狐族の灯火
ジューでバーツが兎族長老を蹴飛ばしてから、一か月が経った。私たちはジョーガンに戻って日常生活という名の発情期らしきものを送っている。
「らしきもの」というのは、まったくバーツが離れなくなったから。ついでに家から出してもらえない。始めの一週間は寝室からも出られなかった。まるで発情期の再来のようだった。
ベッドを出ようとすると、あの手この手でひきずり込まれる。「もうお腹いっぱい!」と本気で怒ってやっと、居間まで出してもらえた。長かった…。
終わったと思った後でも、バーツは私の椅子になっているか、背中に張り付いているか、どちらにしてもべったりとくっついていた。食事も私は作れず、自分が作り食べさせるを満喫してる。
そう、満喫してる。
私の頭にキスをして、一口食べさせると、ニヤニヤしながら、口元にキスをして、次の一口をとるためにお皿に手を伸ばす。運びながら頭にキスして、食べさせる。
「ねぇ、そろそろ自分で食べたい」
ちょっと言ってみる。本当に自分で食べたいと思ってる……気持ち半分ぐらいだけど。
「ん? 大丈夫だ。お前はここに居ればいい」
タレ目を最大限垂らして私を見てるバーツは、意味が通じない回答をしながら、果物を私の口に運ぶ。今日は桃。長くてゴツゴツした指で挟んで私に食べさせる。口に桃を入れると指は必ず唇を撫でていく。背筋にぞくっとした快感が走って、思わず身体が跳ねる。毎回これ。睨みつけたバーツは、私の反応なんてわかってると言わんばかりのフェロモン全開のオスの顔だった。
「自分で、食べる…って…」
もう一回言ってみる。気持ちは…多分、二割はあると思う。
「もう少し待て。桃が残ってる」
まるで私がベッドに戻りたがってるような言い方はずるい。太ももを撫でてた左手は、今はもう内ももに移動してた。桃は、あと二切れある。バーツのバカ。
「自分で……」
「あぁ、そうだな」
もう一切れ、桃が口に入る。今度は口の中まで触っていった。背中だけじゃない。腰にも頭にも下半身にも電気が走る。
「ぁ……」
もう……無理…かもしれない…。
「あと…一切れだ」
低い掠れた低音を耳元で響かせて、桃をキスで食べさせられた。彼の手はすでにその奥に入り、音を響かせてる。涙でかすんだ目で見上げたものは、綺麗に輝いてる緑の二つの宝石だった。
これだけ濃厚に一緒にいるのに、ドキドキしっぱなしなのは、私もバーツが大好きだから。嬉しくて、恥ずかしくて……でも、好きを信じてよかったって、心が温かくなるのを感じる。多分、バーツだけじゃなくて、私もこういう時間が必要なんだと思う。臆病な私の心は治ってないのかもしれない。
大好き、バーツ……。
やっと居間に戻れ、一息付けた頃、
私の椅子になりながら林檎を剝いているバーツの手を見て、ふと思う。
私も、いっぱい、好きって伝えなきゃ。
だって、それが重要なんだってバーツが、今、私に教えてくれている。
振り返って、頭をバーツの胸に着け、ぐりぐりしながら
「愛してる、バーツ」
って伝える。
いっぱいの愛をありがとう。
大好きだよ! バーツ。
…………そうだったね。私がばかだった。
私はハリケーンと一緒に寝室生活に戻るのだった。
愛と体力は比例しないの、バーツ!
そんな甘ったるい日常の後、ひさしぶりに”えちぎょにゃ”に顔を出した。店に入った瞬間、騒がしい声と、鼻をくすぐる香ばしい肉の匂いが押し寄せる。
――ああ、この感じ、懐かしい。
「おぉ、ルルちゃんやないか! 久しぶりやんけ!」
「よぉ」
「こんにちは」
ウーさんが、カウンターの奥から、大声で笑いながら出てきた。私の肩を抱いているほうとは逆の手で、バーツが軽く挨拶する。
「まぁ、理由はわかるけどな」
ウーさんは、私の横――バーツのほうをちらっと見て、ニヤリ。
「……な、なにその、意味深な言い方」
「さぁなぁ?」
睨みつけてもニヤニヤしてるだけ。訴えようとバーツを見上げてみれば、隣でデレデレ笑ってた。もぅ。イケメンが台無し、って、こういう顔のことを言うんだと思う。バーツは全くの役立たずだった。
いつものように奥へ向かおうとした、その時。
「ん?」
ウーさんの足が止まり、耳がパタつく。店内も兎族の人たちを中心にざわついてきた。
「なんだ?」
「どこからだ?」
周囲がざわつく中、勢いよく入口から、チビトカゲが飛び込んできた。
――ガタガタガタガタッ!
「うおっ!?」
「あ!?」
「ちょ、まっ……!」
周囲の慌てぶりなどお構いなしに、猛スピードで突進してくるチビトカゲ。その姿を認識した瞬間、急ブレーキをかけた。私の目の前でピタッと止まり、背中の袋をうやうやしく差しだしてきた。
「え? 私?」
受け取った手紙は、狐族の次期族長からだ。
「……いい予感がしないんだけど」
嫌な予感を抱えたまま、封を切ると、中の紙には、たった一文だけ書かれていた。
“ちょうろう たおれる めんかい きぼう”
「……え?」
一瞬、意味が理解できなかった。
だって、この世界には“病気”なんて存在しない。
風邪も熱も、虫に喰われでもしない限り、誰も倒れない。
「なん…で…? 何が、あったの……?」
声が震えて、身体から力が抜ける。
心の奥がざわついて、呼吸が浅くなる。
手紙を持っていた手も震えて、落ちそうになる。
バーツが抱き寄せて手紙を受け取り、ウーさんが、心配そうにのぞき込んできた。
敵の襲撃? 虫? ガザルが攻められた?
考えれば考えるほど、悪い想像が広がっていく。
そんな中、ウーさんが静かに言った。
「……寿命、かもしれん」
――え? 寿命?
仰ぎ見たウーさんの顔は……無表情だった。
「ルルちゃん、知らんのか。この世界はな、寿命が近づいたら一気に老け込むんや。昨日まで元気でも、次の日には立たれへんようになる」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
長老……この間まで、あんなに笑ってたのに。
「会うなら、早いほうがええで」
反射的に、城へ走り出していた。急かす気持ちが抑えきれない。数歩しか行かないうちにバーツに抱き上げられた。
「お前が走ると、急いでる気がしねぇな」
バーツの軽口に、少しだけ視野が広がるのを感じる。でも、焦っているのはバーツも一緒。だって、息を切らせながら走る姿なんて初めて見たよ。
今までの倍速で流れる景色を見ながら、震える手でバーツに抱き着いた。
猿族長老にもチビトカゲが来たらしく、私たちの分も準備して待っていた。すぐに乗り込む。まだ震えている私をバーツが抱いて離さないでいてくれる。
「大丈夫、で、しょうか…」
言葉にしたら本当になりそうで、でも、安心もしたくて、長老に縋ったけど。
「……ガザルを奪還して、安心したのだろう」
返ってきたその一言に、何も言い返せなかった。
春の風が吹いていて、虫たちの姿があちこちに見える。それでも、今回は大型のトカゲが五体もいたおかげで、虫も襲ってこず旅は早かった。地面はすでに完全舗装され、ジョーガンからガザルまで三日でたどり着く。三日目の夜、ようやくガザルの城の灯が見えた。
門をくぐると凄い勢いで走ってくる狐。
「長老の使いか?」
「はい。お早いお越し感謝いたします。本日はこの時間のため、長老はすでにお休みになっております。よって明日の朝一番で面会を設定いたします。では、一報を入れるためこちらで失礼いたします」
話しをしていた長老に頭を下げると、私の方をちらっと見て、もう一度頭を下げる。そして、そのまま狐姿で走り去っていった。
「ルルちゃん、疲れただろう。城へ行こう」
長老はそう言うと、トカゲから下りて歩き出した。バーツも私を抱き上げて続く。後ろを見ると、一緒に来た人たちが、声を掛け合いながら、荷物やトカゲを移動していた。
隣りで長老が何かを話している。
私を抱き長老に頷くバーツ。
門では皆が忙しそうに動いてる。
騒がしいはずの一刻。私の耳には何も音が聞こえなかった。唯一、私が認識していたものは、夕焼けの中、松明が灯り始め、遠ざかっていくガザルの門が燃えているように見えたことだけ、だった。
翌朝。
狐族長老の希望で――私とバーツだけの面会になった。案内された部屋に入った瞬間、胸の奥がきゅっと軋んだ。
あの誇り高く背筋の伸びた狐族長老が――今は、細くしぼんだ身体で、白い毛をベッドに沈めていた。それでも、枕にもたれて上体を起こし、私たちを迎えようとしてくれた。
「体調は……どうですか?」
問いかける声が、情けないほど震えていた。
「……ふふ。ご心配には及びません、ルル様。寿命というものは、いずれ誰の身にも訪れる定め。これもまた、自然の摂理というものでございましょう」
言葉とは裏腹に、声は弱くかすれていた。けれど、その瞳は穏やかで――静かな誇りを湛えていた。
「私は幸せ者です。女神の櫛で毛並みを整えていただいた、唯一の狐なのですから」
そう言って、にっこり笑う。その笑顔があまりにも優しくて、涙がにじんだ。
「……そこで。逝く前に、もう一度――ルル様の手で、整えていただきたいのです」
言葉は出なかった。ただ、頷いて、ガザル奪還の時に宝物のように守られていた“女神の櫛”を、両手で包み込む。櫛の黒い歯が光に反射して、細い銀糸のように輝いた。
「いきますね……」
毛並みに櫛を通すと、さらりとした感触とともに、長老の肩が少し緩んだ。その顔には安堵の笑みが浮かんでいる。
「これは……内緒の話ですが」
櫛の音の合間に、長老が小さく口を開いた。
「女神は、我ら狐族にこう仰せられた。『狐は記録の一族。過去を紡ぎ、未来へと渡す者』と。ゆえに我らは筆を執り、事の理を綴り続けてきた」
語られたのは、女神から託された“秘密の使命”だった。
「これまでも、そしてこれからも――狐の誇りに懸けて、この務め、決して違えはいたしません」
一瞬、長老の気迫が戻り、圧倒される。
「女神のお言葉もまた、未来へと紡ぐべきもの――ゆえに、それは我ら狐族の務めにございます。私は、その使命を果たすためだけに、生を永らえてまいりました。女神はこの身に託され、私はその御心を守り続けてきた。……されど、我が役目も、もはや終わりの刻を迎えようとしております。ゆえに――ルル様。次は貴女に託したい」
その声には、迷いがなかった。使命を果たした者だけが持つ、静かな満足の響き。
「櫛を納めた棚の上板を外してごらんなさい。――そこに、女神のお言葉が記されております」
そう言って、目を細めた。
「ゴボウノテンプラ……あれは、まことに美味でした。まさか再び、その味に巡り逢えるとは思いませんでした。良き最期です。――ただ、叶うことならば、逝くその時ぐらい、女神様の御傍へ参りたかったものです」
そうか、長老はもう、コハルさんがこの世界にいないことを知っていたんだ。
「内緒にしておくれよ。猿族長老が泣いてしまう」
そう冗談めかして言ったその声は、かすかに掠れていた。その呟きが私の胸に刺さって息が詰まる。
「女神の国では、“お墓”というものがあるんですよ」
私はそっと言葉を返した。
「故人の骨を納める場所。山麓に着いたら作ります。そこに、長老の毛を少し入れますね」
その瞬間、長老の顔がふわっと明るくなった。
「それは……嬉しい。ありがとう、ルル様」
疲れた様子だったので、帰ると伝え、そっと立ち上がった。女神のところに行くときは、間違えずに日本という国を目指すといい、と長老の手を握りながら伝えると、彼は安心したように、静かに目を閉じた。
それが、長老との最後の会話になった。
この世界に“葬儀”という文化はない。亡骸は土に還す。それだけ。墓も、祈りの塔も存在しない。けれど、私は約束を守るため、長老の毛皮を少し分けてもらい、壺を作ってもらって中に収めた。そして、女神が滞在していた部屋――櫛が飾られていたその場所に、長老を静かに安置した。
私は手を合わせ、バーツも、他の長老たちも静かに祈る。
「……女神の山まで行ったら、迎えに来ます」
手を合わせて、部屋の外にでた。来るときには視界に入らなかった廊下の花に目が留まる。まるで、この部屋を飾っているようだった。バーツの手を握りなおし、歩き出そうとしたとき、ちょうど兎族長老が部屋から出てきたので声をかける。
「狐族長老、ゴボウノテンプラ、本当に喜んでましたよ」
「…さよか」
その顔は、悔しそうで寂しそうで、それでいて少しだけ、喜んでいた。
どうして、奪還を決行したのか
どうして、薬と野菜が生きていることにあれほど喜んだのか
わかった気がした。
約束を胸に、私は託されたものを手に入れに行く。
それは、櫛が置かれていた机棚の底板だった。
ミスリルで作られた小さな机棚。
手のひら二つ分ほどの大きさの囲いの中に櫛が置かれている。
底板を探ると、中敷きのように隠し板があり、裏に文字が彫られていた。
富士 頂 琵琶 アリ
琵琶 カラ 華厳 ソシテ 信濃 へ
カツテ 富士 怒ル
琵琶 波 アリ
霧ケ峰 マグマ 粉 貯マル 屋久島 ナル
屋久島 マグマ 粉 貯マル 裏山 ナル
信濃 時 経ツト 大キク 長ク
手が震えた。
これは――日本人に向けた言葉だ。
胸の奥から熱がこみ上げて、鳥肌がたった。




