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異世界に落ちたら愛を知った  作者: 青井空


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蟻塚

蟻塚への出発が決まってからというもの、準備はまさに修羅場だった。


まずはメンバー選び。ちょうど草原で練兵していたリックさんとブルーさんを捕まえて、同行する兵士について相談する。


「兵士か。俺たちと……。トカゲが何匹手配できるか、だな」

「ですね。ただ、ウーは無理です。お店がありますから」

「お店?」

「置いて行くと、ウーはうるせぇぞ」

「ですが、ウーがいないと店は回りません」


バーツは露骨に顔をしかめていたけれど、店の事情を聞けば納得するしかない。ひとまず全員に話を通すため、私たちはそのまま酒場へ向かった。


——そして、その問題はすぐに起きた。


「俺がメインの戦士やで!!」


案の定、問題はそこで起きた。


ウーさんは、最初から行く気満々だったらしい。不参加と聞いた瞬間、耳をぴんと立て、小さな牙をむき出しにして立ち上がる。


「なんで俺が入ってへんねん! 勝手に気ぃ回しやがって!」


怒鳴る、蹴る、机をひっくり返す。止めに入った仲間を巻き込み、そのまま、まとめて蹴飛ばす。椅子が宙を舞い、皿が割れ、酒がぶちまけられる。酒場は一瞬で、戦場みたいな有様になった。


「ちょ、待っ……! 話を——」

「うるさいわぁ!!」


言葉ごと蹴り飛ばされて、ブルーさんが床を転がる。なぜか二回目も蹴られ、最後は念入りに踏みつけられていた。


——ありがと、ウーさん。


彼がいなければ回らない店だ。五日も空けるなんて、本当は無理なはずなのに、それでも来てくれる。そう思ったら、胸の奥で安心感が広がり、行きたくないって気持ちが少しだけ軽くなった。


やがて、ウーさんがひとしきり暴れ終えたあと。


ボロボロの面々は「ひでぇ目にあった」「イタイです」と口々に言いながら、しっかりビールと肉を確保して席に着く。……本当にたくましい。私も苦笑しながら、バーツの隣に腰を下ろした。


テーブルに予定表を広げる。


遠征は五日間。

往復三日、戦闘一日、予備一日。

遭遇戦や不測の事態を見越した、最低限の余白。


続いて地図を開く。


蟻塚はジョーガンの北。

ルートと陣形を何度も確認し、細部まで詰めていく。


全員が初めての遠征だ。念を入れれば入れるほど、不安は消えずに残り続ける。


——でも。

それでも、行く。


私は小さく拳を握りしめた。




次に取りかかったのは、持ち物の準備だった。


バーツがあれこれ駄々をこねていたせいで、準備に使える時間はほとんど残されていない。結局、急ぎ足で用意することになったのだけど——野営の準備は、想像していた以上に骨が折れた。


そもそも、私もやったことがないし、バーツたちも同じだ。


この世界は、実質この国しか存在しない。だから砦の外で夜を明かす理由自体がほとんどないらしい。むしろ、虫の脅威があるせいで「外で過ごさない」が常識だという。当然、何を持っていけばいいのかもわからない。野営道具なんてものは売っていない。手探りで準備を進めながら、何度も思ってしまう。


——日本のキャンプ用品売り場、すごすぎ。


ポップとかがあるし、売り場を回れば必要なものが全部わかるし、買える。それだけでも十分すごいのに、どれも軽くてコンパクト。あれはもう文明の結晶だ。思わずため息をつきながら、テーブルの上に荷物を並べていく。


「バーツ、荷物は重くても大丈夫?」

「問題ねぇ。トカゲがいるからな」


山のように積み上がった荷物を見ていると、バーツがすっと大きな革袋を差し出してきた。私一人じゃ持てないサイズだ。


「ルルの果物は、俺が用意した」


中に入っていたのは干し果物だった。どうやら、出発が決まってすぐに準備してくれていたらしい。……本当に、優しい。


「他の食料は基本、現地で狩る。干し野菜は持っていく」


そう言いながら、さらに革袋をテーブルに重ねていく。


「うん。干し肉もいる?」

「いや。予備はリックが全員分、積んでるはずだ」


私は小さく頷いて、荷物の中身を一つひとつ確認していく。


「ルルの支度は進んでるか?」

「うん。詠唱を追加した」

「……できたのか」


露骨に嫌そうな顔で、バーツがため息をつく。私の体に刻まれた模様が、いまだに気に入らないらしい。


前に使った足の魔法陣は薄れてきていたから、ヘナでなぞって補強してある。でも、あれは単発用だ。群れで押し寄せる蟻には通用しない。だから今回は、蟻が多く出る森を想定して、範囲型の魔法陣をお腹に追加した。それに加えて、罠も用意している。トラバサミを複数設置する予定だ。もし万が一、女王蟻が外に出てくるようなことがあれば——捕獲できる可能性だって、ゼロじゃない。望みは薄い。それでも、やらないよりはいい。


「あと、これだ。軽くて丈夫だから、シートにも毛布にもなる」


バーツが広げたのは、ビニールのような加工が施された革のシートだった。便利そう、と思ったら、その横にもこもこの毛皮が並べられる。……やっぱり、優しすぎる。


「水はどうする?」


森は湿っているのに、不思議と川も池もない。現地調達ができない貴重な資源だ。


「兵が運ぶ」

「……ん?」


思わず聞き返してしまう。運んで“行く”なら分かる。でも——。


「補給兵とトカゲを交代させながら、水を運ばせる。リックが手配してる」


——なるほど……?


納得しかけて、でもどこか引っかかる。そんな表情が顔に出ていたのだろう。バーツはふっと笑って、こちらを見つめてきた。その、たれ気味の目元。柔らかいのに妙に色気のある視線に、思わず息が詰まる。


——ちょっと、こっち見ないで。

慌てて目を逸らしたけど、もう遅かったらしい。


「顔、赤ぇぞ」


ニヤニヤしながら、軽々と抱き上げられる。


「ちょっ……!」


抵抗する間もなく、そのままベッドへ直行。


——野営準備って……本当に、いろんな意味で大変。





出発の日。


まだ夜の気配が残る時間に、私たちは家を出た。空はかすかに白み始めているけれど、陽はまだ顔を出していない。ひんやりとした空気が頬に触れて、思わず肩をすくめる。


私は小さなリュックを背負っていた。中身は替えの下着と、バーツのブラシだけ。コートの下にすっぽり隠れるくらいの大きさだ。本当は服も自分で持つつもりだったけど、それはバーツが当然のように持っていってしまった。……まあ、それはいい。問題はそのあと。


「ルル、下着は?」


服棚をごそごそあさりながら、そう言い出したときは、本気で、全力で、拒否した。


——それだけはダメ。

絶対に嫌。譲れない。結果、そこだけは死守したけど——思い出すだけで顔が熱くなる。


一方のバーツはというと、昨日のうちに大きな荷物はすべて運び終えているらしく、今日はほとんど手ぶらに近い。背負っているのは、万が一のための食料。中身はほぼ私の干し野菜と干し果物だ。それに加えて、私の着替えが入ったバッグがひとつ。


「行くか?」

「うん」


そう答えた瞬間、手を取られる。自然な動作で指を絡められて、心臓が一拍遅れて跳ねた。


——本当に。

何回手を繋いでも、ドキドキするのは止められない。バーツの顔を見ることができず、そのまま手を引かれて、待ち合わせの広場へと歩き出した。






広場へ続く道の先に見えた光景に、思わず足が止まった。ずらりと並ぶのは、十匹以上のトカゲたち。その迫力もすごいけれど——


「……え? 小さい……?」


思わず、ぽつりと声が漏れる。


見慣れていた大型の個体に混じって、明らかに一回り、いや二回りは小さいトカゲがいる。


「……小さいトカゲも、いるんだ」

「一人用のトカゲだな」


隣でバーツが軽く手を挙げ、こちらに気づいた仲間たちへ合図を送る。その動きに気づいたのか、ひとりがふらふらとこちらへ歩いてきた。


「よぉ……」

「おはよー。眠そうだね」

「ああ、昨日は決起集会でしこたま飲んだ……」


心底だるそうな声で答えるサムさん。その背後から、ひょいと顔を出したブルーさんが、冷ややかな視線を向ける。


「馬鹿ですね」


一切の容赦がない。


「サム、手まといになるなよ」


低く釘を刺しながら現れたのはリックさんだった。引いてきたのは、他よりも少し大きめのトカゲ。よく見ると、背のあたりに余裕がある。二人乗りができる個体だ。


「バーツは一緒に乗ると思ってな。このトカゲにしたけど、いいか?」

「いい感じにでかいな」


バーツは満足そうに頷き、そのトカゲの首元を軽く撫でた。トカゲは気持ちよさそうに喉を鳴らす。


「荷物は、あっちのトカゲに乗せて」


それだけ言い残して、リックさんは兵士たちが集まっている方へと歩いていく。周囲には、出発前特有のざわめきが広がっていた。緊張と高揚が入り混じった空気。なんだろう、この感じ。胸の奥が、じわっと熱くなる。


「……なんか、ワクワクするね」


顔を上げると、ちょうどバーツは、苦みを潰した顔をして私を見下ろしていた。まだ納得してなかったの?もぉ。そのままバーツは、トカゲの手綱と私の手を一緒に引きながら、仲間たちの元へと歩き出した。



砦の門前。


出発前の、恒例の円陣が組まれる。

輪の中心に立ったバーツが、大きく息を吸い込んだ。


「初遠征だ! 最初の一歩、腹ぁくくれ! 気張っていくぞ!」


腹の底から響くような声が、空気を震わせる。


その瞬間——応えるように、仲間たちの咆哮が上がった。それだけじゃない。補給部隊からも、見送りに来ていたメルたちからも、重なるように声が響く。地面が揺れるんじゃないかと思うほどの熱量。空気そのものが、震えている気がした。


——すごい。

胸がじんわりと熱くなって、気づけば私も拳を握りしめていた。







——って。

ちょっと!? 


バーツ、やめて! 

コートの中に私を押し込めようとしないで! 


皆も、そんな目で見ないで!

さっさと乗って!

トカゲも待ってるから!



せっかくの、いい雰囲気が……全部、台無し。

気を取り直して、深呼吸。


——さあ、行こう。






草原をトカゲで一気に駆け抜ける。


風を切る音と、規則正しく大地を蹴る振動。振り落とされないようにしがみつきながら、ただ前へ前へと進む。やがて朝日が昇りきり、しばらくした頃——森の入口が見えてきた。


「……着いた」


思わず、小さく呟く。


ここまで、拍子抜けするくらい順調だ。何も起きていないことが、逆に少し怖いくらいに。トカゲたちが足を止めると、兵士たちが素早く動き出す。私たちが乗ってきた個体は、数人の兵に引かれてそのまま砦へ戻されていく。森に入るのは、荷物と水を運ぶための数体だけ。つまり——ここからは、完全に徒歩だ。


「ここからは徒歩だ。トカゲを下りてると虫は襲ってくる、決めた配置通りに陣営を組んでほしい」


リックさんの低く、よく通る声が全体に響く。


その言葉に、誰も迷わない。配置は、何度も話し合って決めたものだ。全員が、自分の役割を理解している。


先頭に立つのは、狼のジャンさん。

広い視野と鋭い観察力。それに加えて、狼特有の嗅覚と聴覚。索敵において、これ以上ない適任者だ。チーム行動にも慣れている。


側面の警戒は、虎のサムさん。

俊敏性に優れ、単独行動にも強い。奇襲に特化した動きは、森の中でこそ真価を発揮する。気配を消すように動きながら、いざという時には圧倒的な戦闘力を叩きつける。


本隊の中央。


兎のウーさんは、音に対する感覚が鋭い。わずかな違和感でも拾い上げ、危険の兆しを誰よりも早く察知する。


その隣に立つのは、リックさん。全体を見渡し、判断を下す司令塔。


その後ろに、バーツ。この隊の、間違いなく最高戦力。その横に——私。統括と、切り札。自分でそう位置づけておきながら、ほんの少しだけ喉が渇く。


最後尾——殿を務めるのは、熊のドンダさん。

圧倒的な力と耐久力を持ち、どんな攻撃も受け止める盾のような存在だ。補給兵を守るためにも、後方は彼に任せるのが最適。


そして、その隣で、補佐に入るのが狼のブルーさん。

前方の状況を把握しつつ、背後からの奇襲にも対応できる配置。冷静な判断力が、ここで活きる。


——完璧、とは言えない。それでも、今の私たちにできる最善。


「……行くぞ」


バーツの小さな声を合図に、隊が動き出す。


一歩、森へ。


踏み入れた瞬間、空気が変わった気がした。湿り気を帯びた重たい空気。光を遮る木々。どこかで、何かがこちらを見ているような感覚。無意識に、息を潜め、歩き続ける。




「……止まれ」


ジャンさんの声は、ほとんど息だった。


それでも——全員が、ぴたりと動きを止める。張り詰めた空気の中、足元の土が、わずかに軋んだ。


最初の敵は、蜘蛛だった。大木の陰から、するりと姿を現す。細く長い脚をゆっくりと広げ、こちらの様子を測るように揺らす。……気持ち悪い。生理的な嫌悪感が、ぞわりと全身を這い上がる。


「来るで。左もや」


ウーさんの声も、空気に溶けるように低い。


——挟み撃ち。


その事実を理解した瞬間、頭の中が一瞬だけ真っ白になる。


「サム、くるで!」


その声が、戦闘開始の合図だった。


ジャンさんが先頭の蜘蛛へ飛び掛かる。高速の突きを連続で放ち、敵の動きを封じるように前に出る。同時に、サムさんの姿が消えていた。


一瞬で側面へと跳び、木々の影に溶け込む。次の瞬間——鋭い槍が空気を裂く。正確無比に蜘蛛の脚を撃ち抜き、バランスを崩させる。巨体が地面に叩きつけられ、鈍い音を響かせた。


「ウー、ジャンの援護!」


リックさんの指示が、間髪入れずに飛ぶ。それに応じて、ウーさんが即座に位置をずらし、ジャンさんの死角を埋める。一切の無駄がない。


「ブルーさん、後方警戒!」


私も声を張り上げ、周囲へ視線を走らせる。


蜘蛛は二体。以前なら、この人数でも苦戦していた相手だ。今は——トカゲの手綱を握る兵士でさえ、恐れなんて見えない、闘志をむき出しの顔をしている。戦況も明らかに優勢だった。


配置も、連携も、何度も何度も考えてきた。描いていた通りに、全員が動いている。


——でも。


「……っ」


歯がゆい。

胸の奥が、じりじりと焼けるみたいに熱い。

私も——戦いたい。


戦えば、虫に狙われる可能性がある。何より魔力の温存をしたいと言われ、万が一になるまでは、攻撃するなと言われてる。


それならせめて、補助魔法が使えないかと過去の知識を必死に引きずり出して考えた。状態異常、能力強化——でも、だめだった。身体能力を変化させたときの反動が読めない。危険すぎて作れなかった。


——悔しい。


見ているだけの戦いが、こんなにも苦いなんて。気づけば、口の中に鉄の味が広がっていた。


「バーツ、後ろ注意や!」


ウーさんの声が、鋭く響く。


戦闘中にも関わらず、わずかな葉擦れを拾ったのだろう。右後方。潜んでいた、もう一体。振り向きざまに、バーツが剣を振るう。躊躇は、一切ない。


「——っ!」


刃が走る。同時に、水が裂けるような音。放たれた水刃が、一直線に蜘蛛の胴を切り裂いた。一瞬で決着。前線の二体はすでに沈黙している。最後に後方からでた一体も——


「おらぁ!」


ドンダさんの一撃で、文字通り叩き潰された。鈍い衝撃音が森に響き、すべてが静まる。


——終わった。


張り詰めていた空気が、わずかに緩む。


「……やれ、たな」


ジャンさんが戦場を見渡し、噛みしめるように呟く。その言葉に、皆が小さく笑い、頷いた。——ほんの一瞬だけ。


「他の虫が寄ってくる前に移動する」


リックさんの声で、空気が再び引き締まる。


ウーさんが耳をぴくりと動かし、周囲の気配を探る。そして、小さく頷いた。——問題なし。その合図に、全員が、即座に動き出す。無駄な余韻は、一切ない。


私は、無意識に止めていた息を、大きく吐いた。肺の奥に溜まっていた緊張が、少しずつ抜けていく。それでも——胸の奥に残った熱だけは、消えなかった。




その日の戦いは、あの一度だけで終わった。そのまま予定していた野営地へ入る。そこは草原というより、土がむき出しになった平たい土地だった。やけに広い。遠くまで見通しが利く分、安心できるはずなのに——逆に落ち着かない。


中央へトカゲを寄せ、水袋を運び終えると、兵士たちはすぐに動き出した。狩りに出るのは一班のみ。戦力を分散させないためだ。ウーさん、サムさん、ブルーさんがそれに加わる。


残った私たちは、薪集め。この世界の森は、枯れ木がほとんど落ちない。拾うためには、少し森に入る必要がある。だから一人が拾い、一人が警戒の、二人一組で拾いに行った。


その落ち着かない不安が、現実になったのは——一瞬だった。


「うわっ!」


悲鳴。

枯れ木を抱えた兵士たちが、こちらへ全力で駆けてくる。その直後——森の奥から、影が跳ねた。二つ。


——バッタ。

しかも、人の背丈ほどもある。一体は、すでに兵士に追いつきかけていた。


「——っ!」


考えるより先に、身体が動いた。


「疾き稲妻よ」


距離を詰める。


「我が軌跡を照らせ」


——間に合え!

射程に、無理やり捉える。


「電光石火!」


詠唱が終わると同時に、魔法陣が脳裏に焼き付く。


——発動。

閃光が走った。


雷が一直線に落ち、バッタを地面へ叩き落とす。


焦げた匂い。

痙攣する脚。


——間に合った。


と同時に、目の前に落ちる影。顔を上げると、もう一体。視界いっぱいに迫っていた。


——速い。

避けられない。


とっさに閉じた目。次の瞬間感じたのは、温かい大きな手のぬくもりだった。頭の上にあるその手を抑えながら、目を開けると、迫っていたはずのバッタはもう、動いていなかった。


バーツが、叩き潰していた。


あまりにもあっさりと。

何事もなかったみたいに。


「……っ」


膝が震える。遅れて、心臓が暴れ出した。どくん、どくんと、耳の奥で音がする。自分でもわかるくらい、止まらない。ぐい、と腕を引かれ、気づけば、バーツの腕の中だった。



「大丈夫か?」


低い声が、すぐそばで落ちる。


——怖い。


川のときみたいに予測していたわけじゃない。これは完全な不意打ちだ。身体が追いついていない。息を整えるために、バーツにしがみつく。


心臓の音が、まだ収まらない——そのときだった。


反対側の森が、大きくざわめいた。反射的に振り向いてみたものは——巨大な。本当に、巨大なイノシシ?だった。


担いでいるサムさんたちは何か言い合っている。どうやら、誰が最後の一撃を入れたかで揉めているらしい。その声は、遠くからでもはっきり聞こえた。


——元気だな。


無意識にその言葉が頭に浮かぶ。次の瞬間。


「ばっかやろうが!!ルルに見せんなって言ってるだろうがぁ!」


バーツが慌てて、私の視界を塞いでいた。


——大丈夫。

イノシシなら、日本にもいたから。


——きっと……だい、じょうぶ。

足が、十本あったりは……しないけど。


——ダ…イ、ジョウ、ブ……。

足が……虫みたいに、曲がったり、うごめいたりは……しないけど。


「……ちょっと、気持ち悪いかも」


思わず、本音が漏れた。おぇ……。



「晩メシ、今日は贅沢やで」


ウーさんがニコニコしながら用意してる。何を食べるんだろう、と見ていたら——シチューだった。


「……え?」


これが、贅沢?

薪をいっぱい使うから?

それとも、温かいものだから?


基準が分からない。でも——どこか、嬉しかった。




初日の野営。


煙が昇り、夜空に溶けていく。火を囲みながら、肉を焼く音。シチューの鍋は、もう空っぽだ。あちこちから、笑い声が上がる。その光景を見ながら、私は、そっと息を吐いた。


——今日を、生き延びた。


その実感が、ようやく胸に落ちてきた。




夜は、思っていたより静かだった。


夜行性の巨大虫がいない。それだけで、こんなにも安心できるなんて。けれど、緊張が完全に抜けるわけじゃないから、眠りに落ちても、夢の中で虫の鳴き声が響いていた。浅い眠りを何度も繰り返して——それでも、眠れたことに、ほっとした。




日の出前。


森が薄く明るみ始めた頃、目を覚ます。焚き火の残り火が、かすかに赤く燻っていた。朝食は、昨日の残りの肉。私は干し野菜を齧り、水でふやかしながらゆっくりと飲み込む。固いし、味も薄い。それでも、身体に染みていく感じがあった。


食べ終えた頃。遠くから、規則的な土を叩く音が届いた。


「来たな」


ほどなくして、木々の隙間から姿を現したのは——第二補給部隊。水袋を満載したトカゲと、三人の兵士たち。わかっていたはずなのに、頬が緩む。


——やっぱり、水があるって大事。


リックさんはすぐに立ち上がり、荷の確認へ向かう。私とバーツも、それに続いた。


「よぉ、無事だったか?」

「おはようございます。お水、ありがとうございます」


バーツは片手を軽く上げて、いつもの調子で笑う。


「よぉ、バーツ。トカゲだしな。別に虫も来ねぇよ」

「ちげぇねぇ。獣より足ぇ早いしな」


軽口が飛び、笑い声が重なる。けれど——その耳や目の動きに、張り詰めていたものが残っているのがわかった。……どれだけの覚悟で、この森を走ってきたのか。


「ルルさん、おはようございます」


兵士たちはそのまま薪のそばに腰を下ろし、昨日の肉を手に取る。食べる動きはどこか速い。無意識に周囲へ視線を走らせている者もいる。


森は、ほんの少し前まで、一握りの戦士しか踏み込めない戦場だった。今も、それはあまり変わらない。強くなったとはいえ——安全になったわけじゃないから。それでも生きて残ってるかわからない仲間のために彼らはその森に入った。


その傍らで、昨日からここにいた兵士のうち三人が、解体した虫の部位を丁寧にまとめていく。慣れた手つきで束ね、トカゲの背に括り付ける


「昨日は、ありがとな」

「気をつけて帰ってくださいね」


声をかけると、皆、ぱっと振り返った。笑っている。けれど、その目の奥は静かだった。揺るがない、何かがある。


「こっちこそ、ありがとな」

「バーツ、その剣……やっぱ、やべぇな」

「ルルさん、後は任せてください」


頼もしい言葉に、胸が少し熱くなる。


小さなトカゲに跨り、第一補給部隊は砦へと戻っていく。その背中が森の奥に消えるまで、私はじっと見送った。




——よし。


水はある。

体力も、気力も、まだ問題ない。


「俺たちも片付けるか」


隣で、バーツが言う。

その声に、私は小さく頷いた。




広場を出て、再び森に足を踏み入れた途端——ウーさんの耳がぴくりと跳ねた。いや、跳ねたどころじゃない。左右にせわしなく動いている。


昨日も思ったけど——虫たち、どうしてこんなに朝から元気なの。

人の事情なんて、関係ない。


「左から、カマキリ二体やで」


短い報告。

その方向へ視線を向ける。


——まだ見えない。

でも、距離は分かる。魔法陣の射程、ぎりぎり。


——よし。


「一体はジャンさんとサムさんに。もう一体は私がいく。とどめはウーさん、お願い」


返事はない。でも——全員、動いた。




トラックのように太い樹の影から、ゆらりと、カマキリが姿を現す。その瞬間。


「疾き稲妻よ、我が軌跡を照らせ——電光石火!」


魔法陣が淡く光る。次の瞬間、雷が走った。稲光を正面から受けたカマキリは、痙攣しながらも、まだ立っている。……しぶとい。


そこへ。


「——おらぁっ!」


ウーさんが、槍を持ったまま飛び込んだ。構えない。


——違う。

蹴り。


振り抜かれた回し蹴りが、カマキリの頭部を打ち抜く。鈍い音とともに、カマキリの巨体が崩れ落ちた。


「俺の蹴りは、天下一品やで」


カマキリに片足を乗せてドヤ顔。くりっとした目が、妙に輝いている。……うん。誰も否定しない。


一方——

ジャンさんとサムさん。


正面から槍を構え、鎌を一歩も退かずに受け止めるジャンさん。その周囲を風のように回り込み、刃を刻むサムさん。力と速さ。正反対なのに噛み合っている。気づけば、こちらとほぼ同時に討伐完了していた。


——そのとき。


「囲まれそうや。……これは蟻やな。十体ぐらいか?」


ウーさんの声が、空気を一変させた。緩みかけた緊張が、一気に引き締まる。


「ブルー! ドンダと一緒に後方左から突っ込んで前へ回り込め! サム、ウーは右側面を潰したら、兵士の後ろにつけ! ジャン、前を殺れ!」


リックさんの指示が、間髪入れずに飛ぶ。


言葉が、そのまま行動になる。ジャンさんは即座に頷き、リックさんと並んで前へ。気づけば、バーツも剣を抜いていた。


鋭い目。

光を纏った刃が、いつでも振るえるように構えられている。


蟻は、個体としては弱い。けれど——群れになると厄介だ。だからこそ、リックさんは即座に“分断”を選んだ。


後方の兵士たちも、陣を崩さない。リックさんが人選したと自慢してただけある精鋭だった。補給だけじゃない戦闘も優秀なんだ。三人一組。積み重ねてきた動きが、そのまま形になっている。


左側では、ブルーさんたちの怒号と金属音。すでに数体は倒している。少し遅れて、サムさんとウーさんが後方へ合流。これで、背は完全に守られた。


そして——正面。

ジャンさんとリックさんが、三体目を沈めた瞬間。右の樹の陰から、一体が飛び出す。矢のような速度。


——踏み込む音。

バーツが、地面を蹴った。


次の瞬間、視界が追いつかない。


閃光。


ただ一閃で、蟻の身体が断ち割られていた。


私は、息を呑む。


——凄い。

それだけだった。




気づけば、戦いは終わっていた。


強くなったのは、武器だけじゃない。


リックさんの指示。

二人一組の連携。

積み重ねてきた経験。


その全部が、皆を何倍にも強くしている。


——私も負けない。


森を見上げる。


巨大な樹。

差し込む光。

どこか神聖さすら感じる空気。

その中で、倒した虫を手際よく解体し、トカゲに積んでいく仲間たち。


まるで——映画のワンシーンみたいだ。


けれど。

——これが、私の現実。


この“今”を守るために。


私は、もっと強くなる。


胸の奥で、静かに決意を噛みしめた。




少し歩いたところで、小さな広場を見つけた。予定より少し早いけど、ここで昼休憩らしい。正直、「干し肉を齧るだけかな」なんて思っていた。——でも、甘かった。


「この先、蟻塚がある」


リックさんの一言で、皆の空気が変わる。


「……腹ごしらえ、ってそういうことか」


小さく呟きながら、干し肉を口に運ぶ。噛むたびに、あの時の話がよみがえった。




蟻塚について知りたいと長老たちに尋ねたとき、狐族の長老が一つの文献を見せてくれた。


「へいち に ぽこんと もりあがった こやま かたち ちょうじょう に ひとつ おおきな あな」


森に入った戦士が、偶然発見したもの。両腕を失いながらも持ち帰った、たった一文の記録。長老はその文字を指でなぞりながら、静かに語った。


「蟻塚に関する情報は、森の最奥に踏み入らねば得られぬものでございます。ましてや、森での戦いはメル不在にて、生きて帰還すること自体が奇跡。その命を賭して持ち帰った記録——これは、国にとって比類なき貴重な情報にございます」

「これは……」


たった一文、でも、十分な情報だった。“蟻”という虫の特徴と、この記述。


——似ている。

私の知っているものと。


地下に広がる巣。

複雑に入り組んだ通路。

敵を察知すれば、雪崩のように溢れ出す群れ。


この推測を共有して、皆で戦い方を何度も考えた。


初めは——全て出てくるのを待ち、魔法で一掃する案がでた。けれど、すぐにそれは無理だという結論になった。蟻が巣の外に出揃う前に、戦闘は始まる。それが全員の認識だった。


「水攻め」

不可能。森に水源がない。


「火」

使えない。延焼すれば終わり。


——毒

は、認識自体がなかったから言わなかった。無い世界なら無いままがいい。


つまり——選択肢は、ほとんどなかった。残ったのは、地道に削る、真正面からの消耗戦。


その結論に至ったとき、皆の表情が重く引き締まり、私は少し息苦しくなるのを感じた。





——そして、今。


顔を上げる。


目の前にいる皆の表情は、あのときと同じだった。引き締まっている。でも——目は違う。強く、光っている。


ゆっくりと瞼を閉じて、決めた覚悟をなぞる。


ここで踏ん張れなきゃ、先はない。

さっき誓ったばかりだ。

この“今”を守るために、皆と同じぐらい強くなるって。


深く、息を吸う。

そして、お腹に手を当てた。


——大丈夫。


魔法陣は用意した。仲間もいる。それに——私は一人じゃない。隣を見上げて、光を宿した緑を見つめる。温かくて強い。大好きな色。


「バーツ……」

「大丈夫だ。俺がいる」


短い言葉。

それだけで、十分だった。


私は小さく頷く。

心が、静かに固まっていくのを感じながら。






望遠魔法を使って蟻塚を確認することになって、私はバーツの肩に乗る。


「んー……もう少し上がいい」


見えているのは、盛り上がった側面だけ。

全体が見えない。


「これの上に立てば?」


リックさんが持ってきたのは、水樽だった。バーツは私を肩に乗せたまま、軽々とその上に立つ。視界が、一段持ち上がる。


——見えた。

あった。


望遠で捉えた蟻塚は、文献の通りだった。


平地に盛り上がる小山。

頂にぽっかりと開いた、大きな穴。


——間違いない。


「リックさん、文献どおりの穴がある」

「よし、じゃあ、決めた通りに始めよう。皆、位置について」


全員が動く。

私もバーツに下ろしてもらい、決めていた木陰に散る。


左にリックさんたち。

右に補給兵とサムさんたち。

私は、バーツとブルーさんと同じ木。


配置に着くと、サムさんとウーさんが、さっき倒した蟻の肉片を広場に撒き始めた。そして、隠れる。一瞬だけの、張り詰めた沈黙。


次の瞬間。


穴の上で、何かが動いた。


一体。

二体。

三体——


「……来た」


黒い影が、次々と溢れ出す。止まらない。


十体。

二十体。

まだ、出る。


「……うじゃうじゃ出てきますね」


ブルーさんが、呆然としたように呟く。


蟻は、仲間の肉片に群がりながら、広場を黒く塗りつぶしていく。その光景に背中がぞわりと粟立った。


「今です。これ以上は危険です」


ブルーさんの低い声。


——行く。


木陰を飛び出し、広場全体を視界に収める。その瞬間——蟻たちが一斉にこちらを向いた。


仲間たちが前に出て、私の前を塞ぐ。守られている。


——だから、撃つ。


「我が名は雷帝。放たれるは天罰の連鎖——電光万雷陣!」


空気が震え、髪が逆立つ。次の瞬間、轟音とともに雷の雨が降り注いだ。


バチィィィ——ーン!


焼け焦げた臭い、弾ける音。黒煙。さっきまで広場を埋め尽くしていた蟻たちが、一瞬で焦げて倒れる。……でも。


「まだ来る……!」


穴の奥から、次々と新たな蟻が這い出してくる。止まらない。


「……あと、二回」


呟きながら、森の影へいったん潜み、別の場所へ。


照準を、再び、広場の中心に合わせる。


「我が名は雷帝。放たれるは天罰の連鎖——電光万雷陣!」


二発目の雷が、大地を揺るがし、群れを薙ぎ払う。数は大きく減った。でも——まだ、止まらない。残った蟻たちが、押し潰すように一斉に突進してくる。


私の前に——バーツが出た。


「——ルル剣!」


剣が振り抜かれ、炎の軌跡が一直線に走る。蟻の列がまとめて焼き払われ、森の手前で火が消えた。


「……アブねぇ」


小さく聞こえた声に、思わず頷く。


——ギリギリだった。

消えてよかった……。一歩間違えれば、森が燃えていた。


それでも、流れは完全にこちらにあった。


「行くぞ!」


蟻塚を囲むように、ジャンさん、ブルーさん、サムさんが陣取る。その背後に、それぞれ補佐の兵。


穴から顔を出した瞬間——ジャンさんが突く。仕留める。

そのまま、刺した蟻ごと後ろへ回す。

兵士が外す。

その間、ブルーさんが突く。


途切れない。

ただ、時計回りでグルグル回る。


「……」


その光景を見て、思わず言葉が漏れそうになった。


——まるで、わんこそば。


次から次へと。出てきては、処理されていく。


リックさんとウーさんは周囲の警戒。バーツは、私の隣で剣を構えたまま目を配る。


ドンダさんは——


「次は俺だよ?」

「誰か交代してよ」


槍をぶんぶん振りながら、三人の周りをうろついていた。


——出番、ないみたい。

思わず、少しだけ笑ってしまった。 




そして——ほとんど蟻が出てこなくなった頃。第三補給部隊が到着した。目の前の光景を見て、全員が固まる。


黒く焼けた地面。

積み上がる蟻の残骸。

そして、無傷の私たち。


——うん。

そりゃそうなるよね。


「やったね、バーツ!」


思わず、抱きつく。


張り詰めていたものが、一気にほどけ、胸の奥から安堵が溢れ出した。





































第三補給部隊のある狼:「……おや? 本来ならば、決着は明日まで持ち越されるはずでは?」

第三補給部隊のある虎:「聞いたぞ。女神が光の刃を振るわれたらしい」

第三補給部隊のある狐:「な、なんと! 聖なる刃……!」


第二補給部隊のある狐:「長老……!? お戯れを。なぜこのような場所に居られるのです?」

第二補給部隊のある虎:「長老! 抜け出して来られるなぞ、補佐に知れたら!」

第二補給部隊のある猿:「……うちの長老、また泣いてるな……」


リック:「まじか。だから、長老は来ちゃダメだって……」


気づけば、第三補給部隊の面々は荷物もほったらかしで、膝をついて合唱団みたいに「……女神よ……女神よ……」と祈りモードに突入。


リック:「……はいはい。もうわかった。長老も来たからには、ちゃんと働いてもらいますよ?」


第三補給部隊の面々:「……え?」

第二補給部隊の面々:「え?」

リック:「荷物、運んでください」

第三補給部隊の面々:「女神が! 女神がぁ!」

リック:「泣きながらでいいです。運んでください」


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