神果の儀
明日は、バーツの村で“神果の儀”が行われる。
長老から“女神の実”を受け取り、それをバーツから与えられることで、私は群れの一員として認められる——この世界のルールだ。
でも、私は凄く不安だった。
私は、この世界の基準で言えば、あまりにも弱い。それに——違う世界から来た、子を成せるかもわからない存在。神果の儀をしたからと言って、受け入れてもらえるのか。
——役に立たない、と切り捨てられたら。
そんな考えが、胸の奥に居座って離れなかった。
毛皮のベッドに横たわり、バーツの腕の中に身を預ける。暗闇の中で、彼の体温と匂いだけが、ここにいる現実を繋ぎとめていた。
——とはいえ。
止めるという選択だけは、最初からない。明日が保証されていない世界だからこそ、“今”を選びたかった。バーツと、強く結びつきたかった。——彼の唯一になりたい。
小さく息を吐く。
儀式の前に、どうしても伝えなきゃいけないこともある。
——どうしよう。
手のひらでバーツの温もりを追う。
——あれ?
「バーツ?」
いつもと違う。
硬い——というより、張り詰めている。
「……どうしたの?」
問いかけても、すぐには返事がない。胸の奥がざわつく。
「………外に出したくねぇ」
かすれた声が、耳元で落ちた。
――嫌、だから?
私と受果したくない……?
一瞬、そんな考えがよぎる。けれど、その違和感はすぐに別の形を取った。泣きそうになっているのは——私じゃない。バーツ、だった。
「なぁ、ルル……もし……」
言いかけて、言葉が途切れる。
「……俺より、強いオスが……」
その先を、彼は飲み込んだ。震えている。
——強いオス。
その言葉で、ようやく繋がる。
バーツはもともと強い。剣を手にした今なら、どのオスにも引けを取らない。けれど——狼族にとっての“誇り”は、それとは別のところにある。群れを率いるボスであること。それこそが、彼らのいう“強さ”だった。
——バーツ、一匹狼だもんね。
「ああ……」
小さく、息が漏れる。不安なのは、私だけじゃなかった。そう気づいたとき、胸の奥にあった重さが、少しだけほどけた。
ランプに灯をつけると、泣きそうな顔をしてるバーツが目の前にいた。今にも崩れそうな顔。
——だったら。
私が、がんばるしかない。
わざとらしく胸を張って、彼の顔を覗き込む。
「ワタシ、メガミ。ダレヨリ、ツヨイ」
半分は冗談。
けれど、その言葉は確かに届いた。バーツの目が、わずかに見開かれる。沈んでいた何かが、少しだけ軽くなったように見えた。その変化に背中を押されるように逃げていた言葉を、今度こそ口にする。
大事じゃないかもしれない、私にとって大事なこと。
「バーツ」
彼の頬を両手で挟み、逃げられない距離で目を覗き込む。
「私の本当の名前は、瑠々花」
喉が震える。
「嘘をついたつもりじゃないの。ただ、怖くて……言い出せなくなって。ごめんなさい」
一度まぶたを閉じて、勇気を込めて言葉を紡ぐ。
「バーツが好きなの。神果の儀をしたい。その前に、ちゃんと、私の名前を伝えたかった」
強い視線を感じても怖くて目が開けられなかった。
頬にバーツの熱を感じて、勇気を出して瞼を上げる。バーツは、いつものようにニヤって笑うと蕩けるような声で私を呼んだ。
「ルルきゃ……」
上手くいかないのか、少し眉間にしわが寄る。
「ルルくわ……」
さらにしわが濃くなる。
その顔とその舌足らずな響きがあまりに合わなくて、愛おしくて、思わず吹き出してしまう。
「……ちょっと、可愛い」
胸の奥に残っていたわだかまりがほどけて、静かな温もりへと変わっていった。
朝になった。
空は、今日も青い。
よし、行こう……と意気込んだものの、最初から一悶着。「抱き上げる」と譲らないバーツと、「歩く」と主張する私で押し問答。結局、歩きで決着がついた。ムッスーとした顔の彼の手を強引に握って、笑ってみせる。すると、バーツの口元が緩んだ。かわいい。
今日の目的地は、初めて訪れる城の裏側。
ジョーガンは、真ん中に城、その周囲をぐるりと囲むように商業区、さらに外側が住宅区でできている。バーツの家は森側の出入口に近い住宅街。戦いに駆けつけやすい場所。反対側――城の裏手には、各族の村が広がっていて、メスや子供たちが暮らしている。
「どうやって行くの? 城を突っ切る…わけないよね?」
「あぁ。商業区をぐるっと回り込んで向かう。問題はな……」
渋い顔してバーツが続ける。
「途中には農業や畜産の広いエリアがある。虫が来りゃ、城の裏に回られる前に、そこで時間を稼ぐんだが……」
そこまで言うと、言葉を濁し、そわそわし出した。「ん?」と怪しんでいたら、商業区の通りに着いた。
肉屋、肉屋、肉屋、雑貨屋、肉屋、肉屋、布屋、肉屋――。
いつもなら行かない通りの奥まで行く。けれど、ずっと同じ光景――肉屋ばっか。目も腹も脳も「も……もたれる」と感じた時。
「ギャグオォォォ……ギャグオオオオ!」
耳をつんざくような咆哮が響き渡った。心臓がドクンと飛び跳ねる。
――え!? なに?!
何が起きたのかわからないうちに、バーツが無言でさっとマントを広げ、私をすっぽり包み込む。そのまま軽々と抱き上げ、全速力で走り出した。風を切る中で、耳に入ってきた言葉は、「肉Aの飼育場」。
――ううん。
どう聞いても怪獣の声だよね、あれ。
「わ、私、見ない! 見ないから!」
自分からぎゅっとマントに潜り込み、目をぎゅっと閉じる。
私は知っている。
余計な好奇心は、生き延びる確率(食欲)を下げるだけ。命より大事なものなんてないんだから!
バーツの村にたどり着いた。
入口らしい入口はなく、家々がぽつぽつと並び、まるで群れが一つの大きな輪を描くように暮らしている。狼族の村は、門や塀に守られるよりも――「群れそのもの」で守られているのだと、すぐにわかった。
村の中央に進むと、想像していたような疎外感を感じるような空気はなかった。実際には簡単な挨拶だけで、どっちかっていうと温かい眼差しをいっぱい貰う。不思議に思って隣のバーツを見上げると、彼は無愛想に鼻を鳴らし、目を逸らした。
――もしかして……。
「ねぇ、バーツ」
小さくつぶやくと、彼の耳がほんのり赤くなっているのに気づいた。胸の奥でふっと緊張がほどけていく。私は小さく息を吐き、ほっと胸をなで下ろす。大好き、バーツ。
そのあとバーツは私を抱え、やがて一軒の家の前に立った。重厚な扉が地獄門みたいにそびえ立つ、他よりも立派な造りの家。
「ここだ」
バーツが短く告げる。
どうやら長老の家みたい。裏手には小さな広場が広がっていて、そこが本当の「神果の儀」の場になるのだと直感した。
家の中に案内され、重々しい扉をくぐると、中は思ったより質素だった。古びた毛皮が床に敷かれ、土の床に石のテーブルが一つ。けれど、不思議と落ち着く空気が漂っている。
やがて、狼族の長老が現れた。
私もバーツも頭を下げる。
「よく来たな。村も悪くないだろう。いっそ引っ越してこい」
あまりに軽い口調に、思わず笑ってしまった。「受果だな?」とだけ言い残し、長老はあっさり外へ出ていってしまった。
――えっ、それだけ!?
目を丸くしてバーツを見上げると、逆に「なんでそんなに不安そうなんだ?」とでも言いたげに、首をかしげられた。
「私たちは儀式の準備って……ないの?」
「ん? そんなのねぇよ」
なんだそれ、と言いたげなバーツ。逆に、部屋にいた長老のパートナーが、すごい勢いで紙とペンを持ってきて、私に質問攻めを始めた。
「儀式? 衣装? 女神の世界では特別な衣装がないと受けられないのですか?」
「儀式前の儀式? 女神の世界では、そちらの方が大事なんですか?」
「準備? ……あります! 儀式に必要な、あの人を呼んできます!」
一生懸命メモを取りながら、目を輝かせている。待って、違う違う! と心の中でツッコミを入れつつ、嫌な予感がしてバーツに改めて確認した。
「ほんとに衣装も、特別な手順も……ないの?」
「ない。大事なのは心だけだ」
バーツは当たり前だと言わんばかりに答える。
――だからか。
仲間たちが全員そろうのを待たずに儀式するのも、普通なんだ。
私は、もっと盛大で、身支度に数日かかるようなものを想像していた。でも、ここでは違う。形よりも心。とりつくろえない分、むしろ重いのかもしれない。
「……本当に、これでいいの?」
小声で問い直す私に、
「問題ねぇ」
とだけ返すバーツの横顔は、どこまでも真剣だった。
その眼差しに背中を押され、私は深呼吸をして、静かに頷いた。
長老が戻ってくると、手にはココナッツのような丸い実を抱えていた。光沢のある皮が朝日にきらりと反射している。
「ついて来い」と促されて、私たちは裏の小さな広場へ出た。そこには浅い池があり、縁には腰を下ろせる平たい岩が幾つか並んでいる。早朝の水面は静かで、空の青を薄く映していた。
長老はゆっくりと口を開く。声は年輪のように落ち着いていて、聞くたびに古い物語が胸に染み込んでくる。
「昔々、泉のそばに白い羽を持ったメスがいた。まだ我ら狼は獣で、森は今よりも大きく、食べ物は脆弱だった」
訥々と語られる伝承は、ただの昔話ではなく、ここに生きる者たちの大事な心を教えてくれてた。
「飢えている我らを見て、メスは、実を指さす」
ゆっくりと岩に腰かけ、実を横に置く。
「そのメスは――女神であった。女神は我らに問うた。『愛とは何か』と」
長老が私たちを見やる。空気が少しだけ張りつめた。
「答えよ」
わたしは小さく息を吸い、言った。
「バーツです」
バーツが続けて、低く私の名を口にすると、長老はうなずいた。
「女神はさらに問うた。『実は一つのみ。どうするか』」
即座に私たちは同じ答えを口にする。
「二人で分けます」
長老の顔に、うっすらと笑みが滲む。
「女神は問うた。『すぐに腹が減るであろう。どうするか』」
問いはやさしく、しかし残酷だ。守るべきは今だけではない。その先の覚悟も問われる。
「一緒に生きる。ただそれだけ」
私が震える声で言うと、バーツは私の手をぎゅっと握り、さらに付け加えた。
「どこまでも一緒に」
長老は黙って頷き、実を差し出す。
「うむ」と一言。
神話の余韻が、ひと言で現実へと戻される瞬間だった。
バーツが実を受け取り、爪で切り開くと、内側は艶やかで柔らかそうな果肉が詰まっていた。匂いは、どこか桃とココナッツを混ぜたような甘く淡い香り。バーツがそっと実を持ち、私の口元へ運ぶ。彼の手は温かく力強い。私は目を閉じ、差し出された一口を食べた。
果肉は柔らかくて、思ったよりずっと優しい味がした。驚くほど桃に似ている。唇の端にその甘さが残ると、胸の奥が熱くなる。バーツを見ると、彼の顔にも同じような光が宿っていた。
涙がこぼれた。
ここまで来た道、奪還の不安、仲間たちの顔、そして――バーツが隣にいてくれるという現実が、一気に溢れだした。
「愛してる、バーツ」
小さな声が零れる。バーツは実を置くと、ぎゅっと私を抱きしめ、唇を私の髪に落とした。




