クッキーと婚活
長老会の席で、武器の製作についての報告が上がった。
「武器の製作ですが、材料のミスリルが枯渇し始めています」
その言葉に、長老たちは互いの顔を見合わせる。だが、驚いてはいるものの——どこか他人事のような空気だった。
「今まで~使わなかったからのぉ。そもそもぉ採掘できる量も少ないしのぉ」
「あとどのくらいある?」
——なんか……温度感が違う。
武器の材料が足りなくなるなんて、大問題のはずなのに。長老たちからは、焦りや慌てた様子がほとんど感じられない。……いいのかな。
「もうすでに、酒場にあるカップを溶かして使っています」
その一言で、空気が変わった。長老たちがぴしりと背筋を伸ばし、ようやく本気で考え始める。
「急がなあかんな」
「……採れる……場所は?」
「どこだったかのぉ」
武器に限らず、何かを作るときに材料が足りなくなる。そんな経験自体が、どうやら今までなかったらしい。どの長老も、困惑した顔をしていた。
「森です。ただ、採掘できる場所のすぐそばに蟻塚があるそうです。もうそこ以外に採掘できる場所はないって言ってました」
その瞬間だった。長老たちの緊張感が一気に跳ね上がる。全員がほぼ同時に立ち上がり、
「メルは何人おる!」
「オスはどれだけ動ける!」
口々に叫びながら、扉へ向かおうとする。
——あ!
「ちょっと待ってください! 戦いはまだ始まっていません!」
私も思わず立ち上がり、両手を前に突き出して叫んでいた。その声で、ようやく皆が足を止める。
「あ……あぁ……そうじゃ」
「……うむ」
「あかん……」
「ふぅ」
「ふふふ」
「むぅ」
それぞれが息を吐きながら、ひと言ずつ漏らし、ゆっくりと席に戻っていった。
——ここが、最後の国だから。
この国は、退く場所のない最後の砦だ。ギリギリの戦いなんて許されない。絶対に守らなければならない地。
虫に襲われたあの記憶を——どの長老も持っている。だからこそ、「蟻塚のそば」「新しい希望である武器の材料がない」という報告は、彼らには国そのものが脅かされている知らせに聞こえたのだろう。
——落ち着きがない。
顔はいつも通り、静かに構えている。それなのに、尻尾を撫でたり、手を組み替えたり。小さな仕草が、焦りを隠しきれていない。
じっと見ていた私の視線に気づいたのか、狼族長老が苦笑して、ひとつ溜息をついた。
「森か……」
「メルは行けない」
「どぅするかのぉ」
「オスだけで……」
「蟻塚は無理やろ」
「武器の材料はどうする」
絶望を押し殺した声で、言葉がぽつぽつと落ちていく。その姿を見ていると、胸の奥で、ひとつの決意がゆっくり固まっていった。
本当なら、行きたくない。
蟻の大群なんて——さすがに怖い。
でも。
私は、オスより強い。
握りしめた両手を見つめて、そっと目を閉じる。
——オスが何人も亡くなったと聞いても、耐えられる?
無理だ。悲しみと後悔に、きっと押しつぶされる。
——バーツが行くと言ったら?
絶対に無理だ。心配で、息もできなくなる。
——行く勇気と、待つ勇気。どちらなら持てる?
……私には、行く勇気しか選べない。
——なら、まずはバーツを説得しないと。
目を開ける。
胸の奥の空気を、全部吐き出す。
吸う。
思いきり吸う。
目に力を込め、前を見据えて、はっきりと言った。
「材料はまだ大丈夫です。次の長老会までに、手段を考えます」
その瞬間。
長老たち全員が、こちらを見た。悲壮な目だった。
顔も態度も、相変わらずゆったり構えている。それなのに——目だけが違う。まるで、親を目の前で亡くした子供のような目だった。
——長老たちも、人だ。
歯を食いしばりながら、民の血に塗られた道を選び続けてきた。その痛みが、見える。
「頼む……」
項垂れるように頭を下げる長老たちに、私は静かにうなずいた。そのとき、ふと視線を感じて横を見る。そこには——決意を宿した強い目で、黙ってうなずくバーツがいた。
——ああ、やっぱり。
どんなときも、隣で同じ方向を見てくれている。胸の奥が、じんわり温かくなる。ありがとう、バーツ。
会議の後、今後の暮らし方を考えるために、別室で何人かのメスたちと話した。聞きたかったのは一つだけ。愛はあるか——ただ、それだけ。でも、一番大事なことだから。
「率直に聞きます。パートナーから大事にされていると思いますか?」
「…………」
青白く痩せた顔をして、目を合わせようとしないメス。
「そうですか……。では、パートナーを変えたいと思いますか?」
目を合わせていないのに、絶対に嫌だという気持ちが伝わってくるほど必死に、首を横に振るメス。
「……私の……メル……だから」
「……わかりました。本日の質問はここまでです。ありがとうございました」
どのメスも、同じ答えだった。
返ってこない愛の苦しさは知っている。
胸がヤスリで擦られるようにヒリヒリして、辛い。
メスに会えば会うほど、その傷口から血が染み出して流れ落ちる——痛い。でも今回、涙は一滴も出なかった。理由はわかっている。
これは相手の苦しさへの痛みではなく、私自身の心の傷の痛みだ。
食いしばった歯を解きながら、震えるように息を吸い、意識して吐く。何度も、何度も。出す息が震えなくなるまで続けた。
——落ち着け。
……メスをどうしよう。
考えることを意識的に頭に呼び起こす。
無理やり引き離すのは難しい。新しい相手を——と思ったけれど、この様子ではできない。となれば、少し時間はかかるけれど、メルが再びパートナーを認識できるようにする。そして、それまでの間、メスたちにどうにか元気でいてもらう。これしかない。
——どうやって?
メルへの道筋は見えてきた。でもメスは……悩む。ずっと考えていたら、気づけば晩ごはんの時間になっていて、バーツの膝の上にいた。
「ルル、いい加減、戻ってこい。お前が倒れる」
バーツが心配そうに言いながら、私の頭に何度もキスをした。
目の前にお肉がある。そのとき——あるメスが言っていた言葉を思い出した。
「ずっと一人で寝て、起きて、巣に閉じこもって、何もすることもなくて、また寝るのよ」
メスは基本的に家にこもる。ということは……孤独? だったら、メスたちを集めてお茶会のようなものを開いたらどうだろう。
——ただ集まって話すだけだと、きっかけが弱いかな。
心をほぐすようなきっかけ……。
——そうだ、甘いもの。
果物以外で甘いものといえば蜂蜜くらいしかないこの世界で、お菓子を作れば、メスも喜んでくれるはずだ。何より私も食べたい。たまに、シュークリームが食べたい、大福が食べたい、と無性に思うときがある。
「ルル。め、し、だ」
「あ……うん」
まず、ご飯を食べないと。
それから二日。バーツに心配されながら悩み続けて、ようやく一つの案にたどり着いた。
私の料理スキルは並の下レベル。材料も小麦粉と蜂蜜くらいしかなく、バターも牛乳もない。そもそもあったとしても、乳製品が合わない人もいる。そこで——。
「ナッツ油で代用すれば、クッキーっぽいものになるんじゃ?」
今ある材料を混ぜるだけ、というお菓子を思いついた。というか、それしか思い浮かばなかった。
次の問題は焼くための道具だ。オーブンなどこの世界には存在しない。ベーベさんに相談したかったけれど、今は武器の生産で手一杯だ。仕方なくバーツに岩の箱の絵を描いて見せた。
「岩で、こういうのが欲しいんだけど……」
「ん? ……これ、借りていいか? ちょっと待ってろ」
少し考えて、絵だけ持って出ていった。その数日後——本当にそれらしいものを作ってきてくれた。知り合いの伝手を頼って、あちこち奔走してくれたらしい。ありがとう、バーツ。大好き。
小麦粉とナッツ油はバーツと一緒に店へ行って注文した。あとは蜂蜜だけ。雑貨屋に行ったけれど、少ししかなかった。家に帰って果物を食べながら、どうしようかと悩む。
「蜂蜜がたくさん必要なんだけど、普通に売ってるだけじゃ足りないね。うーん……ドンダさんにお願いしてみようかな」
何も考えずに呟いた私が悪かったと思う。バーツは牙をむき出しにして、いきなり怒り出した。
「俺以外のオスに"おねだり"すんのか!」
「え?!」
——そ、そうなるの!?
「ち、違う。全然違うよ?」
「うぅぅぅうう……」
「ごめんね。ごめんね、バーツ。違うよ、そんな意味じゃないよ」
今度は泣き出したバーツに慌てて謝って、頬にキスをした。
「ち、違う……んだな? 浮気じゃ、ない、な?」
自分で言いながら、ひどく傷ついたらしい。涙を流しながら縋りついてくる。
「うんうん、メスのためだから。私のためじゃないよ」
「うぅぅ」
私の首元に顔を埋めて、抱き上げてベッドへ向かうバーツ。
——まだ、昼前なんだけど。
こればかりは私が悪い。しょうがない——と思っていたけれど、代償はかなり高くついた。
丸一日、起き上がれないくらい身体がだるくて、言いたくない部分が使い過ぎで痛い。絶対にどこかは言いたくないが、主に下半身が集中的に痛い。……ひどい。本当にひどい。
でも……まぁ……いいか。ここまで求められるって、なんか幸せだよね。ルンルンと尻尾を振りながら私の世話をしているバーツを見ていたら、自然と顔が緩んでしまう。
——って、もうできないから! 触らないでっ!! 最低! バーツ!
起き上がれるようになって、早速クッキー作りに取り掛かった。そして始まった——地獄の試作タイム。
焦げる。
生焼け。
焦げているのに生焼け。
……どうやったらそうなるの、本当に。
ナッツ油の配分を変えても、焼き時間を変えても、結果は地獄絵図。オーブン岩から漂う甘焦げた臭いに、途中からバーツまで無言になっていた。
それでも諦めずに試作を続けて——三日目。ようやく「クッキーらしきもの」が完成した。少し固いけれど、ちゃんと食べられる。味も悪くない。蜂蜜の甘さが優しくて、口に入れるとほろっと溶ける。……うん、これならいける。
開催場所は城の一室にした。
石造りの壁に花を飾り、テーブルには布を敷いた。できるだけ明るい場所に。そこにメスたちを集めて、小さなお茶会を開いた。
最初はみんな俯いたままで声も小さかった。でも、焼き上がったクッキーを差し出して、蜂蜜入りの果汁を添えると——ひと口、ふた口。そのたびに、少しずつ顔が和らいでいった。
「これ、甘いね」
「ちょっと香ばしい」
「焦げてるけど……おいしいかも」
笑いがこぼれて、ぽつりぽつりと会話が生まれる。やがてその輪が広がって、笑い声が部屋いっぱいに満ちた。
——笑ってる。
やっぱり、一人で閉じこもって何もしないのは心を削る。一緒に話して何かをすれば、生きる力が湧いてくるはずだ。
「今度はみんなで作ってみない?」
そう提案したら、皆の目が輝いて、周りを見渡した後、小さくうなずき合っていた。
——よしっ、成功。
そして——婚活を始めた。
庭園のようなものはないけれど、城の裏にちょうどいい空きスペースがあった。花を飾り、灯りを並べ、テーブルに布を引いた。少し無理をしてでも「非日常感」を出したかった。
飾りつけのセンスは自分の分しか使えず、ガーデンパーティとは言いがたい仕上がりになったけれど、まぁしょうがない。
準備は本当に大変だった。
相談しようと、酒場で仲間たちに話しをしていたら、周りにいたオスたちにも聞こえたらしく、「自分も参加させろ」と言って、殺気立ち、私の周りに集まり始めた。仲間が壁になって止めてくれたけれど、殺気立ったオスたちには届かない。
本当に怖かった。すると、カタカタ震える私の姿を見たバーツが大激怒。殺気立つオスなど比べものにならないほど、凄まじかった。
「ルルが……怯えてる……。俺のツガイが、怖がってるじゃねぇーか! このボケどもがぁぁ!!」
ルル剣を抜いて、酒場の中で暴れ始めた。
「バーツ! ちょ、あかん! 店壊れるって!」
「バーツ! 死人が出ます! せめて剣はしまってください!」
「まずい! 止めろ!」
「ルルちゃん、バーツを呼び寄せて。急いで」
リックさんが切羽詰まった顔で言ってくる。
「バーツ……怖いの……バーツ!」
次の瞬間、温かい腕に抱かれていた。
「すまなかった」
抱き上げて、顔中にキスをしてくれた。バーツの心臓がバクバクと鳴っていて、空気もまだピリピリしている。きっとまだすごく怒っている。でも、ここにいて、抱きしめてくれる。やっと呼吸ができる気がした。
「ふざけんなや。請求すんで。ルルちゃんの涙代も含めてぎょうさんや。首、あらっとけや」
ウーさんが、ぐちゃぐちゃになった店内と倒れているオスたちを見回しながら吐き捨てるように言っている。
「メスを泣かすオスなんて、いらなくない?」
と言いながら、怪我しているオスを掴んでは店の入り口に投げ捨てていくドンダさん。
「ルルちゃんは、お前たちのために色々と考えてくれてるのに、お前たちは自分のことしか考えない。今回の婚活が始まっても、お前たちは反省するまで呼ばない。メスを大事にできない奴は対象外だ」
リックさんの目も、明らかに怒っていた。
私が落ち着くまでに少し時間が必要で、皆はその間、壊れた机の片付けと、請求書を受け取ったオスを店の外に放り出す作業をしていた。
「みんな、ありがとう。ごめんね」
私が謝ると、「待てができないオスですまない」と皆が謝ってきた。それがなんか……ちょっと笑えた。
仕切り直して婚活の説明をした。もちろん仲間たちも参加することになった。全回参加で。どうやら主催者の特権らしく、皆ニヤニヤしていた。ウーさんだけ「儲かるでぇ」と言っていたけれど、え、そっちなの、と笑ってしまった。
物資はウーさんが担当。灯りや布、食事などを用意してくれるらしい。他の皆は花集めをするそうで、すごく張り切っていた。
会場を改めて見渡すと、感無量という言葉の意味がよくわかった。
料理も豪華で、肉A・B・C——そして今日はなんと、Dまである。Dは最近人気らしく、皆のテンションが一気に上がった。
ちなみにこの世界、食肉は全部で七種類あるらしい。もちろん、牛も豚も鶏もいない。ということは……ダメだ。考えるのをやめよう。想像したら肉を食べられなくなる。
もともと肉が苦手で、羊もダメだし牛もあまり好きじゃなかった。でもこの世界、魚がいない。野菜も果物も限られていて、穀物は栽培すらしていない。生きていくためには、絶対に肉を食べなければならない。
だから、絶対に想像しない。私は、食べられる味のお肉を食べる。
「もし肉A・B・Cが食べられなくなったら、生物として詰む」とバーツには伝えてある。だから彼は絶対に肉の正体を教えない。この前、酒場でドンダさんがうっかり言いかけたとき、バーツが全力で殴って止めていた。仲間たちにも伝わっているらしい。無言で「外に出ろ」と連れ出していて……あれは怖かった。でも……ありがとう、バーツ。やっぱり大好き。
会場を見渡していると、始まりの時間になったのか、オスたちが入ってきた。皆、いつもなら肉の山に直行するのに、今日は花やテーブルの布のそばに立ち止まって、触っている。戸惑う顔が、嬉しそうな顔へ、皆同じように変わっていく。メスに会えると実感したのか、そわそわし始めた。
オスが赤い顔でうろうろし始めたころ、メスも入場した。緊張した面持ちでぽつぽつと入ってくるメスたち。メス二十名、オス八十名。合計百名の大規模な初回婚活が始まる——と思ったその瞬間。
「ツガイ! 俺のツガイ!」
叫びながらメスを抱き上げて走り去るオスが現れた。しかも一人ではない、二人だ。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。でも、すぐに理解した。
メスは普段、家に閉じこもっている。だからオスたちがどれだけ必死に探しても匂いがわからず、出会うことが難しい。「やっと見つけた」というその声に、胸がじんわり熱くなる。今日が、彼らにとって初めて顔を合わせられる日だったのだ。感動で泣きそうになる。
でも、周りを見て、息をのんだ。走り去る二人を見つめるオスたちの顔は——この世界に来る前、孤独だった私の顔そのものだった。
——痛い。
胸が痛かった。放っておけなかった。ビビる足を動かして何度も深呼吸しながら、皆の目の届く場所に立つ。バーツの腕にしがみついて、もう一度深呼吸した。
——できる、できる。いや、やる、やれる。頑張れ、私。
もう一歩、前に出た。
「会を始めます。お集まりいただいてありがとうございます。今日、皆さまが楽しいひと時を過ごせたらと、心より願っています」
メスは私を見ているけれど、オスは……半分以上が、ツガイを見つけたオスが出ていった方向を見つめていた。
「この婚活ですが、今後も開催します。参加者を少しずつ変えながら、何度も何度も開きます。今日パートナーに出会う人がいるかもしれません。もしかしたら明日ツガイに会う人がいるかもしれません。この会は希望しかない会です。だから楽しんでください。大丈夫です。きっとパートナーに出会えます」
私の言葉に、こちらを向いたオスたちの顔が、徐々に晴れやかになっていく。
——よかった。あと一言だけ。……どうしても、言いたい。
「だからこそ、オスの皆さんは、必ず戦いから生きて帰ってきてください。虫との戦いでは、絶対に怪我なく、みんな揃って戻ってきてください。あなた方のメスが待っています」
声が震えそうになったけれど、言い切った瞬間——割れんばかりの遠吠えと咆哮が広場に響き渡った。胸に響くほどの熱気。あの瞬間に爆発した歓喜は、きっと一生忘れない。
その後は、メスを前にしてオスたちがうろうろし始め、勇気を出して好みの相手に声をかける姿もちらほら見られた。ぎこちなくても、それが確かな一歩だった。
いい感じになり始めたところで追加の料理が出た。ウーさん監修の餃子も登場して、みんなの手が止まらない。いい感じになっているペアは、オスがメスに食べさせてあげたりしている。そしてクッキーもお披露目。甘い香りが広場に広がると、メスがそわそわし、オスもつられてそわそわする。それだけで、場の空気がふわっと和らいだ。
会は大成功だった。笑い声が響く中で、私は思った。
これは、ただの婚活じゃない。戦うために「生きたい」と思える未来を作っている。
——次も絶対に開く。少しずつでも、何でもやって、未来を変えていく。
これは小さな始まりだ。
胸の中で、もう一度強く誓った。
「婚活」とやらを会場の外から覗いたとき、頭を殴られたような衝撃を受けた。
なぜルルがこんな会を知っている?
まさか……俺以外のオスを探していたのか?
喉の奥で低い唸りが漏れそうになる。牙が勝手に覗く。
会場の端に身を隠し、必死に押し殺した。
理性を手放したら、誰かを噛み砕きかねない。
その時だ。
ルルが駆け寄ってきて、迷いなく俺に抱きついてきた。
「バーツ、私ね……この会を見て思ったの。ここに落ちてくる前はずっと寂しかった。孤独だった。でも、それはバーツに会うために必要だったんだって。そう思えたの。バーツ、会えてよかった」
……違うのか。
ルルの瞳には、他のオスなど一欠片も映っていなかった。疑った俺が、馬鹿だっただけじゃねぇか。
牙は静かに引っ込み、胸の奥の熱だけが残った。
——俺のツガイ。俺も、会えてよかった。




