ガザル奪還
まだ日の出前。
空気は冷たく、ときおり強い風が吹き抜けていく。
いつもなら寒くて起きたくないはずが今日は違った。目が覚めた時からずっと、胸の奥が張り詰めていて寝ていられない。
それは自分だけではないのだろう。
空はまだ藍色に沈んでいるというのに、すでに全員が集まっていた。その姿から、この戦いに懸ける思いの強さがひしひしと伝わってくる。
「お前はここだ」
そう言われて案内されたのは、真っ白な椅子。背もたれが両側に大きく広がっていて、座れば羽根に抱かれるみたいな形だ。
——え?
なんで、こんな椅子?
座りたくない気持ちを押し殺して腰を下ろすと、当然のようにバーツが隣に立った。決意を顔に刻んだバーツの顔を見て、ここが戦場だって思い出す。バーツでも戦ったことがない場所。
恐怖が一瞬身体を駆け抜ける。
と、同時に肩にぬくもりを感じた。バーツの手。
「俺が守る」
——うん。
頷いて、バーツの手に頬を寄せた。
——大丈夫、できる。
ちょうどそのタイミングで、リックさんが前に出て、集まった皆を見渡した。
「……バーツが号令をかけるんじゃないの?」
小さく尋ねると、バーツはちらりとこちらを見て、あっさりと言う。
「いや、俺はもう、お前の側から離れねえ」
「……うん」
その一言が、胸の奥にじんわりと温かく広がった。
やがてリックさんの声が、広場に響き渡る。
「今日は、未来永劫語り継がれる、奪還の始まりの日となる」
その言葉と同時に、地平の向こうから朝日が顔を出し始めた。
「女神の叡智を授かり、欠けた、負けたは通じない。今こそ、我ら六種族の力を女神に示すときだ!」
一言ごとに、声に熱がこもっていく。
「え……女神……?」
思わず呟くと、バーツが当然といった顔で頷いた。
「旗印だな」
「……う、うん」
——いや……。
そうなのかもしれないけど……なんだろう、この違和感。
さらにリックさんの声は続く。
「どこかが欠けたら尻尾がもげたと思え! 一人欠けたら、一族の名折れだと心に刻め!」
「……尻尾?」
「毛皮の次に重要なのは、尻尾だろ……違うのか?」
思わず首をかしげると、バーツも同じように考え込むような顔になる。
「……うーん?」
毛皮の次に重要なのは尻尾——そういう認識なのだろうか。
——違う、よね?
頭の中で疑問がぐるぐる回る。
そうなの? そうだっけ? なんか、違うような……?
「行くぞ! 野郎ども!!」
「おぉ、ぉ、ぉ!!」
一斉に上がる雄叫び。
士気は最高潮。
——その中で、私は少しだけ置いていかれた気がしていた。
それから兵士たちは、順番に私の前へ進み出て——跪き、決意を口にしていった。
「必ず取り返して参ります」
「一族の仇、必ず討ってまいります」
「尻尾にかけてやってやります!」
「この毛皮に誓って、必ず仕留めます!」
——うん。
それぞれの想いがあるのは、よくわかる。
わかるんだけど——全員が全員、私の前で誓う必要、ある?
内心で小さくツッコミを入れていると、隣から、呪詛のような低いドロドロした声が聞こえてきた。
「俺の毛皮の方が艶ある」
「俺の尻尾の方がフサフサしてる」
……バーツ。
ちらりと横を見ると、目を細めて、明らかに対抗意識を燃やしている。なんで張り合ってるの。しかも、さっきからずっと。
——もう……。
いつも通りすぎて、逆に安心するじゃない。
あれだけ張り詰めていた自分が、なんだか馬鹿みたいに思えてきた。肩の力が抜けて、椅子の背に持たれたら、ぴょこん、とウーさんが現れてコップをくれた。
「桃ジュースやで。今日は気張らなあかんからな」
寒い中の冷たいジュース。でも、飲むと胸の奥がじんわり温かくなる味だった。戦場で出てくるなんて……。わざわざ用意してくれた気持ちが、何より心に沁みていく。——そのとき。横から、すっと手が伸びてきた。
「おい、俺が飲ませて——」
「やめてバーツ!」
慌てて引き戻す。
むすっとした顔で黙り込むバーツ。
……ほんと、通常運転。
「もぉ!」
笑ってる私がいた。
仲間たちの出陣。
どうしても、不安だった。
本当は——バーツ以外のオスに、こんなふうに触れてお願いなんてしちゃいけない。わかっているのに、それでも止められなかった。
一人ずつ、両手をぎゅっと握る。
顔を見て、確かめるように。
「深追いしないで。絶対に無事で帰ってきて。お願い……」
胸の奥からあふれた言葉が、そのままこぼれた。
「「「「必ず!」」」」
四人の声が重なって返ってくる。
力強くて、迷いがなくて。
その響きに、胸の不安がほんの少しだけ軽くなった。
——うん。
大丈夫。絶対。
本陣で見守っていると、蜘蛛の死体が兵士たちによって運ばれてきた。
「あ……もう一匹、倒せたんだ」
胸をなで下ろす。
その、次の瞬間だった。
また一匹。
さらに、もう一匹。
次々と死体が運び込まれ、場がざわめき始める。
「ちょっと待って、どういうこと……?」
戸惑っていると、ひとりの兵士が息を切らしながら駆け込んできた。
「報告! 繭から出てくる際、対象は著しく動きが鈍く——兵士の一突きで討伐可能です!」
一瞬、言葉の意味を理解するのに時間がかかった。
——一突きで?
作戦が——当たった。アルコールとミント酒の効果が、ここまで出るなんて。
周囲の兵士たちの顔に、驚きと高揚が広がっていく。ざわざわという音に歓喜の声が混じり始めたとき、リックさんの低い声が、はっきりと響く。
「慎重に。油断するな」
その一言で、浮きかけた空気が一瞬で引き締まった。
報告に来た兵士も「はい」と、真剣な表情をして走っていく。
——よかった。
でも、まだ始まったばかりだ。
蜘蛛の討伐は順調に進んでいた。繭から這い出した瞬間を狙う作戦は当たりで、蜘蛛は次々と地に伏していく。けれど——蜘蛛以外の報告が、ひとつも入ってこない。その“空白”が、胸の奥をじわじわと冷やしていく。
そのときだった。
ブルーさんが、兵士たちを率いて戻ってきた。息を荒げ、肩には巨大なカマキリを二体も担いでいる。
——ブルーさん!
大丈夫、見た目、大きな怪我はしてない。
ホッと一息ついた瞬間だった。
——え……。
狩り部隊って。たしか、全員で十名のはず……。
「……四人しか、いない」
残っている兵士たちは傷を負っているが、致命傷ではない。それでも——足りない。六人も。ブルーさんが、すぐに報告する。
「蟻に一名、拐われました。サムたちが追ってます。残りの兵士もすべてそちらに回しました」
裏の森。
討伐の最中、背後から——。
頭が、ぐらりと揺れた。
足が勝手に震える。
——怖い。
背筋が、氷みたいに冷えていく。
でも。
「……行こう。バーツ」
声はかすれていた。唇も歯も震えている。
それでも——私は最大戦力だ。
ここで動かなければ、意味がない。
——立て。私。
「あぁ、そうだな」
バーツの声は、いつもと同じだった。垂れた瞳をさらに下げて、私ごと不安を包み込むように笑う。その一言で、私の覚悟が、固まる。
――ありがとう、バーツ。
ウーさんが、ぱっと飛び出して先頭を走り出した。それに続くように、バーツが私を片手でひょいと抱き上げる。そのまま、ウーさんの背中を追って駆け出した。ブルーさんもすぐ後ろに張り付き、周囲を警戒するように目を光らせている。さらに後方では、付いてきた兵士たちが周囲を固め、獣への備えを引き受けてくれていた。風を裂く音が、耳元で途切れることなく鳴り続ける。
砦の外周を抜け——そのまま、森へと踏み込んだ。
「聞こえたで!」
ウーさんの声。
「こっちや!」
そのまま、森へ飛び込む。
視界に飛び込んできたのは——すでに交戦中の仲間たち。バーツが私を地面に下ろすのと、詠唱の完成は同時だった。
「疾く巡れ、稲妻の環よ――雷環一閃!」
雷の輪が地を走り、拐われていた兵士を抱えていた蟻たちを一瞬で包み込む。火花がはじけ、黒い甲殻が焼け焦げる音が響く。
兵士はボトリと落ちた。慌てて駆け寄った兵士が抱え起こす。
――生きてる。
ケガもほとんどない。
胸を撫で下ろす暇もなく、次の塊が視界に飛び込んできた。ドンダさんだ。
槍を豪快に振るっては蟻を弾き飛ばしているが、そのぶん隙も多い。背中に食らいついた蟻の顎が、鎧の隙間から肉を裂いていた。
「疾く巡れ、稲妻の環よ――雷環一閃!」
雷光が地を巡り、ドンダさんの周囲を一気に吹き飛ばす。
焦げた匂いが鼻を刺した。
「……助かったぁ」
血を流しながらも、ドンダさんが息を吐く。
目を走らせ、数をざっと認識する――あと十二匹。多い。
息を詰めたその瞬間、視界の端で銀が閃いた。
バーツが剣を振るい、蟻をザバザバと切り刻んでいる。動きが速すぎて、切り裂かれる蟻の方が後から悲鳴をあげているようだった。その勢いに呼応するように、サムさんたちも押し返す。槍と剣と魔法が交錯し、蟻の群れが次々に崩れていった。
――勝てる。
気がつけば、蟻の数は半分以下。そこから先は、あっという間だった。
「撤退です!」
ブルーさんの声が響く。
休む暇なんてない。続けて出てこられたら、こちらが持たない。全員が素早くまとまり、森を離脱していく。バーツがまた私を片手で抱え上げた。胸板に顔を押しつけ、風の音を聞きながら走る。
そのとき――ふと、不思議なことに気づいた。
森の木々が……小さい? 私が五人で抱えれば足りるほどの細さ。しかも木と木の間隔が、妙に狭い……気がする。ジョーガンの森はもっと広かった。空を仰げば、緑がはるか頭上で交わり茂っていたのに。
……ここは違う気がする。
なぜ?
どうして森が違うの?
疑問だけを胸に抱えたまま、私たちは森を抜け、本拠地へと戻っていった。
二日目、三日目も蜘蛛の討伐は同じ流れで進んだ。
蜘蛛以外の虫に背を取られないように立ち回る。兵士たちは合図ひとつで素早く動き、三位一体の槍の陣形が乱れることはなかった。緊張感はあったけれど、昨日のような蟻の乱入もなく、全体に落ち着いた空気が流れている。私は本陣からその様子を見守り、時折報告に走ってくる兵士の声に耳を澄ませた。蜘蛛が繭からふらふらと出てきては、一突きで仕留められたと聞く度に、安堵と同時に胸が締めつけられる。勝っているのに、心臓の鼓動は速まるばかりだ。
そして三日目の夕方。
国の中から虫の姿はほとんど消えていた。残るのは、明日もう一度、端から端までを見回る作業だけ。皆、傷を負ってはいるけど、どれも軽度。死亡者はひとりもいない。……胸の奥にじんわり安堵が広がっていく。
討伐は、間違いなく大成功だった。
テントを張った本陣に戻ると、幾つもの天幕の間に焚き火が点々と並び、兵士たちが静かに引き上げの支度をしていた。鎧を外す者、槍を拭く者、火のそばで無言のまま水を飲む者。今日は、不思議と音が少なく感じた。
私は焚き火の前に腰を下ろし、ぱちぱちと火がはぜるのを聞きながら、ようやく息を整えた。赤い光が、皆の泥だらけの靴と、傷の残る鎧を照らしている。
「予定より、ずいぶん早かったね」
リックさんが、報告書から目をあげて微笑む。
「めが…いや、ルルちゃんのおかげだよ。ミント酒、あれは本当に凄い効果だった」
「ありゃすげぇよ。蜘蛛があんなに弱るなんてな」
サムさんが、朗らかに笑う。槍を拭いていた大きな手が振り上がり、喜びを分かち合うように、私の肩へ振り下ろし………そうになったところを、バーツが蹴飛ばして、サムさんごと追い払ってた。
――うわ……痛そう。
「俺の槍も、けっこう決まってたよね!」
ドンダさんも口元が緩んでる。
「……蜂蜜、もっと持ってくれば良かったかなぁ」
幸せそうに笑った口元には、蜂蜜がベタベタについていた。
——う……ん。
「毎日、分けてくれてありがとう。すごく美味しかった」
バーツが何をするかわからないから、布を渡すこともできず、蜂蜜を食べながら見て見ぬふりをする。
「蜂蜜より、肉だろ。戦ったあとに甘ぇもんなんざ……」
私のお礼でドンダさんの目元がほんのり赤くなったのを見て、バーツが顔をしかめて、ぶすっと口を尖らせる。
――本当に……。
バーツって、可愛い。
目の前で笑う仲間と、隣で不貞腐れてるバーツ。いつもの光景が戦いの終わりの実感と相まって、じわっと心に滲み出たのは、あったかい安堵だった。
――嬉しい。
明日、皆で、生きて帰れる。
二日目の真夜中。
ジョーガンの城の一室―――討伐の第一報が届いた。
「……なに? 死者がいない……だと?」
重々しい声の狼族長老が、思わず腰を浮かせる。
「あり得ぬ……蜘蛛を相手に、損耗がないなど……」
「しかも討伐速度が早い……」
報告書に目を通し、一文を読むたびに、長老たちの顔に、驚きと安堵が交錯する。
そのとき、狐族の長老が、震える肩を押さえきれずに声を詰まらせた。
「……奪われし国が……本当に、取り戻せるのか……」
紅糸を織り込んだ袖口が涙で濡れ、周囲も静まり返る。だが次の瞬間、狐族長老は勢いよく立ち上がった。
「もう待てぬ! 我ら狐の民も行かねば!」
裾を払う。
「奪還は成る! 我が一族はただ嘆いてはおらぬ! 復興のための資材を、今すぐにでも村から持ち出し、城へと運ぶ!」
堂々たる宣言に、長老たちが口を閉ざす。泣き腫らした瞳に宿る強い光は、狐族の決意そのものだった。
こうして、奪還後を見据えた新たな動きが始まった。




