狼族の秘密
「もう昼時だ、食事をしていけ」
長老がにやりと笑いながら言い、さっさと家に入っていく。
招かれて腰を下ろすと、運ばれてきたのは——やっぱり肉だった。野菜もなく、本当にお肉だけが山盛りで目の前に並べられる。すごい量……食べきれるかな。
自分のお皿の肉を一口齧る。塩で焼かれただけなのに香ばしく、頬張ればじゅわりと肉汁が広がって、思わず笑みがこぼれた。
「美味しいです」
「そうだろう。俺のメスは料理上手だ。ま、バーツの肉は、村のオスが焼いたものだがな」
はははっと、笑いながら肉を頬張ってる長老。
――え。
そんな細かいとこまで嫌なの?
返す言葉がなくて、肉に噛みついたまま止まっていると、何か勘違いしたバーツが「俺が食わせないとダメか? ん? 甘えん坊だな」と、デレた声で言って手を出してきた。
——違う!
自分で食べるからいらない。
ムッスーとしたバーツを尻目に、食事に集中することにした。
食後、お茶が運ばれ、長老が一口すする。
カチッ。
岩のテーブルにカップが戻される。その小さな音を境に、部屋の空気が変わった。さきほどまでの和やかさの奥に潜んでいた何かが、姿を見せた気がした。
「我ら狼の長老だけに伝わる話だ」
長老は、声を落として語りはじめた。
「女神は、人であった」
――あ。
人、って言った瞬間、秘密の話だとわかって、思わず長老の顔を探っていた。けど、そこにあったのは、いつもの長老の顔じゃなかった。
「我ら狼だけが、"ちきゅ"という場所から、この地へ渡ってきたと、教えていただけた」
長老の顔は強張り、言葉はたどたどしい。口調は足枷をつけたみたいに重い。でも……目だけが、不思議なほど静かに澄んでいた。何十年ものあいだ、誰にも預けられなかった秘密。……どれだけ重いんだろう。忘れることも、口にすることもできないなんて。
「女神は“えねるぎい”というものを語られた。それが溢れると、穴が開く。横に続けば“歩く穴”。縦に裂ければ“落ちる穴”」
――え!?
「待てよ、長老。穴が二種類だと? 聞いてねぇぞ。……開いてる時間は一緒か?」
「開いてる時間は……一緒だと、言われている。だが、正確にはわからん。あと……バーツ。穴の向こうがどこに繋がっているかも、わかっておらん」
睨みつけるように長老を見るバーツ。長老は、そんなバーツを「全くお前ってやつは」と言いたげに、小さく息をついて困ったように笑った。目元には疲れが滲んでいるのに、その視線はどこまでも優しかった。
「ただ、女神自身は歩く道から来たのだと言われ、その穴のそばで、えねるぎいが荒ぶると、母様の声が聞こえるのだと仰っていた」
女神に会っていないはずなのに、語る口調には懐かしさすら漂っている——前の長老から、何度も何度も聞いたんだ。
と、重い話を聞いているはずなのに、隣のバーツは話を聞かずに「また開く……メルを殺る…か?」とか物騒なことを呟いている。もぉ。とりあえず、バーツの膝に座って思考を塞ぐことにした。
そんな私たちを見て、ニヤリと笑った長老は、いつもの顔に戻っていた。
「ルルちゃん、今はな、女神はもうお山にいない。女神が最後に山を降りられたとき、子を宿していて『"ちきゅ"へ帰る』と告げられたんだ」
――え。
いない。
あんなに皆が会いたがってるのに、いない………?
「女神は、最後の時に『皆に別れを告げたい』と望まれた。だが、希望を失えば人は崩れる——そう判断し、許さなかったのが当時の狼の長老だ」
乾いた笑顔を見てるのが、辛い。
「だから……な。今も皆、女神はお山にいると信じている。登れぬ山に。声も届かぬ場所に」
一瞬、長老の顔が大きく歪んだのを見た。会いたいと願う仲間の希望を断ち切った。きっと、それが一番辛いんだと思う。その判断が合っているかどうかなんて私にはわからない。でも——。
「そうですか。でも、女神がいなくなることは決定だったんですよね? なら、私はいいと思います。だって、皆さん『お山に行きたい』と、あんなに元気に叫ばれてるし」
「そ……そうか。元気に……か。そうだな。確かにそうだ」
皆の熱意を思い出したのか、ふふふっと笑い出した長老。「元気か……」と何度も呟いては、泣きそうな目で笑っていた。
長老がいつもの落ち着いた顔で、私に伝えてきた。
「女神はこうも願われた。『落人が来たら助けてほしい』と。だが、幾人かは確かに落ちてきたが、声を伝える間もなく、彼らは狂い、命を落とした」
私の頭にキスを落としているバーツを見て、一つ頷く。息子を送り出す父親のような誇らしさが滲み出た顔だった。
「俺の子は、お前の心を守れたか?」
大きく息を吐き、目を閉じる。吸い込むのと同時に開かれた長老の目は――眩しそうに細められていた。まるで、失ったはずの光を見つけたみたいに。
「……俺は、女神との約束を、守れたのだろうか」
その掠れた呟きに、胸がぎゅっと締めつけられた。
「はい。バーツが私を守ってくれました。ありがとうございました」
精一杯の笑顔で答える。
「……今度は、私が守ります。バーツを、誰よりも幸せにします」
――あなたの大切な息子さんを、預かっていきます。
下げた頭の後ろで、バーツのすすり泣く声が聞こえた。
家に帰ってから、バーツの膝の上で考える。
もし、バーツがあの日、私を見つけてくれなければ——その先の想像が、恐怖で胸を締め付けてくる。本当に、バーツに会えてよかった。この思いが溢れてきて、私はバーツの胸に顔を強く押し当てた。
「わかった」
バーツは静かに私を抱き上げる。安心の力強さに、つい甘えてしまう自分がいる。
――けど、何度も騙されない!
「降ろして! しない、やらない、ベッドには行かない!」
よろめいて部屋の隅で膝を抱えはじめるバーツを見て、笑いそうになる。
――ううん。
笑ってる場合じゃない。今は考えなくっちゃ。
歩く道と、落ちる道。
長老の言葉をぐるぐる反芻する。
声が聞こえる穴と、落ちるだけの穴。
私が落ちた「穴」は、たぶん帰れない道。
「バーツ、ねぇ。私を拾ったあの日って、爆発みたいなこと、あった?」
バーツは壁に向かって、少しぼそりと答える。
「……あぁ。その日は一段と激しい戦いで、メルが二人、魔法陣を連発してたな……」
魔力のエネルギーが時空を歪める——その線は、説明として腑に落ちる。穴ができる仕組みと、私がここに来た理由がつながった気がした。
「…………帰るか…?」
背を向けたまま、聞いてくる。
「ねぇ……帰れたら——」
「俺も行く」
その言葉に、胸がぽっと温かくなる。
「うん。そう言ってくれると思ってた。ありがとう、バーツ」
笑顔で振り向き、いそいそと隣に戻ってくるバーツ。項に鼻先を埋めようとしたとき、ふと思い出したように尋ねた。
「でもね、帰れること知ってたでしょ……バーツ」
「…………」
すっと立ち上がり、 部屋の隅に行くと、背を向けて膝を抱えるポーズに戻る。
「知ってたのに黙ってたの?」
するとバーツは、パッと立ち上がって、突然、大声を張り上げた。
「お前は俺のメスだ! でも、あの時はまだ、俺はお前のオスじゃなかった。……だから黙ってた。置いてかれるなんて、冗談じゃねぇ。俺は離れねぇ! 何があってもだ!」
その必死さと不器用さに、私はつい笑ってしまう。怒りながら縋るような顔をする彼が、どうしてこんなにも愛しいのだろう。
「大好きだよバーツ。ずっと一緒にいようね。さっきそう誓ったでしょ?」
精一杯の言葉を伝えると、彼は晴れ渡るような笑顔になって、私の隣に戻ると、ぴったりくっついた。彼の胸の鼓動が伝わって、世界が少しだけやわらかくなった気がした。




