兎族の約束
ジューに戻った私は、砦の上に立ち、遠くの森を見つめていた。
空気は澄みきっていて、どこまでも視界が抜けている。その先――地平線に、細く、それでいて確かな緑の帯が横たわっていた。ジョーガンから見たときよりも、ずっと遠い。
「……近ぇな」
バーツは違った。腕を組んだまま、じっと森を見据えている。
「近いの?」
「ああ。昔はな、“緑の線”が、ぼんやり見える程度だったらしい」
わずかに目を細めた表情は少し険しかった。
「今は……違う。あれはもう、森だ。近すぎる」
胸の奥で、違和感がチクチクと刺してきて、知らないものに対する恐怖が生まれてくる。
「森の……雰囲気は?」
「さすがに、そこまでは……ただ、匂い、は…風も、か……これはジョーガンと同じだな」
バーツは鼻をひくつかせ、風を確かめるように息を吸う。
――落ち着かない。
何も変わっていないように見えるのに、何かだけが確実に“ずれている”。その正体を、確かめなければならない気がした。
「森を、見に行きたい」
「おい、ルル。準備なしで突っ込む気か?」
無意識に階段へ向かってた。
「あ……。でも、気になる」
どうしよう。でも、見に行かなきゃ。危険だけど、でも……。
「“気になる”で死んだ奴は、いくらでもいる」
「うん……」
――そうだ。
無策で飛び込むのは違う。せめて食料とかだけでも持って行かないと。
「俺も行きますよ」
ハッと振り向くと、ブルーさんが肩をすくめて笑っていた。
「このままだと、本当に二人で行きそうですしね」
「う……」
ブルーさんの、やっぱり、と言わんばかりの目が痛い。
「なら決まりです。ジャンも来ますよね?」
「当然だ」
短く答えたジャンさんは、迷いなく鞄から地図を取り出す。
「サム、お前は?」
「あん? 置いてく気か?」
軽口を叩きながら肩をぶつける音に、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。ありがとう、みんな。
「これはリックに渡してくれ」
ジャンさんが地図を差し出す。
「俺は、一度、別を当たる」
「出発は明後日ですよ?」
「問題ない。戻る」
それだけ言い残し、ジャンさんは振り返ることなく階段を下りていった。その背中が見えなくなってから、私はもう一度、森へ視線を向ける。静かに、ただそこにあるだけのはずの緑。なのに――どうしてか、それはひどく“こちらに近づいてきている”ように見えた。
二日後。
森の入り口に立った瞬間、空気の違いに気づいた。
「なんだ? 甘い匂いだな」
サムさんが顔をしかめ、とっさに鼻を押さえる。
「これは…? なぜ、森から匂いがするんですか?」
ブルーさんも落ち着かない様子で周囲を見渡した。いつもの冷静さが、わずかに崩れている。
――森の、匂い?
違和感が胸の奥で引っかかる。
「……土が、匂う」
リックさんは、掴み上げた土に困惑を滲ませ、私を振り返りると、視線で問いかけてきた。
――あ。
思い出した。
初めてジョーガンの森に入ったとき、感じた“神聖な匂い”。でもあれは、日本で嗅いだことがある森林の匂いじゃなかった。足元の土を摘み上げ眺める。
――これって……。
でも、考えが形になる前に、鋭い声が空気を裂いた。
「おい、あれ見ろ」
ジャンさんの指先を追う。
枝の隙間――そこに、小さな影がいた。
「チビ…トカゲ?」
その背中から、薄く広がるものが見える。
チビトカゲはこちらに顔を向けると、翼を広げ、滑るように枝から枝へと移り、音もなく森の奥へ消えていった。
「……あれ…跳んで…ましたよ?」
震えるブルーさんの声を意識の隅に感じながらも、私は、葉の隙間から見える空に釘付けになっていた。
この世界に、空を飛ぶ生き物はいない。地面を離れるのは“跳ぶ”ときだけ。でも、今のは違う。あれは――滑空……飛んでいた。
「チビトカゲ……だったよな?」
サムさんの宛先のない問いかけは、応える者がいないまま、森の樹々へと吸い込まれていった。
ジャンさんの案内で、森の中をさらに進む。
足元の落ち葉が、やけに湿っている気がした。甘い匂いは、さっきよりも濃くなっている。そして――視界の先、地面に転がる影が目に入った。
「やはり、まだあったか。これが昨日見つけたやつだ」
翼のあるトカゲの死骸。
ジャンさんは周囲を警戒しながら、一歩横へずれる。その動きで、死骸がはっきりと見えた。やっぱり、さっき見たのは翼だった。――コウモリの羽根のような黒い翼。
「……食われてねぇな」
サムさんがしゃがみ込み死体をつつく。確かに虫が寄ってきてない。
「虫って、トカゲは死骸も食べないの?」
「わからない。野生のトカゲは少ないからね。生態をあまり知らないんだ」
「解体してみるか」
バーツがナイフを抜く。
「ちょ、バーツ、やめ――」
言葉を言い終えるよりも早くナイフが腹を割いた。ぬるり、と血が溢れる。鉄の匂いが漂い始める中、淡い金色の輝きが目に入った。
「……魔石?」
自分の声が、ひどく遠くから聞こえた。
どうして?
何でトカゲから?
「そんな……。虫以外から魔石が出るなんて、聞いたことありません」
誰もが、目の前の受け入れがたい現実に凍りつくなか、ブルーさんだけは戸惑いに震える表情で、喉元にせり上がっていた戦慄を言葉に変えた。
森の奥から、風が吹いた。その風が、どこか“湿った囁き”を含んでいた気がする。私は唇を噛む。この魔石の意味を、知らなきゃいけない。
「……もう少し奥、行ってみよう」
私がそう言うと、バーツが深いため息をついて肩をすくめた。
「ああ。だが、絶対に俺の後ろを離れんな」
バーツの剣に夕陽の赤が反射して、森の奥へ差し込んでいく。
陸のトカゲが、海にいた。
そして—―今度は翼。
進化してる。
いや、変わり始めてる。
ジューの森では、あれ以上の変異は確認されなかった。そして――持ち帰った事実を報告するため、私は翌日、この地で開かれる長老会へ急遽出席することになった。
――ジューの城。
円卓の上には、地図と報告書、そして各族の長老たちの重い視線。
まず、狼族の長老の、低く鋭い声が響く。
「浅はかだ。……していいことと、悪いことがある」
その一言で、場の空気は一瞬にして氷点下まで凍りついた。私も無意識のうちに、ぴんと背筋を伸ばしてしまう。
熊族長老は沈黙を貫き、腕を組んでいた。騙されたとはいえ、ビル奪還に加担してしまった事実は重い。長老は知らないことだったようだが、トップとして「知らなかった」では通らないだろう。あの温厚な熊族が、今は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。
一方、虎族の長老は隠そうともせず苛立ちを露わにしていた。出兵の約束を最悪のタイミングで利用された形だ。「想定外」の一言で片付けるには、兎族の長老が自ら巻き込んだ代償はあまりに大きすぎる。
それに対して、猿族と狐族の長老はといえば、気まずそうに視線を泳がせていた。……彼らの動機は「女神の野菜が食べたかったから」だった。つまり、純度百パーセントの“食欲”に釣られてホイホイとついて行ってた。こんなにシリアスな場なのに、不謹慎にも吹き出しそうになってしまった。
けれど――結局のところ、行き着く先は皆同じで、全員が「私の承認済み」だと勘違いしていた。それが嘘だと知った瞬間の皆の顔つきは……驚愕、憤怒、そして……底知れぬ絶望。
さすがはこの世界の商人一族……てか、アウトだとは思うけど。だけど、狼族の長老だけは、そんな冗談めかした空気すら許さなかった。
「長老の席は軽くないぞ」
低い唸り声が混じるような声。
その瞬間、空気がまた重くなる。
「女神は“長老”という制度を作るとき、民を守ることの意味を何度も説かれた。それを忘れたのか。女神のお気持ちを、ないがしろにするつもりか!」
卓の向こうで、兎族長老――ウーさんの師匠が、耳を垂らしてうなだれた。
「……そんなつもりはあらへん。けど……言い訳はせぇへん。長老を下りる」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
私は思わず声を上げた。みんながこちらを向く。鼓動が速くなるのが自分でも分かった。
「降りても責任は消えません。それより――どうして突っ込んだんですか?」
その言葉に、虎族長老が静かに頷いた。
「それだ。我ら虎族は、戦いを恐れぬ。正当な理由があれば、どんな敵にも立ち向かう。今回のこのような手段で我らを参戦させた――その理由を、聞かせてもらおう」
兎族長老は、しばらく沈黙した。手のひらを見つめたまま、ぽつりとつぶやく。
「……ない。帰りたかった。それだけや」
場が静まり返る。
――そんなわけ、ない。
たったそれだけの理由で動くとは到底思えなかった。
何かを飲み込むようにわずかに唇を震わせたものの、結局、言葉として紡がれることはない。問いを遮るように視線を落としたまま、長老はただ、自分の掌をじっと見つめ続けていた。
その姿が、今はひどく小さく見えた。
「次の長老は――ウーや」
――何かある。
絶対に何か隠して……って、ええっ!?
「ウーさん、本気でいいって言ってるんですか!?」
思わずガタッと立ち上がって問い詰めてしまった。いや、あのウーさんが長老職なんて、死んでも嫌がるに決まってる。
「……聞いてへん」
蚊の鳴くような声で返ってきた答えは、予想の斜め上を行く最悪なものだった。
――うそでしょ!?
それ、ウーさんが大激怒して暴れる未来しか見えないんですけど……。
焦ってバーツを見上げると、彼はこれ以上ないほど苦虫を噛み潰したような顔をしていた。これ、本当にヤバい気がする。
「絶対、全力で嫌がりますよね?」
「……せやな。けど、ウーしかおらんのや」
私は深いため息をついて、盛大に首を傾げた。
「うーん。とにかく、まずは本人とちゃんと話し合ってください。ウーさんが嫌がることを無理強いするのは、私だって嫌ですから」
「……わかった」
呟くような同意の言葉はなぜか、ほんの少しだけ、安堵が混じっているように聞こえた。
そして、議題はいよいよ本番――『ジューの森』の調査報告へと移る。私はテーブルに一枚の簡易地図を広げ、指先で示しながら説明を始めた。
「まず、このあたりまで森の南下が進んでいます。全体的に、どの樹々にも小型化が見られました。さらに……トカゲたちの生態にも変化が起きています」
その言葉に、場にいた長老たちの間に動揺が広がり、狼族長老が喉の奥で低く唸り声を上げる。
「また……トカゲ、だと?」
「はい。背中に羽――いえ、翼を持ち、樹から樹へ翼を使って飛んで行くのを見ました」
その報告に、場は騒然となる。「どういう構造だ?」「翼だと?」「樹の間を飛ぶとは、一体どうやって……」と矢継ぎ早に質問が飛んできたが、私はそれを首を振って制し、より優先度の高い、衝撃的な事実を突きつけた。
「驚くのはまだ早いです。それだけじゃありません。仕留めたトカゲを解体したところ、その体内から『魔石』が摘出されたんです」
「なっ、何だと!?」
「虫以外からも魔石が……。そんな馬鹿なことが……っ!」
会議室の温度が、一気に数度上がったかのような熱を帯びる。私は小さく深呼吸をして、言葉を継いだ。
「これは偶然ではありません。何かが、森の奥で変わっている気がします」
隣で腕を組んでいたバーツが、地を這うような低い声でぼそりと呟いた。
「森の変化は止まらねぇ。気になる、で死んだ奴を、俺は何人も見てきた。今は、“調べる”んじゃねぇ、“備える”んだ」
その重い一言に、場は水を打ったように静まり返る。長い沈黙の末、狼族の長老が深く、重々しく頷いた。
「……至言だな。今は探るより備えだ」
私は深く息を吸ってうなずいた。
――この森の変化は、もう誰にも止められない。
でも、それをどう受け止めるかは、私たち次第だ。
張り詰めていた会議が、ようやく休憩に入った。重苦しい空気がふっと緩み、誰もが安堵の吐息を漏らす。そんな中、兎族の長老が席を立ち、一度部屋の外へと消えた。しばらくして彼が運んできた皿からは、食欲をそそる香ばしい匂いがふわりと漂ってくる。
「一品、持ってきた。詫びのつもりや」
お皿の上には、薄く切られた茶色い根菜が、カラッと揚がって黄金色の光を放っていた。その油の照りに、真っ先に目を輝かせたのは狐族の長老だ。
「おおっ!? これは……これはまさか――!」
狐族長老は椅子から身を乗り出し、誇らしげに胸を張り、その立派な尻尾をぼふんと膨らませた。
「女神の好物、“ゴボウノテンプラ”ではないですか!!」
聞き慣れない名前に、周囲が「なんだそれは?」とざわめき立つ。狼族も熊族も、その存在すら知らないようだった。狐族長老はどこか遠くを見るような、懐かしげな表情で語り始める。
「昔、まだ若かった頃……女神に毛を梳いていただいていたとき、こう仰った。“ああ、ゴボウノテンプラが恋しい”と。」
その胸を張る姿、なんか誇らしげで、可愛いというか……ちょっと笑いそうになった。狐族長老は震える手で揚げたてのゴボウを一つ、つまみ上げた。
「ああ、懐かしい……なんという、懐かしい味だ……」
そう呟きながら、彼は大粒の涙をぽろぽろとこぼして食べ始めた。その表情は、心の底から過去を慈しんでいるようで。つられるようにして、他の長老たちも次々と手を伸ばし始める。
「どれ、そこまで言うなら……」
「おお……これは!」
「香ばしぃ! このぉ歯ごたぇ、たまらんのぉ!」
一瞬にして場が和んでいく。ついさっきまでの重苦しさはどこへやら、会議室はまるで宴会場のような明るさに包まれた。そんな中、狐族の長老が静かに立ち上がり、胸に手を当てて宣言した。
「……ああ、まさか、生きているうちにこの味を再び口にできようとは。兎族長老よ――今回の一件、我らも多くを学ばせていただいた。この“ゴボウノテンプラ”の香ばしさとともに、水に流すといたしましょう」
「へッ。ほな、そういうことにしとこか。ありがとさん」
兎族の長老は照れ隠しに鼻を鳴らした。けれど、さっきまで小さく丸まっていたその背中は、少しだけ誇らしげに伸びていた。
長老会が終わると、私は兎族の長老に呼び出された。案内された別室には、ぽつんとテーブルと椅子が一脚だけ。――なんか、すでに不穏。自分の目がみるみる据わっていくのが自覚できる。
「まぁ座りぃ」
促されるまま唯一の椅子に腰を下ろすと、長老は改めて今回の騒動について謝罪を口にした。
「……怪我人が思ったより軽症で済んで、本当に良かったです」
「そやな」
うんうん、と頷きながら、長老はおもむろに姿を変えた。もふもふとした、愛くるしい白兎の姿に。
「実はな、ルルちゃん。女神様に抱っこされたのは、先代の長老や。わいも――」
――え?
思考が追いつくより早く、隣の空気が一瞬で絶対零度まで達した。バーツから放たれる殺気が尋常じゃない。視界の端では、ルル剣が獲物を狙う獣のようにチリッと赤く明滅している。だが、長老はそんな一触即発の空気などどこ吹く風で、丸い尻尾をご機嫌に振りながら言葉を続けた。
「ルルちゃんに抱っこしてほし――」
ドゴッ!
言葉を言い切る前に、バーツの重い蹴りが炸裂した。小さな白い塊が放物線を描いて宙を舞い、壁に激突して転がる。
――うわぁ。
今の絶対痛い……。けど、バーツの目がキマリすぎてて、とてもじゃないが口出しなんてできない。
「嘘を吐くな。その話は有名だ。抱っこをせがんで膝に乗るたび、ツガイに蹴り飛ばされて終わったとな」
「それが嘘や!女神は兎が好きなんや!!」
――うーん。
もうどっちでもいいから落ち着いてほしい。少なくとも、私は抱っこなんてしない。断固しない。
二人の応酬は、もはや様式美を感じさせる漫才のようだった。ギャーギャーと不毛な言い合いが続き、体感で一時間は経った気がする。静寂が訪れたのは、唐突だった。
「……ワイらの耳のうて、女神……危ないんちゃうか」
その一言で、場の空気が一変した。背筋に冷たいものが走る。
「お山は……そんなに危険なんですか?」
声が震えないよう、なるべく明るく、努めて平静を装いながら問いかけてみる。止まりそうになった呼吸を悟られないように吐き出したけれど、長老は力なく首を横に振った。
「いや、女神の国や。ルルちゃんもおったんやろ?」
「……それは、その……」
おろおろと視線を泳がせる私に、長老が言葉を重ねる。
「お山におらんことくらい、知っとるで」
驚いて顔を上げると、人の姿に戻った長老が、穏やかに、けれどどこか寂しげに目を細めていた。
「女神からな、兎族長老だけに“内緒のお願い”あったんや。兎族の畑でしか採れん野菜、絶やすなっちゅう話や。女神は野菜なかったら生きられへん。せやから守ってほしいって言われてな。でも、取りにきいひんねん。つまり、女神は家に帰っとるんやろな」
その笑みには、深い懐かしさと、拭いきれない後悔が混じり合っていた。
「まぁ来ても献上する野菜はあらへんがな」
と、彼は自嘲気味に肩をすくめて笑う。
「虫に国、盗られてもうて、女神に合わせる顔がないわ。今日来るか、明日来るか、思うてるうちに何年も経ってしもうた」
長老は深く吐息を漏らすと、少し疲れたような顔で軽口を叩いた。
「これ、みんなに内緒やで。特に虎族が知ったら発狂するやろな。狼族もや。女神に毛並み認めてもらおう思て、せっせとブラシで磨いとるからな。売上への貢献、ありがとさんやで」
大切な女神との約束。それを果たせなかった悔恨を抱えながら、それでももう一度会いたいと願い、毎日待ち続ける。――百年以上もの、果てしない歳月を。
その時間の重みを思うと、胸の奥が静かに、しめつけられるように軋んだ。




