地図と蜂蜜の謎
何かを見落としてる気がする。
海を見てから、その不安がずっと胸の奥で渦巻いている。
なかったものが生まれている。
それは、川があるんだから、百年も経てばおかしくはない。
――でも、それだけじゃない。
じゃあ私は、この海の「何」に違和感を感じているんだろう。
答えが出ないまま、焦りだけが残り続けていた。
ジョーガンに戻ったのは、海を出てから二日後の夕方だった。その日はさすがに疲れ切っていて、家に帰るのもバーツに運ばれたくらいだ。
「生き返る……」
湯船に沈みながら、小さく息がこぼれる。お風呂って、本当に大事。強張っていた身体が、じんわりほどけていく。それにつられるみたいに、頭の中の焦りもゆっくりと薄れていった。
地図をもう一度見よう。出てこない答えを、今無理に引きずり出す必要はない。大きく息を吐くと、肩の力がすっと抜けた。
風呂から上がると、バーツにひょいと抱き上げられる。濡れた髪のまま待っていたらしい。前髪の隙間から見える目が、とろりと緩んでいた。いつもと違うその髪型に、胸がドキドキしてくる。
――かっこいい。
目を逸らせないまま、気づけばベッドの上だった。
翌日の午後。
目を覚ますと、すぐ目の前にバーツの温もりがあった。その胸に顔を埋めたまま、小さく息を吸う。
――今日こそ、晴らす。
胸の奥に溜まった靄を振り払うみたいに、ゆっくりと深呼吸をひとつ。渋るバーツを急かして、まだ少し痛む身体をごまかしながら、城へ向かった。
「どうした? 落ち着かねぇな。心配なことがあるのか?」
「わからない。けど……見落としてる気がするのに、それが何かわからなくて……」
地図を広げる。
何度も、何度も、砂地の部分を指でなぞった。
「ふーん。俺にはわからんが……そこにあるなら、もう見つけてるんじゃねぇのか?」
「……え」
その一言で、思考が止まる。
――そうか。
私が見ていたのは、この地図に「あるもの」ばかりだった。
でも、違う。
今回探すべきなのは――「何がないか」だ。ないものを探すなら、今の地図だけじゃ足りない。昔はどうだったのか。そこを知らなきゃいけない。
「バーツ、ありがと」
顔を上げて、そのまま抱きつく。頬をすり寄せると、バーツの尻尾がばさばさと揺れた。
「俺も愛してる……」
――だめ。
ここは城だし、これ以上は色々と危ない。
とりあえず、私を攫おうとしてるバーツを押しのけて、腕の中から脱出するともう一度地図を見た。
――行こう。
ガザルの城へ。
背後で不満そうな気配がするけど……知らない。
付き合ってたら、こっちの体がもたないし。
ガザルの城――長老会
その日の長老たちは、珍しく世間話を一切しなかった。石造りの部屋には静けさが満ち、中央の大きなテーブルに、二枚の地図が広げられている。私たちはそれを囲み、黙って見比べていた。窓から柔らかな光と風が入っているはずなのに――それを感じる余裕すらない。
古い地図の上で、線と色が語り出す。
北東の山から南西の端へ。まるで定規で引いたような一本の境界線。上は森、下は草原。不自然なほど、綺麗に分かれている。
それでも、その異様さは置いておいて、まずは”違い”を探す。
「あった」
見つけた。
今の地図と違う場所。
――ジョーガン。
この一帯だけ、森が不自然に南へ膨らんでいる。
「ここ……なんで、地形が変わったかわかりますか?」
問いかけると、猿族長老は地図を押さえたまま目を伏せた。
「直接の理由かはわからん。ただ……ここは昔、“血の大地”と呼ばれていた」
空気が、わずかに沈む。
「最初にメルたちが戦った場所だ」
「そうだったな。昔はもっと北で戦っていた。虫も少なかったからな」
一番初めに虫に国を奪われ、ジョーガンに逃れてきた狼族。その長老の指が、ジョーガン真上、古い地図の、森と草原の境目に置かれる。
「ふむ……」
「あー、せやせや、俺らが来た頃には、更にもうちょい砦寄りやったな」
狼族の指のすぐ下に、虎族長老の太い指が重なる。さらにその南へ、兎族長老の指が滑り――今と昔の戦場のちょうど中ほどを示していた。
「わしの時は~このへんかのぉ」
「わたくしどもがジョーガンへ参りました際は、戦場はすでに今と寸分違わぬ地でござりました」
さらに南に熊族長老の丸みを帯びた指が並び、そして最後に、狐族長老のほっそりとした指が止まる――今と、同じ場所で。地図の上に並んだ指先が、まるで戦場の移動を刻む目盛りのようだった。
胸の奥がゾワッとした。
木々が草原を押しのけて、少しずつ南へ広がっていく――まるで“血を求めてる”みたいに。
「今は……森がさらに下がってきてますか?」
「いや、そこまでは感じん。ただ……草原に低木が混じるようにはなっている」
――なんで?
森が勝手に広がるわけがない。理由があるはず。他になくて、戦場だけに存在するものは――死体。死体は二つある。人と虫。
――どっち?
前、バーツが、無くなった人は戦いに余裕があったら回収してると言ってた。虫の死骸は私が調べるまでは部位で回収――鍵は虫の死骸。
この仮説には違和感はない。けど――本当にそれだけで森が動くの?
答えを見つけたはずなのに、まだ心の靄が晴れない。虫が森の成長を助けてる理由を知らないとダメなのかもしれない。そのとき――耳元でバーツの声がした。
「ルル」
頭を上げると、長老たちが心配そうに私を見ている。
――落ち着け。
焦っても、心配をかけるだけだ。
一回、深呼吸を挟み、思考を落ち着けてから口を開く。
「なぜ森は……」
突然、扉が乱暴に開いた。失礼しますと言って入ってきたのは、ガザルの森を確認しに行ったミゲルだった。テーブルの上にある地図に近づくと、指を滑らせながら報告を始める。
「……地図より、このあたりまで森が下がっています」
指が示したのは現在の地図より、さらに南。
「ただ、ジョーガンみたいに部分的に膨らんだ下がり方じゃなく、線そのものが、南へ移動しています」
――線ごと?
頭のてっぺんからつま先まで悪寒が走り抜けた。
そんな変化、聞いたことがない。海といい、森といい、知らないところで静かに確実に、世界そのものが形を変えている。
――怖い。
気づけばバーツの服を掴んでいた。指先に力が入りすぎて少し痛い。
「どうした?」
引き寄せられる腕の温もりに、ほんの少しだけ呼吸が戻る。
「……わたしは、何をしていたのだ。土地の異変にも気づけなかった……」
声がした方に視線を向けると、猿族長老が深く頭を下げたまま肩が震わしている。押し殺した嗚咽が静かな部屋に滲んだ。
「女神に託された使命を……わたしは…」
――違う。
胸の奥で、強く何かが引っかかった。他の長老たちを見渡すと、他の長老たちも同じように俯いている。責任に押し潰されそうな顔で。
「ちが……います」
震える息を飲み込んで、口を開いた。
「今、希望、に向かって歩、いていま、す。大丈、夫です」
うまく言えない。けど、伝えなきゃいけない。一度だけ、深く息を吸う。声が震えてる。カタカタと身体も震えてる。でも言わないと。
「長老」
狼族長老も使命を受けていた。猿族もそう。なら他の長老もそうかもしれない。でも、きっと、こんな顔して欲しくて託した願いじゃなかったはず。
「女神、の希望は、きっと、『皆の、幸せ』、です」
もう一回深呼吸。できる、やれる。
「笑顔はジョーガンに、溢れ始めています。皆さんが、守ってきたもの、託されたものは、果たせていると思います」
猿族長老がゆっくりと涙を拭い、顔を上げる。
「……これからは、毎年、冬の虫が眠る時期に、地図を更新する」
静かで、それでいて揺るがない声だった。他の長老たちの表情にも、わずかに誇りが戻っている。大丈夫。私は笑顔で小さく頷いた。
――なら私も。
世界の変化に挑んで見せる。
長老会を出た瞬間、どっと疲れが押し寄せた。今日の長老会はそれだけ重かった。
「ふぅ……」
「大丈夫か?」
バーツが心配そうに私の腰を引き寄せてきた。疲れたよ、バーツ。甘えるようにぐりぐりと胸に顔をつけていると後ろから声がかかった。
「ルルちゃん。お疲れだのぉ」
振り返ると、熊族長老が小さな瓶を差し出している。
「これは~ぅまぃぞぉ」
中には、とろりとした蜂蜜が入っているのが見える。それより――。
「かわいい!」
思わず声が弾む。
手のひらに収まる丸い瓶は、透き通っていて、光を受けてきらきらと輝いていた。
「このぐらぃ、でっかぃ”光る”石を拾ったらのぉ。こうやって掘って瓶にするんじゃ」
長老は楽しそうに手振りで教えてくれる。
――え。
絶対大変なやつだよね、それ。しかも“光る石”って。たぶん普通に貴重品。慌てて何度もお礼を言っていると――すっと、手から瓶が消えた。
「……あ」
気づいたときには身体も持ち上げられていた。そのまま、ものすごい勢いで走り出す。
「バ、バー、バーツ?」
必死に捕まって顔を覗き込むと、なんか発狂寸前みたいに歪んでた。
――やばい。忘れてた。
この世界は、“誰からもらったか”が、なにより重くて、それ以外ないぐらいに重要だ。
――これは最悪かも。
バーツは怒ってるのか、すねてるのか、よく分かんないけど、真っ赤な顔に吊り上がった目。緑の瞳がじっとりと光っていた。さらに、ぶつぶつと何かを言い始めてる。
――まずいまずい。
もう家に着く。
急いで作戦と覚悟を決める。
なんなら、覚悟の途中で家に着いたけど、作戦を決行。
「靴! 脱ぎたい! 手、洗いたい!」
反射で叫ぶ。
バーツは一瞬だけ不満そうに眉を寄せたけど、それでも止まった。どんな時でも、この主張をしててよかった。
急いで手を洗い、指で蜂蜜をすくう。そのまま、バーツの口へ。
「……ん」
一瞬の隙。
そのまま唇を重ねる。甘い。濃くて強い蜂蜜の味。でも、それだけじゃ足りない。頬に、額に、唇に――何度もキスを落とす。
もう一度蜂蜜をすくって、今度は一緒に。
分け合うように、ゆっくりと。何度も。
――給餌、給餌。
愛情たっぷりと表現しないと!
顔を離して、にこっと笑う。
「バーツと食べると、すごく美味しいね」
ぴたりと空気が変わった。さっきまでの棘が嘘みたいに消えていく。セーフ……。
ホッとしたのもつかの間、穏やかな表情に戻ったバーツに、押し倒された私は――――結局、ボロボロになるまで夜を堪能させられた。やっぱりこうなる……よね。
手加減なし…で迎えた、次の日の“昼”。
蜂蜜で、疲れた身体を癒そうと思った私は、衝撃を受けた。
この間つけてもらった窓から日の光が入ってる。それが当たって瓶の中が金色に揺れていた。でもそれ、ただの「蜂蜜のきらめき」じゃなかった。もっと……魔石っぽい金の光。
気になってべーべさんに聞きに行った。……バーツの抱っこで。
「ベーベ。ルルがこの瓶は魔石か知りてぇってさ」
私の顔を自分の胸に押し付けながらベーベさんに質問してる。
――うーん。
恥ずかしいんだけど。
「んーそれ? 宝石だよ。中身も、おいしい蜂蜜」
答えてくれたのは、ちょうど奥から出てきたダンさん。ちょうど蜂蜜をベーベさんに届けに来たところだった。
「蜂蜜、見たい?」
「はい。見たいです」
「…ぅ゛ぅ゛」
頭上から、低い唸りのような声が聞こえるけど、ダンさんはそんなバーツの様子も気に留めず歩き出す。後をついて行ってもらうために、バーツの腕をポンポンと叩いた。もぉ。
「蜂蜜はね、川沿いにあるんだ。こっちだよ」
そう言って連れてきてくれたのは、砦内の川。そこには、川沿い一面、川が続く限り、ずらっと蜂箱が並んでた。蜂箱って、もっとこじんまりしてると思ってたけど違う。箱は人の腰くらいあって、周りを十センチはありそうな巨大な蜂が飛んでる。ぶんぶんって音が空気を震わせて、羽の風で髪が揺れた。
――え?
この蜂って、巨大虫の仲間じゃ…?
そのうちの一匹が、川に飛び込んだ。と、すぐに浮かび上がって――足にキラキラした金の粉をいっぱいつけてる。思わず息を止めた。足に丸い金色の靴を履いてるみたい。少し剥がれ落ちた粉が、水面に落ち煌めいて、沈んでいく。
「蜂たちは、あの金色の粉を川から拾っては蜜箱貯めるんだ。いっぱいになったら、新しい箱に移るんだよ。だから、空き箱をたくさん並べてる。たくさん並べておかないと知らないところに巣を作るからね」
――そうか。
共存してるから巨大虫の仲間って認識が、皆にないんだ。
ダンさんが箱を傾けて入り具合を確かめてる。たくさん入っているものは、横に避けて、新しいものを川沿いに並べる。
「こうやってね。箱を並べておいても、蜂たちは勝手に、砦壁を越えて移動することもあるんだよ」
困ったと言わんばかりの顔で蜂たちを見つめてる。
「なんで砦壁を超えるんですか?」
「んー。気分じゃないかな? 蜂たちの好み?」
――う、うん。
「ただね、森には箱がないでしょ。だから森の木に自力で巣を作るんだよ。でもさ、そこは他の虫が寄ってくるから、回収しないで放置してる巣も多いんだ」
ショボーンという言葉を体現したような様子のダンさん。面白い人。
「蜂は、冬眠しねぇのか?」
「蜂は虫じゃないからね、一年中動いてるよ」
あはははって笑って言ってるけど、どう見ても虫だって。
――なるほど。
つまり、蜂たちは金色の粉を集めて、“濃縮”させて蜜にしてる。だから、瓶の中で金色に光るんだ。
「そうだ。なんで森に巣を作るかわからないけど、若いメスが生まれると、若いオスたちを連れて新しい縄張りに行くよ」
「縄張り? それは箱じゃなくて、ですか?」
「うん、箱、ほら、マークがついてるでしょ。このマークがメスを表してて、同じマークの箱は全部同じメスの縄張りだよ」
確かに模様が彫ってある。近くにある蜜箱たちはよく見ると、なんか、どんぐりみたいな模様が彫られてた。
「それでね、新しいメスが何匹か旅立つと、古いメスは寿命が尽きるんだよ。そうすると、オスたちも全員死んじゃうんだ」
「へー。凄い。ん? なんで寿命が尽きたってわかるんですか?」
――川辺に死骸が落ちてるってこと?
凄い、光景になりそう。と想像してたけど……。
「うん、それはね、跳んでる蜂たちが縄張りに一匹もいなくなるし、蜂たちは砦壁を越えて行って、森と草原の“境”に並んで死ぬからね。見に行くといるよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がざわっとした。
その光景、知ってる。
ガザルの蟻たちもそうだった。
森と草原のちょうど境界線上で、静かに列を作って、息を引き取ってた。
――どういうこと?
偶然じゃない。きっと何か、意味がある。
いろんな情報が、少しずつ、一つの点に集まりはじめ、私の中で、見えない“線”が形を取りつつあった。
気づかないうちに、私は息を止めていた。




