ガザル
泣いていたリックさんは、もうどこにもいなかった。
そこにいるのは、背中で皆を支える、いつもの頼りがいのある狼だった。
「本日、これより最終の確認を行う」
低く響く声に、空気が一気に引き締まる。
「ここまで誰一人欠けることなく戦えたことを、誇りに思う。だが、まだ終わってはいない。民を迎え、復興するまでが俺たちの仕事だ。この国で、メスを迎え、子が笑う姿を見るまでは気を抜くな!」
「おぉ、ぉ、ぉ、おっ!」
声が揃った瞬間、全身に鳥肌が立った。胸を突き上げる熱と同時に、背筋が震える。奪還はもう目の前なんだ。
「さぁ行くぞ、野郎ども! 残った虫の蹂躙だぁぁ!!」
「おぉ、ぉ、ぉーーっ!!!」
叫びが砦の石壁を震わせ、空にまで届くようだった。士気は最高潮。みんなの魂がひとつになったのを、私の心臓が教えてくれた。そこからは、チームごとに八方へ散っての最終確認。
ただの確認――それでも、こちらが虫を目視していない状態というのは危険だ。兎族が先行して散らされ、耳で広範囲を探る。兵士の隊列も、探査中心に組み直された。
私たち仲間は今日は待機メンバー。戦えなくはないけれど、疲労は確実に力を鈍らせる。ここは兵士たちに任せるしかない。わかってる、でも……。
――本当に倒し終わってるの?
信じたいのに、不安が胸の奥でじくじくと疼いて離れない。時だけが過ぎる。交戦報告はひとつも入らないから、かえって恐ろしく感じてくる。気がつけば、日は高く上り、もう昼に差し掛かっていた――。
一体の蜘蛛を担いだ兵士たちが、肩で息をしながら戻ってきた。
「虫は全く見えません。ただ、蜘蛛の巣を取り除こうとしたら……こいつが出てきました」
座っていた仲間たちが一斉に立ち上がり、蜘蛛のそばに寄る。
「リック、どういうことだ」
「一体だけか?」
蜘蛛の様子を確認しながら、議論を重ねる。終わったと思った戦闘がまだ終わってない。その予測のずれが皆を慌ただしくしていた。
―――そうか。
蜘蛛の巣は屋根のほうまで広がっている。下から見上げても死角があるはず。
「リックさん、兵士を戻せる?」
私がそう言うと、リックさんはブルーさんに頷いて指示を飛ばし、すぐこちらに視線を戻してきた。
「どうした?」
「屋根の上だと、下からじゃ見えないところがあるはず。蜘蛛の巣を撤去しつつ、その一帯の蜘蛛を目覚めさせて、強制的に出てこさせたい」
そうすれば、見えない蜘蛛も全部炙り出せる。
「……そうだな」
リックさんが低く唸る。
「となると探査中心じゃなく、戦闘中心に切り替える必要がある」
ただ――あと何体残っているのか。それ次第では危険が跳ね上がる。
「提案なんだけど、休みの人を除いて総出で行くのはどうかな?」
一瞬考え込んだリックさんは、すぐに決断して兵士へ指示を飛ばした。
「巣の撤去班、蜘蛛討伐班、蜘蛛以外の警戒班に分ける。兵を全員戻せ」
私に軽く頷くと、振り向きざま仲間に告げた。
「俺が現場を統括する!」
——あ。
大きく息を吸う。
去っていこうとするリックさんの背中、落ち着いて大事な言葉を告げた。
「私も行くから」
リックさんが振り返り……ぎょっとした顔で固まる。その視線が、隣に立つバーツへとすべった。私の視線も一緒に横に……。バーツは……なんというか、まるで口いっぱいに熟れすぎたレモンを押し込まれたような顔をしていた。
——行くから。
決意を込めた目でバーツを見つめる。予測が外れた時には何が起こるかわからない。私も行きたい。
「……行くぞ」
しぶしぶ、けれど、反論はなかった。リックさんは、溜息をつきながら、指示を出すため、兵士のほうに歩いて行く。
早い昼を取ってから出陣することに決まった。
お昼明け。
全員が広場に集まった。
―――え………。
思わず息を呑む。兵士たちが、見事に十列に並んでいる。その最前列には、私の仲間たちが横一線で立っていた。
――整列なんて文化、なかったはず。
そういえば、前に「女神の国は戦う前、何をするのか」とリックさんに聞かれたことがあった。私が答えたのは「整列と指揮官からの鼓舞」。
――あのときの話を、本当に練習していたんだ。
リックさんが、私の前に立ち、声を張り上げる。
「毛を立てろ! 尻尾を膨らませ!」
熱気が一斉に押し寄せ、地面が震えるようだった。
「女神の出陣だぁ、ぁ、ぁ、ぁ!!!」
お、お、お、お、お、お、お、お、お!!!
轟く声が空に突き抜ける。
……やめて。
水を差してごめんなさい。何度も言う。口では言えないけど、心で叫ぶ。
――私は女神じゃない!
一人だけ、盛り上がりきれずに固まっていたら、隣のバーツも、むっすりと嫌そうな顔をしていた。さすがバーツ。きっとわかってくれると思ってた。
そう思った瞬間。
「俺のなのに……俺の女神なのに……」
まるで、誰かを呪いそうな声。
――バーツ……。
いつもの平常運転に、私は口を開いたまま、閉じれなかった。
兵士たちが前三組、左右二組に展開し、残りは控えとして後方へ回る。その先頭を抜けるように、私たちも砦の大通りに足を踏み入れた。
「蜘蛛の巣、撤去開始!」
号令とともに、後ろに控えていた四組が前へ飛び出す。前三組は蜘蛛の巣に張り付き、太い糸を三人一組で力任せに引きはがし、そのまま後方へ全力で運び出していく。糸は粘着が強すぎて、一人では到底扱えない。
残された一組は樽を抱え、いつでも動けるように待機。中身はミント水。蜘蛛を混乱させるための切り札だ。
……ざわり、と音がした。
次の瞬間、巣の影や家屋の隙間から、蜘蛛がぞろぞろと顔を出した。五体!
「来た!」
樽を抱えていた兵士が一斉に動き、三体へミント水をぶちまける。ビシャっと音がして、蜘蛛が足をもつれさせた。そこをすかさず槍で突き、鮮やかに仕留める。
残り二体は、最も近くにいた組がそのまま戦闘に突入。リックさんの声と同時に、槍の魔法陣が展開され、鋭い光の槍が蜘蛛の体を貫いた。短い悲鳴をあげ、動かなくなる。
「次、進むぞ!」
戦った兵士が蜘蛛を担ぎ後方へ下がると、控えていた兵士たちが前へ。交代が流れるように行われ、前線が崩れることはない。
その後も住宅街を少しずつ進み、同じ手順を繰り返す。二度目、三度目……蜘蛛が潜んでいれば確実におびき出し、倒す。
気づけば夕暮れ。空は茜色に染まり始めていた。討ち取った蜘蛛は合計十二匹。住宅街のほとんどを掃討し、砦のおよそ三分の一まで奪還が進んでいた。
――ここまで来たんだ。
胸にじわじわと熱がこみ上げてくる。
次の日は商業区。
砦よりも広い通りと、数えきれない店の並ぶ場所。蜘蛛の巣が棚や柱にびっしりと絡みついていて、最初はまるで亡霊の町に入ったみたいだった。けれど、兵士たちは昨日と同じ手順で冷静に進んでいく。
巣を剥ぎ取り、蜘蛛を誘い出し倒す。
途中で穀物庫や保存庫が見つかって、仲間の目がぱっと明るくなる瞬間もあった。ここでの暮らしを、取り戻せるんだ――そんな実感が確かに湧いてきた。
そして、さらに次の日。ついに、狐の城へと足を踏み入れる。私の心臓は、昨日までとは違う鼓動を打っていた。ここが最後。ここを取り戻せば、すべてが”始まる”。
城は渦を巻くような造りで、進めば進むほど蜘蛛の巣が濃くなっていった。兵士たちが必死に剥がし取り、槍で道を拓いていく。空気は重く、じっとりと湿っていて、喉が詰まるほど。
最奥の部屋にたどりつく。黒い扉は蜘蛛の巣が張っていて、初めは色がわからないぐらいだった。
狐族の兵士が、凄い形相で引きはがしていく。奪還自体、気合の入り具合が違ったが、明らかに様子が違う。
「なんたることだ!」
「女神よ!」
「忌々しい!」
まるで狂気一歩手前ぐらいの顔つきで、尻尾の毛を逆立てながら糸を引きはがしていく。どこからか持ってきた抜けた布で扉を綺麗に拭くと、やっと尻尾を治め、扉を開けてくれた。
扉を開けると、そこだけが異様なほど静かだった。壁も床も、飾り気はない。中央には、ひとつだけ――櫛。
女神のものと思われる、それは小さな台に丁寧に置かれていた。蜘蛛の巣に埋もれていた他の部屋と違い、この部屋だけは櫛を守るように清められているようにさえ見えた。
私は息をのむ。
静寂の中で、自分の鼓動だけがやけに大きく響いた。
部屋の扉を静かに閉じると、城の外は既にざわめきに包まれていた。
広場に出ると、仲間も兵士も、皆が自然と私を中心に輪を作る。
「俺たちの国だぁぁぁぁ!!!」
バーツが隣で、空へ向かって手を高らかに突き上げる。
その声に呼応するように、獣たちの吠え声が一斉に轟いた。地面が震えるほどの熱気。胸が震えて、足元まで痺れる。そして、誰かが叫ぶ。
「女神が導いてくださった!」
「女神に感謝を!」
次の瞬間、あちこちから祈りの声が重なっていく。
「女神!」「女神!」
広場全体が揺れるほどの声の波。私を称える響きに、心臓が飛び出しそうになる。
――私は女神じゃないのに。
でも、涙で顔を濡らしながらも声を合わせる人々を見て、言葉は飲み込んだ。
彼らにとっては、失ったものの痛みを抱えながら、それでも未来を信じられる拠り所が必要なんだ。
炎の明かりの下で、笑いと泣き声と祈りが交じり合う。夜は騒がしくも、神聖な輝きを放っていた。




