コハルさんからの伝言
漆黒の板を、射抜くように見つめる。そこから視線を逸らすことができない。
これを持ち出すべきか、あるいは見なかったことにして闇に葬るべきか。もしも奪われたら。誰かの手で悪用されたら、この世界はどうなってしまうのか。最悪のシミュレーションが脳裏を駆け巡る。
でも——決めた。
やっぱり、中敷きを回収する。
「よし……」
私は用意しておいた真っ白な布を広げると、その中心に板を据えた。大きな布は板の輪郭を優しく、それでいて確実に飲み込んでいく。余りあるほどの布地を使い、幾重にも、幾重にも丁寧に巻き付けていった。
「おい、ルル。……震えてるぞ」
指摘されて初めて、自分の指先が小刻みに戦慄いていることに気づく。それでも……止めない。
「……少し、ね」
「安心しろ。大丈夫だ」
そう言って、彼は私の頭を優しくひとなですると、出来上がった布の塊を脇に抱え直した。
バーツの逞しい腕に収まったその包みを見て、ようやく胸の奥に小さな安堵が芽生え始める。それまで無意識に息を止めていたようで、深く息を吐き出すと、強張っていた肩の力がゆっくりと抜けていくのがわかった
この世界を根底から揺るがしかねない、禁断の秘密。
「……で? どこで調べる気だ」
「狼族長老を巻き込みたい。万が一……もあるし」
「そうだな……」
あの長老なら、いざという時に何が正しい判断か見誤らない。
「……行こう」
狐族長老が眠る静寂を背に、私たちは城の西棟、狼族の長老がいる部屋へと足を向けた。
ここまで来たというのに、心のどこかではまだ迷っている自分がいた。重厚な扉の前に立ち、私は一度深く吸い込んだ空気を肺に溜め、その決意を確かめるように強く拳を握りしめた。
室内へ足を踏み入れると、そこにはたまに帰った息子を見る父親の姿があった。けれど、彼は私たちの険しい表情と、抱えられた布の塊を認めた瞬間、鋭く目を光らせる。空気の変質を察した狼族長老は、一瞬で表情を引き締め、声を低めた。
「……何があった」
「頼みてぇことがある」
バーツが短く応じ、テーブルへ布の塊を置く。布を剥ぎ始める彼の横顔を盗み見ながら、私は狐族の長老から託された最期の言葉を伝えた。
「そうか……」
姿を現し始めた板を見つめ、長老がぽつりと零す。
「寿命だとわかっていた。だが……そうか。女神の……」
静かな、けれど揺るぎない決意を瞳に宿し、彼は棚へ歩いて行く。用意されたのは、筆記用具――そして、すべてを無に帰すための火の魔法陣と壺。
「……書に落とそうと思うが、必要とあらば、即座に燃やせるよう準備を整えた」
その徹底した備えが、事の重大さを無言で突きつけてくる。バーツが板をテーブルの端へ寄せると、ガタン、と重苦しい音が響いた。完全に布を解かれた板を、長老が目を細めて凝視する。
「ルルちゃん。これは……我らが女神から授かった“文字”ではない」
「はい。この世界の文字は”ひらがな”だけですが、本来、私たちは、ひらがなと合わせて、これらの文字を使います。これは“漢字”。こちらが“カタカナ”。基本はその三つを使い分けます」
バーツが、板上の漢字を指でトントンと叩く。
「ルルの魔法陣も、こっち寄りだよな」
「そう。意味を持つ文字。数が少なくても、多くを伝えられる利点があるの」
長老が、隠しきれない不安を声に滲ませて問いかけた。
「……我らが知って良い内容なのか?」
心臓が痛いほど脈打ち始める。
――分からない。
でも、コハルさんだって普通の日本人だった。迷って迷って、それでも残した文字だったはず。
なら……。
私は深く、覚悟を、吸い込んだ。
「この世界の人が、知っては”いけない”真実なんて、きっと存在しない。そう思いたいんです」
「……そうか」
ふぅ、と長老の長い吐息が聞こえた。
「ただ、私たちでは重荷が過ぎます。長老……一緒に悩んでくれますか?」
瞬間。
「こ……光栄にございます! 頂いた信義、命を賭して果たしましょう!!」
まさかの、全力土下座だった。
張り詰めた背中から、猛烈な気合いが立ち上っているような迫力を感じる。
――違う!
私が望んだのは、そういうのじゃない!
私の悲鳴が漏れるより早く、バーツが音もなく前に出て私を背後に隠した。彼は獣のような敏捷さで地に腰を落とし、土下座する長老と目線を合わせると、這い上がるような視線で下から睨みつける。
「……テメェ、俺のメスに、気安く忠誠なんざ誓ってんじゃねぇよ」
低い。心臓が凍るほど、ヤバいくらいに低い声だ。バーツはヤンキー座りのまま、不遜に顎をしゃくった。
「ルルは“俺”のツガイだ。仕える? 生まれ直してもさせねぇ。理解しろや」
首をコキリと傾げ、血走った目で威嚇する姿は、完全に喧嘩モード全開。
――やめて。
本当に、もうやだこの二人。
「……始めましょうか」
私がわざと明るい声を響かせると、二人は何事もなかったかのように、しれっと起立した。
文字盤は、私に向けられた状態で置かれた。
左側には、いつでも書き留められるよう筆を構えた長老。そして右側には、テーブルに置かれた私の右手の上に、そっと、けれど力強く自分の掌を重ねるバーツ。その手の熱が、私の震えを鎮めてくれる。
私は一度深く呼吸を整えると、二人の目を交互に見据えた。
「これは文字だけではなく、地名がメインで書かれてます。だから、文字と地名の二つが揃って理解できる人じゃないと、この文章の本当の意味はわからないようになっています」
部屋の中の緊張が、肌を刺すような密度で高まっていく。私は板の文字をなぞり、先ず一行目をゆっくり読み上げた。
『富士 頂 琵琶 アリ』
「富士は富士山を指し、日本では聖なる山になります。だから、これは…女神の山を指している、と思います。琵琶は湖だから……山頂に湖……火山湖があると書いてあります」
長老が猛烈に筆を走らせる。
『琵琶 カラ 華厳 ソシテ 信濃 へ』
「これは、華厳は滝、信濃は川。”から”、と、”へ”、ということは……合わせると、火口湖にある水が滝で落ち、川になって流れてる、と読めます」
どこにも「水」という文字は記されていない。本当に私の読みは合っているのだろうか。もし一文字でも読み間違えたら、取り返しのつかない事態になるのではないか。
募る不安に押し潰されそうになり、隣のバーツを盗み見る。彼は板など目もくれず、ただじっと私だけを見つめていた。ふいに視線がぶつかると、彼は力強く、短く頷いてみせる。――大丈夫だ、と言わんばかりに。その無言の肯定だけで、怯えていた心に、温かな安心が灯った。
『カツテ 富士 怒ル』
「これは噴火ですね」
ここまでは繋がる。問題は次だ。
『琵琶 波 アリ』
「火山湖で波があった、と書かれていますが、この先は、多分、想像で補うことが必要だと思います」
長老を見ながら、一つずつ確認していく。
「まず、噴火が起こりました。そうすると、次に書いてある、これ、”マグマ”が出ます。この部分です」
「マグマとは?」
マグマと書かれたところを指さすと、長老は、その文字を紙に写し終えた後、筆を止め、私の目を見て確認してくる。よく見ると、長老の額に汗が光ってた。手も少し震えてる。
――なんだ、長老も私と一緒…。
湧き出てくる安心とともに、少しずつ、周りが見え始め、思考が動き出すのを感じる。
「マグマは、星の内部にある岩が溶けたものです。マグマが噴火で外に出ると、そこには、火山湖があるので、冷やされ火山岩になります」
「なるほど。まぐま、は、いわ、になると」
ひらがなだけで書くから大変そう。
「岩は湖の底に落ちていき、波に揺れて……ぶつかり砂になった」
「ふむ」
「つまり、砂は水とともに湖から滝へ、そして川へ流れていく、と読めます」
それで、思い出すのが、川底にあった金色の粉。これを熊族長老は魔力の塊と言った。推測だけど、金色の粉に魔力があり、粉のもとが川から運ばれた火山岩だとするなら、この星のエネルギー自体が、魔力を持っているということになる。
思わずバーツの顔を見る。バーツも気が付いたみたい。眉間に皺を寄せて、私に深く頷いた。
『霧ケ峰 マグマ 粉 貯マル 屋久島 ナル』
「霧ヶ峰って高原…だったはずです。…高原? そんなのあった?」
見たことない。どこにあるんだろう。記憶にある猿族長老が見せてくれた地図を思い出す。高原になりそうな場所……わからない。今から地図を借りに行くべきか。全くわからないことに焦りを感じ、どうしよう、という言葉だけが、脳内で空回りを始める。
「ルルちゃん、高原とは何だ?」
長老の落ち着いた声が、耳に入ってきた。
「あ…えーと、高いところにある平原? だったはずです」
「うむ? 平原ならたくさんある。草が生えてるがな」
「あ!」
――そうか!
草原ならある。
「それかもしれないです! 霧ケ峰を草原と例えたとすると、次に屋久島は…島? たぶん、島を指しているわけじゃない。他は…世界遺産? そんなわけないし…」
さすがに理解できないと長老もお手上げのようで、「島? 水の中にある大地? なんだそれは」と根本的なところから悩んでいた。二人して唸り声をあげていると、隣にいたバーツが私の背中を撫でて、声をかけてくる。
「ルル。俺は難しいことはわからねぇが、山、川、草原、とくれば、残りは森じゃねぇのか?」
――あ。
屋久島は、森の島って呼ばれてたはず。
「バーツ、多分、それ当たりだと思う」
バーツに頷いて同意すると、役立ったと言わんばかりの輝く笑顔を見せてくれる。かわいい。もう一度、板の文字に目を凝らす。
「と、いうことは……草原に、川から火山岩の粉が積もると森になる、と読めます」
私の脳裏に、最初に踏み入れたジョーガンの森の荘厳さがよぎる。
『屋久島 マグマ 粉 貯マル 裏山 ナル』
「裏山…? 直訳じゃない。とすると、思いつくのは一つだけ。うーん、平凡な普通の山って言いたい?」
同時に、ジューの森が思い浮かんだ。
ジョーガンより少しだけ、密集して木も小さくなっていた気がした。それに、伝承の時に長老が神聖な森は食べ物が乏しいと言ってたけど、ジューの森は少しだけ多く感じた。
コハルさんの言葉と、私が見てきた”今”が、繋がった気がする。私は震える指で板を押さえた。ジョーガンの森に魔石の粉が溜まると、ジューの森のようになっていくということかもしれない。
『信濃 時 経ツト 大キク 長ク』
「時間が経って川が大きく長くなるのを、コハルさんは見てた……そして、水は未来、川の先で”溜まる”」
長老と時のタイミングで顔を上げて視線が合う。
「コハルさんは、自分が見ている世界が、未来には"違うもの"になると予測していたのかもしれません」
ゆっくりと頷く長老を目の端にとらえ、喉がひりつくのを抑えながら続ける。
「この星は魔力を持っている。噴火で魔力が内から外に出て、川を伝って大地に広まった。その魔力で、大地は変化した。始めは草原、次に神聖な森。そして、最後は営みができる森へ」
長老が息を呑む。
「つまり……この星は……今も進化の途中……?」
「はい。“神秘の森”から“営みの森”へと、生き物が生きやすい世界に変わりつつ……あります」
そして――
「巨大な虫は……その進化の……鍵?」
自分で言って、凍りついた。
なぜ虫だけが突出して巨大化したのか。なぜコハルさんは、情報を分けて長老たちに託したのか。しかも、明らかに”日本人”に限定をして情報を伝えようとしたのか。
何を……
私は、何を知らなければいけない……?
胸の奥が急に冷たくなる。
まだ見つけられていない“何か”ある。
あと、忘れていけないことが、もう一つ。
コハルさんが掴んでいない謎も、きっとある。それがわかってたから、コハルさんは次の日本人に”託して”いったんだ。
渡されたものの重さに気が付き、命綱のように、バーツの手を強く握りしめた。




