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異世界に落ちたら愛を知った  作者: 青井空


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ジョーガン

この世界は――ジョーガンという名の、星であり、国であり、土地。


かつて、いくつもの国がこの大地に存在していた。だが年々、虫は巨大化し、力をつけていった。小さな国は喰われ、強き国もまた個では抗えず――やはり喰われた。最後に残った民が力を寄せ合い、たったひとつの土地を守った。そうして築かれたのが、いま私がいるこの場所。


巨大な砦にすべてを集約し、暮らせる環境を整えた。人口は増えすぎず、減りすぎず。種族の偏りも禁物。国が徹底的に管理している。


私が落ちたのは、そんな歴史を背負った星だった。


 


バーツは、そう教えてくれた。

でも、その話を聞くまでには、もう少し時間が必要だった。


 


「……あ、あの……た、助けて……ありがとう、ございました……」


ベッドヘッドに寄りかかって、とりあえず先にお礼を言う。喉が渇いていて、声がうまく出なかった。胸の奥がまだざわついている。


本当はベッドから降りてお礼を言いたかったけど、「危険だから」とまさかの却下。男の人はゆっくりと私を起こしてベッドヘッドに寄りかからせると、お礼に「あぁ」とだけ返して急いで出ていった。


よくわからない環境で、よくわからない状況。すでに不安しかない。


男の人が出ていったドアを呆然と見つめていたら、水を持って戻ってきてくれた。かすれた声に気がついたらしい。すごく優しい人なんだと、安心感がどっと湧いてきた。


でも――。


水を飲まそうとしてくるので、さすがに居たたまれない。


「自分で飲めるので……」


そう断ったが、「危険だから」と渋られる。何が危険なのか本当によくわからない。混乱だけが募っていく。何が正解かわからずに固まっている間に、男の人は私に水を飲ませ終わっていた。


満面の笑み。そのかっこいい顔によく似合う笑顔だった。混乱しすぎて頭の中が真っ白だったけど、それだけは、強く認識した。


 


冷たい水に救われて、なぜか当たり前のように左隣に座ったその人と、一人分以上の間を開けながら、ようやく少しだけ言葉と落ち着きを取り戻す。


「……あの、水……ありがとうございます。美味しかったです。私、えっと、ルル、です。ここは……どこ、ですか?」


男の人は、そんな私をじっと見てから、自己紹介をしてくれた。


名前は、バーツ。

そして、私が「落ち人」であること。この国のことを、教えてくれた。


落ち人――異世界から落ちてきた人。

そう。ここは、異世界。


落ちたことはわかっていた。でも改めて言葉にされると、不安の海に投げ込まれたような恐怖が押し寄せてくる。


——どうしよう。どうしたらいいんだろう。


「何が」とか「何を」とかじゃなく、そのときはこればっかりを考えていた。すがるような気持ちがあったのかもしれない。無意識に、隣のバーツを見ていた。


――すごく温かい目。


その視線に強張っていた身体が少しほぐれたけど、温かさと同時に色っぽさを感じて、目のやり場に困り始めた。戸惑って視線をきょろきょろさせると――。


――え? 頭の上に……耳……?


「種族はな、いろいろいる」


ぼそりと続けるバーツ。


「昔な……女神が"知恵の実"なんてものをくれたらしい。それを食った獣どもは、人の面を持つようになった。……だが、実の数は無限じゃなかった。進化できたのは、狼、熊、虎、狐、兎……せいぜいその辺までだ。運がよかったのか、毛皮が気に入ったのか……」


バーツ自身も、そのひとりだという。狼の血を引く種族。


——なんでだろう。

自分が猿だと思ったことはなかったけど、猿が入っていないとわかって、さらに不安が増した。


「まぁ種族なんて、見た目でもそうそうわかんねぇがな」


私の顔色を見て、バーツが続ける。


そうなんだ――理由のない安堵が、ふっと胸を通り過ぎる。そして私はなぜか、わずかにカールした黒く艶やかな尻尾を見つめていた。ふさふさと揺れている。


見つめていることに気づいて、慌てて目を逸らした。今度は虫のことが気になり始める。


――待って、虫ってどれ? 

まさか最強のGじゃないよね。無理なんだけど。てか巨大虫ってどのサイズ?


虫への恐怖が、溢れ返るように押し寄せてくる。


「虫は……どんなものがいますか? 大きさは……?」


声が震える。胃がきゅっと縮む感じがした。


「ん? カマキリとかバッタとか……あとは蜘蛛、蟻。そんなところか? 大きさは種類や個体によって違うが、まぁ……これぐらいだな」


座ったバーツが、自分の目線あたりに手のひらを持ってくる。この人、明らかに大きい。立ったところをまだちゃんと見ていないけど、日本人男性より頭ひとつは違うと思う。なのに、その顎の高さで手を広げている。


――ちょっと待って。


気持ち悪さで鳥肌が立った。


「虫は、この国にも襲ってきてる?」

「ああ、そうだ」


バーツが頷く。


手が震え始めた。両手を握りしめても、震えが治まらない。呼吸が浅くなって、ハッ、ハッ、という音が自分の耳に届いた。


「……じゃあ、バーツも虫と戦うの?」

「まぁ……そうだな」


様子がおかしくなってきたのを察したのか、怪訝な表情で肯定する。


――戦うんだ。


バーツを唯一縋れる人だと認識していたらしい。いなくなるかもしれないと理解した瞬間、無意識に涙が滲んでいた。バーツが焦ってわたわたし始める。


「そんなのを毎日やってりゃ命がいくつあっても足りねぇ。交代制だ。チーム組んで、順番に出る。……次の当番は、まだまだ先だな」


布を持ってオロオロしながら、俺はそんなに戦わねぇぞ、と言ってくる。


「砦の中には……虫は入ってこない?」

「今んとこ、な。奴ら、デカくなりすぎて空も飛べねぇ。外じゃ暴れてるが、ここには来られねぇ。大丈夫だ」


そう言って手を伸ばして私の頬に触れ、安心させるように笑う。頬から伝わる手の温もりが、恐怖を少し和らげてくれた。強張っていた顔がほぐれていくのを感じる。そんな私の顔を観察するように見ていたバーツは、顔を近づけて囁くように続けた。


「……けどな。気を抜くなよ。虫が来ねぇ分、"人"のほうが厄介だ」


――え。


「メスは珍しい。数が少ねぇんだ。見つかったら攫われて囲われて出られなくなる。熊族なんか、いったん手に入れたら外に出さねぇ。狐もタチが悪い。見た目は上品でも中身はわからん」


――そんな。


「……で、一番やべぇのがメルだ。顔に騙されるが、性格が最悪だ。何されるかわかんねぇぞ。ま、俺は近づかねぇ主義だけどな」


ぞろっ、と何かが心を覆った。


知らない世界で、巨大な虫がいて命の危険もあって、生きていくためには女としての恐怖もある。今までの世界と比べてあまりに過酷な現実を、ジェットコースターのような速さで渡されて、受け取り切れなかった。誰かに庇ってほしかったんだと思う。


「これからどうしたらいいんだろう」


口が勝手に開いていた。自立とかそういうことじゃなく、"生きていける道"を探していたんだと思う。全部が知らないことで、聞かされた内容は恐怖しかなくて――このときは、生活していく自分の姿なんて想像すらできていなかった。


「ここにいればいい」


甘い笑顔で、バーツが言う。


助けてほしい。


その気持ちが、身体中から溢れるように湧き出てきた。縋りたかった。全力で、バーツに縋りたかった。けど――できなかった。


口を動かそうとした瞬間、縋る気持ちの隣に湧き出してきた感情は――迷惑、だった。そして、恐怖。


もし縋って、いつかバーツに「もう無理」と言われたら。「出ていけ」と言われたら。そのとき、私はどうすればいいの? 何も知らない世界で、一人で。


怖い。


日本にいた頃とは違う。帰る場所も、知っている場所も、何もない。それなのに最初から誰かに頼って、後で捨てられたら――もう、立ち上がれない気がした。だから、できなかった。縋ることが、できなかった。


「……私、いつまでもこちらに甘えているわけには……どこかで自分で……」


嘘じゃない、本心からの言葉だったけど、その先が続かなかった。何も知らないところで一人になるのが怖い。でも、このまま「養われるだけの存在」でいるのも怖い。


私の未来を、私の意志では決められない気がして、息苦しかった。


 


「……なら、手伝ってくれ。俺の。お願いってほどじゃねぇが、色々と手が必要でな」


黙って私を見ていたバーツが、ぽつりと、静かだけど断れない声で、救ってくれた。


「……え? いいんですか? 本当に……いいんですか?」


断れないと思いたかっただけかもしれない。内容も聞かずに、その提案にしがみついていた。


「……俺は助けが欲しかった。お前は仕事が欲しかった。利害一致だ。悪くねぇだろ?」


ニヤリと笑う。かっこよくて、優しくて、温かい。


ぎゅっと凍ったまま掴まれていたような心臓が、温もりを取り戻して、ゆっくりと動き始めた気がした。


 


……バーツに、見つけてもらえてよかった。


本当にそう思った。


 



















 


俺の先祖は狼だった。


この国じゃ、最古の種――なんて呼ばれてる。女神が最初に知恵の実を渡したのが狼だったらしい。そのおかげで今でもある程度の権力は持ってる。ま、ありがたい話だ。


「あの……バーツさん」

ルルにそう呼ばれた瞬間。


さん付けなんて、敬語なんて――ツガイなのに!

胸の奥からざらついた感情が、止まらなく溢れてきやがった。


「ここじゃ、落ち人を助けた相手だけは"さん"をつけずに呼ぶのが普通だ。……命を拾ったからな、他人扱いなんてできねぇ」


ルルが「わかった」と小さく頷く。その仕草に胸が温かくなるのを誤魔化すように、話を続けた。


虫に怯えていたが、砦の中には入れないとわかって顔が明るくなった。俺が戦場にあまり出ないと言った時のほうが、顔色がよくなってた気がしたがな。


俺に頼っていると言わんばかりのツガイの様子に、心が浮かれる。


だが、ツガイを見ながら、俺は思う。


このままだとルルは外界に出たがるんじゃねぇか?

外界に出たら、他のオスがいる。いや、それよりメルに会っちまう。そしたら――


……ダメだ! 俺のだ!


心臓がバクバク鳴り始める。


俺はルルを巣から出さねぇ。絶対に、出したくねぇ。


「メスは珍しい。数が少ねぇ。攫われて囲われて出られなくなる」


ルルの表情が強張るのを確認して、続ける。


「熊族なんか、いったん手に入れたら外に出さねぇ。狐もタチが悪い。見た目は上品でも中身はわからん」


目を逸らさずに言いきる。


これは……あれだ。忠告だ。そういうやつもいるかもしれないって話だ。


「……で、一番やべぇのがメルだ。顔に騙される。性格が最悪だ。……何されるか、わかんねぇぞ。ま、俺は近づかねぇ主義だけどな」


――会わせなきゃいい。知らなきゃ選びようがねぇ。


それに、どうやら仕事がしたいらしい。強がりか、自立心か、あるいはその両方か。

どっちでもいい。むしろ好都合だ。


……問題ねぇ。


ルルが寝たら、食料でも仕入れておくか。


朝になったら、「俺のために」働いてもらうだけの話だ。

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