でも、頭がおかしくなりそうです。それでも、過去は変えられないのですよね」
静かに、でもはっきりとした声。
「だからこそ、今、生きている仲間が、生きられる道を作る。そのためなら、私は何でもしたいと思っています」
そう言うと、ブルーさんは、すっと膝を折り、固い石の床の上で、私の前に片膝をついた。青みがかった黒い髪が、夏の陽射しを受けて淡く光る。
「我が女神よ。生きながらえるだけでなく——戦い、守る術をお与えくださり、深く感謝申し上げます」
伏せた頭が、低く垂れる。
「我ら、戦場を渡る者一同。魂をもって御身に尽くすことを、ここに誓います」
胸の奥が熱くなって、言葉が出てこなかった。バーツは何も言わない。いつもなら、「俺のだ」とか「近づくな」とか言いそうなのに、ただ静かに、じっとその光景を見ている。もしかしたら、ブルーさんのお兄さんの最後を──バーツも見ていたのかもしれない。そう思うと、もう何も聞けなくなってしまった。
立ち上がったブルーさんは、悲しみも、悔しさも、そして希望も全部混ざったような顔で、私たちに笑いかけた。その後ろでは、トカゲたちが再びドラの合図で方角を変え、虫の群れへと滑り込んでいく。
過去は変えられない。それは、どうしようもない、残酷すぎる絶対的なルール。
叫びたいくらい悔しくて、苦しくてたまらなくて──耐えきれなくなって、私はバーツの胸に飛び込む。強い腕が、ぎゅっと私を抱きしめてくれる。石の砦の上なのに、そこだけが、小さな焚き火みたいにあたたかかった。
ブルーの兄貴は俺にとっても兄貴同然だった
薬草を震える手で兄貴に渡すブルー
泣くな。これでいいと、その震える手を抑えて、食う兄貴
意識が無くなっても、汁になった薬草を飲ませる
最後の晴れ舞台だから 後悔ないように
と、家族が最後の仕事の補佐をする
なぁ俺のメス
戦場に、誰が運んだか知ってるか?
俺のツガイは女神の世界から来た
なのに、血まみれなこの世から還してやれねえ
どこにだってついてくさ。俺がいけるところならな。
けど……この血まみれの身体じゃ、きっと女神の世界には入れねぇ
だから、すまねぇな
泣かないでくれ
泣いても離してやれねぇから




