初めまして
初めは、疑問すら浮かばなかった。
ただ、知らない天井を眺めていた。
感覚が、少しずつ戻ってくる。
指先が動いて、足も動く。頭が、ゆっくりと動き始めた。目線だけで、あたりを見回す。
木でできた壁と天井。一見コテージ風に見えるけど、あまりに雑な造りで、どこか違う建築物みたいだ。窓はない。それでも、木の隙間から日が漏れていて、部屋の中はそれほど暗くなかった。
ベッドの端から見える床には、磨いた革のようなマットが張ってある。日の光を受けてつやが美しく光っていた。家具はクローゼットらしき箱型のものと、ベッドサイドのテーブル。箱型の家具は、立てかけた板が扉の代わりになっているようだ。テーブルの上にはランプが一つ。不思議な形をしている――石の内側をくり抜いただけのような傘。その分厚い傘の内側から、光がじんわりと染み広がっていた。
生まれてから一度も見たことのないインテリアに、囲まれている。寝ているベッドも固くて、お日様の匂いがした。
――全部。
何一つ、すべてが違和感。
「……ここ、どこ」
声が出た。掠れた、小さな声。
自分の声を聞いた途端に現実味が増してきて、身じろぎしようとすると身体がやけに重かった。
――ここは、どこ?
異空間に迷い込んだような感覚に襲われて、起き上がろうともがいた。その瞬間――ガタガタ、バタバタと、音がしたら、勢いよくドアがずれて一人の男の人が飛び込んできた。
黒髪。乱れた癖毛をざっと撫でつけただけのオールバック。分厚くて大きな体躯は、服の上からでも筋肉の輪郭が浮き上がっている。野生の獣のような危うさと、本能的な強さ。そのなかに、鮮やかな緑の目がぽつりと浮かんでいた。たれ目気味のせいか、鋭さと優しさが同居して見える。
間違いなく、イケメンだった。
頭が真っ白になる。
――この人、誰?
しばらく、ただ見つめ合った。心臓の音がうるさい。
ドクドク、ドクドク。
「……目、覚めたか」
低く響く、背中がぞくぞくするような声。
「眩暈は? 気分は悪くないか」
物凄く心配してくれているのがわかる、顔と声。
けど、心配されていることより、フェロモンを垂れ流しな男の人が近づいてくることのほうが問題だった。一歩、また一歩。ベッドの隣で立ち止まり、私の顔をよく見ようと屈んでくる。
――待って、待って、近い!
「ちょ、待って……っ」
声が、勝手に出た。
動かない身体と、知らない男性が目の前にいるという状況。本当なら恐怖を覚えてもいいはずだ。けれどそんなものは少しもなくて、ピリピリとした肌と、ドキドキしている心臓と、ぞわぞわしている背中を、ただ持て余していた。
男の人は私の言葉を聞いた瞬間、顔を強張らせてぴたりと止まった。
私を見つめていた目を瞼で隠して、視線を落とす。でも寝ている私からは顔が見えた。
――真っ青だ。
血の気が完全に引いている。顔色が、怖いくらい白い。
よく見ると、身体がかすかに揺れていた。ガタガタと、震えているみたい。
――やばい。
本当に具合が悪いんじゃ……?
「……そうか」
低く呟いて、ふらりと私の枕元に腰を下ろす。顔の左側から熱が伝わってくるような気がするくらい、近い。
――ど、どうしよう。
なんでそこに座るの? 顔色やばくない? てかここどこ? 私、何すればいいの?
どっと溢れてきた思いの中から、口に出たのは――。
「だ、大丈夫ですか?」
気遣いだった。
男の人が、ゆっくりと顔を上げる。緑の瞳が真っすぐに私を射抜いた。
さらに近づいてくる顔。首筋まで来て、呟く。
「……俺の心配を、するのか?」
少しかすれた低音が耳に入ってきて、息が止まった。
――ちょ、ちょっと!
近い、近すぎる……! 無理、心臓爆発する……!
バクバクする鼓動がうるさくて、平常心なんて思いつかない。
――なに?
どういうこと? この人、誰?
これが、私たちの最初の会話だった。
俺の寝床で、ツガイが眠ってる。
まるで夢みてえだ。
涙を拭って、少し落ち着いた。このまま、ずっとこうしていてえ。ツガイの匂いに包まれて、温もりを感じていてえ。
だが――
「……ん」
小さな声が聞こえた。ツガイが、身じろぎした。
目を、覚ます。
一気に緊張が走った。心臓がまたバカみてえに鳴り始める。そっとベッドから離れて、部屋の外に出た。
――いきなり、知らねえオスが側にいたら、驚かせちまう。
それに俺はでけぇ。醜い身体だ。ちゃんとした形で会わなきゃ。落ち着いて、礼儀正しく。少しでもイケてるオスに見せてえ。そうすりゃ、助けたことを少しは感謝してくれるかもしれねぇ。
ドアの向こうで、耳を澄ます。気配を、待つ。
――聞こえた。
かすかな、掠れた声。
「……ここ、どこ」
ツガイの声だ。我慢できなかった。
ガタガタ、バタバタ。
勢いよくドアをずらして、部屋に飛び込んだ。
ツガイが、こっちを見る。
黒い瞳が、俺を見つめてる。
息を呑んだ。
動いてるツガイを、初めて見た。
黒い瞳。真っ直ぐの黒髪。女神の髪だ。小柄な身体、細くて華奢で。表情が動く。唇が、わずかに開く。
……綺麗だ。
こんなに美しいメスは、見たことがねえ。
寝てるときも美しかったが――動いてると、もっと美しい。生きて、動いて、呼吸をして……。なんて、美しいんだ。
「……目、覚めたか」
声が、勝手に出た。
近づきてえ。触れてえ。抱きしめてえ。でも怖がらせちまう。ゆっくり、ゆっくりだ。
「眩暈は? 気分は悪くないか」
優しく、優しく声をかけながら近づく。一歩、また一歩。
「ちょ、待って……っ」
――その瞬間、世界が凍った。
ツガイが……俺を、拒んだ。
寒い。
骨の芯から、凍えていくみてえだ。血が引いていく。臓器まで止まっちまいそうだ。
……情けねえ話だな。
顔を伏せた。視線も落とした。もうツガイの顔を見る資格もねえ。
身体が震えてる。止まらねえ。
「……そうか」
呟いて、ふらりと枕元に座った。
せめて、最後まで側にいてえ。
それくらい、許してくれ――。
その時だった。
「だ、大丈夫ですか?」
耳に届いた声は、天使みてえに優しかった。
ツガイが……俺を、心配してる。この俺を。拒絶したはずの、この俺を。気遣ってくれた。
その瞬間、息が戻った気がした。
「……俺の心配を、するのか?」
呟いた時だ。
止まってた心臓が――動き出した。
まだ、終わってねえ。まだ、可能性がある。
ツガイは、俺を見捨ててねえ。
凍りついてた身体に、熱が戻ってくる。
――俺のメス。
心の中で、何度もそう呟いた。




