海
目の前に広がっていたのは、視界一面の青だった。
光を受けて、所々が金色や銀色に揺れている。その真ん中を、まっすぐ一本の線が走っていた。
――水平線だ。
頭が、遅れてそれを理解する。視界だけじゃない。鼻の奥を抜けていく磯の匂い。耳に届くのは絶え間ない波音、泡がはじける音、崖にぶつかる低い衝撃音。身体ごと、その世界に飲み込まれていくようだった。
「海……」
「……う、み?」
不思議そうなバーツの声で、ようやく現実に引き戻された。
気づけば、私は崖から二メートルほど手前で、立ち止まっていた。風が強いのか、バーツが少し力を込めて腰を抱き寄せている。顔を上げると、すぐ近くに緑のたれ目。少し伸びた髭。すっと通った鼻筋。全体的に男臭い顔立ちなのに、その目だけが、どこまでも柔らかい。
潮の匂いが、昔、住んでいたあの場所へ私を連れて行く。
視界は、目の前の人を映して、今ここに繋ぎ止めてくる。
胸の奥に郷愁がわき上がり、過去に引かれる感覚と、この腕の温もりが、うまく噛み合わない。どっちが本当の現実なのか、一瞬、わからなくなる。
――わ、たし。
うまく動かない腕を伸ばして、目の前の顔にそっと触れる。人差し指から伝わる体温がやけに鮮明だった。それでようやく思い出す。
――そうか。異世界にいる。
ショックはない。高揚もない。ただ「そうだった」と、夢から覚めたときのような現実を思い出しただけ。でも、バーツには何かが映ったのかもしれない。一瞬で表情が変わると、私の手を握ってそのまま片手で抱き上げた。
「どうした?」
額が触れそうな距離で、低く問いかける。
「うん、大丈夫」
そのまま額をくっつける。温もりが、私の輪郭を、現実の形に固定してくれる。
どれくらい、そうしていただろう。ばらばらだった感覚が、ゆっくりと体の中で揃っていく。瞑った目の奥で、視界がすっと開けるのを感じた。
首を回し、もう一度、水平線を見る。
透き通る青い水と、光の加減なんかじゃない、本物の金色の水が混ざり合った――見渡す限りのマーブル模様の世界だった。風が吹くたび、きらきらと水面が揺れて、まるで生きてるみたいに見える。
「ねぇ、バーツ。崖の下を見たい」
抱きついていた肩をポンポンと叩いて伝えると、「ん?」と短く答えて、バーツは歩き出した。
仲間たちも自然に動く。すっと、私たちの前に入り崖下を確認するジャンさん。私の隣にはウーさん。他のみんなも、それぞれの位置に収まっている。
いつもの光景。
これが――私のいつも。
ゆっくりと”今”が満ちてくる。懐かしさとも違う。でも確かに温かいもの。
「地図では、この辺で、水が大きく落ちていたはずなのに」
ぶつぶつ言いながら歩き回るミゲルさんは、手元のメモに何かを書き込んでいる。
――そうだ。
感傷に捕らわれてる場合じゃない。
バーツに捕まりながら、崖下を覗き込む。
岩肌と水。
砂浜はずっと下。
下まで少なくとも百メートルはある。右手から川が流れ込んでいた。もしかしたら、昔は滝があったのかもしれない。
「あそこから、下に降りられるかな?」
「音が違うで」
腕を組んだウーさんが川の方を見る。
「行ってみるか」
バーツの一言で、全員がそちらへ向かった。
バーツは私を抱き上げたまま、川沿いをスイスイと歩いていく。三人は並べそうな幅はあるが、砂と岩が混ざっていて足場は不安定だ。それでも迷いなく進む足取りを、身体越しに感じながら崖下に到着した。
降りると、思ったより広い砂浜が広がっていた。塩の石が、ところどころに落ちている。風はあたたかい。
私はしゃがみ込み、水へそっと手を伸ばした。砂場で塩が採れるなら、この水も――。
指先ですくい、口に運ぼうとした瞬間。
がし、と手首を掴まれた。
「やめろ」
低くて荒い声。いつものたれ目なのに、その奥が鋭く光っている。
「でも、確かめないと」
「だめだ」
首を振っても、手は離れない。
湖と海では、役割が大きく違う。そのことだけは、絶対に確かめなければならなかった。どう説明しようか迷っていると、横から、ぬるりと手が伸びてきた。
「……えっ」
真横にしゃがんでいたジャンさんだった。迷いなく、手を水に突っ込み、そのまま舐める。
「しょっぱいな。匂いはおかしいが、味は塩水だ」
水を切った後も手がべたつくのが気になるのか、首をひねりながら、淡々とした口調で伝えてくる。私は思わず声を上げた。
「ちょ、ちょっと。ダメだよ。危険だったらどうするの?」
「こういうのは、俺の役目だ」
肩をすくめて立ち上がる。
「リックとブルーは指揮がある。ドンダとサムは戦いで前に出る。ウーは警戒だ」
周りを見渡し「どこもかしこも、この匂いだな」と、何度も手についた匂いを嗅いでいた。手を洗うため川に向かうジャンさんの背中を見て、胸がちくっと痛んだ。
まるで、自分の価値はこれしかないというような声だった。私はその痛みの意味を、うまく言葉にできないまま、振り返ってバーツの顔を見た。
――どういうこと?
答えは……なかった。
「……こんな大きな水たまり、聞いたこともない。地図にも、載ってない」
地図を広げながら、ミゲルさんがぽつりと呟く。
「すごいですね」
「こんなに大量の水、見たことねぇよ」
ブルーさんが鼻をヒクつかせて様子を伺っているのに対し、サムさんは面白そうにしてる。けど、「くせぇな」と笑ってたから、海の匂いが苦手なんだと思う。
「飲めるのかな?」
「べとつくから、間違っても入るなよ」
しゃがんで水に顔を近づけているドンダさんに、手を洗って戻ってきたジャンさんが忠告する。目の前に広がる得体の知れない大量の水。だからこそ、誰も浮かれていなかった。
「あの影…動いてねぇか?」
その言葉に、ジャンさんとウーさんが私の前に出て槍を構える。サムさんの隣にはブルーさんが立ち、全員、臨戦態勢を整えた。
黒い影が、水の底をゆっくりと横切る。次の瞬間――ドボン、と鈍い音。水面が割れ、何かが顔を出した。
――ワニ?
ううん、トカゲっぽいワニ?
鱗が太陽に光って、青緑に輝いている。皆が警戒して槍を向けているのに、我関せずといった様子で陸に上がり、のっそりと砂の上で日向ぼっこを始めた。牙も剥かない。威嚇もしない。ただ眠そうに目を細めて、敷物みたいに広がっている。
――危険…に、みえない。
バーツの様子を伺っても、危険というより困惑、という表情だった。と、ウーさんのうんざりとした声が上がる。
「……また、バッタや」
同時に――森からバッタが出てきて、川を飛び越えたのが見えた。そのままこっちに向かってくる。サムさんの攻撃範囲に入った瞬間、一歩踏み出し、いつものように一撃。バッタは砂の上に落ち、ブルーさんにトドメを刺されて動かなくなった。
でも、大事なのはそこじゃなかった。バッタは、わざわざ軌道を変えた。あのワニトカゲを、明らかに避けてた。
「なんで……?」
皆が虫を解体する中、その様子を見つめたまま、避けたバッタの光景が頭でリピートされる。そんな私の耳に、ウーさんが驚いた声が届いた。
「待てや。なんで勝手に動いとんねん」
ハッと、ウーさんを探すと、凄いスピードで川の方に走っていく背中が見える。遅れて聞こえてきたのが、どすん、どすんと地面を揺らす音。ウーさんが川に着くのと同時に、連れてきた大トカゲが崖の影から姿を現した。
「待て! 止まれ!」
ミゲルさんも走り寄るが、止める間もなく、大トカゲはそのまま海へ向かって、音を立てながらトテトテと歩いていく。波打ち際で立ち止まるかと思いきや――そのまま、入っていった。背中の椅子も、どっぷり海水に浸かっている。
「うわ……」
「まじか」
「椅子、びしょびしょだ。帰り、どうしようか」
皆は、波打ち際をウロウロしながら、椅子の心配をしていたが、私は、その動きに呆気に取られていた。
「……泳いでる……」
その動きはさっきのワニとほとんど同じだった。尻尾を左右に振って、静かに、迷いなく進む。まるで、最初から泳ぎを知っていたかのように。
同じような鱗
虫が避ける同じ体質
同じ泳ぎ方。
「たぶん……同じ種族なんだ」
気づいた瞬間、鳥肌が立った。
川は生き物なんて“いなかった”
ここは砂場で水なんて“なかった”
何か大事な、秘密の鍵を見つけた気がした。




