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異世界に落ちたら愛を知った  作者: 青井空


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メス

今日、メスに会う。


バーツの腕の中で目覚めて、目が開き切る前のまどろんだ時間、一番初めに頭に浮かんだ言葉。そのあと、目が開くとともに、メスと会う事実が実感として、のしかかってきた。


――不安だ。


あの時の長老たちの顔が浮かぶ。メスが話せないほどメルが怒るのかも……まだメルが怖い。どうしよう。そんなことを考えていたら、身体がこわばっていたのだろう。いきなり身体が反転して、バーツが上に乗ってきたと思ったら、顔中にキスが降ってきた。


「……おはよ。ルル、愛してる」


朝一番の低くて渋い声が、腰に来る。耳と心が解けてしまいそうだ。


「バーツ、んっ、おはよぅ……」

「どうした? 何が心配だ? 大丈夫だ、問題ねぇよ。可愛い俺のメス……」


朝からすごく甘くて優しくて……キスも愛もたっぷりくれる。


「バーツ、大好き」


不安な気持ちが、ふわっと消えていく。「ああ」と私に言いながら、優しい笑顔で口にキスしてくれた。本当に大好き。……ん? 


バーツ? 

しないよ? 


ちょ……どこ触ってるの!? 

やめて! お城行くんでしょ!


「メスと俺、どっちが大事なんだ」とか「明日にすればいい」とか言って、圧しかかってこようとしたけど、鼻を叩いて強く「ダメ!」と言ったら、何とか上からどいてくれた。


バーツはぶすーとしていたけど、知らない。甘いムードは危険すぎる……。


 


着替えて外に出た瞬間、肌を刺すような冷気に思わず肩をすくめた。


――寒い。

さすがに真冬。容赦がない。


目に入った空は、今日もよく晴れていた。――そういえば、この世界に来てから、まだ一度も雨を見ていない気がする。そんなどうでもいいことを考えながら、私はバーツと手をつないで城へ向かった。


不思議な住宅街を抜けて、肉屋ばかりが並ぶ商業区を突っ切る。お肉の匂いと、店先から聞こえる笑い声。その先に、城の塔が見えてくる。


今日、メスと会うのは長老と私だけ。バーツはペアへの気遣いから扉の外で待つみたいだ。けど、扉は閉めないということになっているから、「目を離さねぇ」と、また強く誓ってくれた。


――うん。私も、絶対にそばから離れない。


 


城の入り口には、狼族の長老が待っていてくれた。


「よく来たな。もうメスは来ている。ただ……」


メスが待つ部屋へ歩みを進めるにつれ、長老の表情から、いつもの穏やかさが少しずつ剝がれ落ちていく。代わりに浮かんだのは、諦めと覚悟の顔だった。


「……まずは、部屋の外からメスを見てからだ」


その声には、私に「知る覚悟があるか」を試しているような重さがあった。何も聞いていないのに、胸の奥がきゅっと縮こまる。嫌な予感が足首からじわじわと這い上がってくるみたいで、息をひとつのみ込んだ。


メスがいる部屋の前に着いた。長老がぐっと扉の取っ手を握り、静かに横へと押し開ける。


中は、ひどく静かな部屋だった。木の椅子がひとつ。その椅子に誰かが座っている。窓から差し込む光のせいで、顔までははっきり見えない。けど、その影は、扉が開いたことにさえ気づいていないみたいに、まったく動かなかった。


ぞくり、と背筋を冷たいものが走る。その異様な空気に呑まれて、声が出ない。足も、一歩も前に出なかった。


長老が先に部屋へ入り、その人の目の前に立つ。少し遅れて中へ入った私の目に、その「人」の姿が、ようやくはっきり映った。


手足は枝のように細く、皮膚はくすんだ土のような色。頬はこけ、瞳だけが不自然に大きい。焦点の合わない目が、床の一点を見つめたまま動かない。私は、息をするのも忘れて見つめ続けた。


そこには、もう――"意思"は、見えなかった。


長老の声が、静かに落ちる。


「……メスは、気が狂う。だから話せない」


その一言は、私の中に入ることを拒まれて、足元へ落ちていった。


――狂う? なに? どういうこと?


言葉の意味は知っている。

そして今、現実として目の前に突きつけられている。


それでも……頭の中では、理解できない疑問だけが、ぐるぐると回り続けていた。


気づけば、体が勝手に動いていた。


――冷たい……氷みたいな手。


私はしゃがみ込み、メスの手を握っていた。何も返ってこない、熱も反応も。それでも手を包み込んで、何度も何度も擦る。少しでも自分の熱を分けるために。


苦痛で声を歪ませながら、長老は続けた。


「結婚し、最初の子を身ごもる頃には、メスの精神が崩れはじめる。二人目の子を産む頃には……半分以上が、発狂している。原因はわからん。ただ昔から、"実"のせいだと言われている」


実――子を授ける果実。神実。


受果でオスがメスに一口食べさせ、蜜月のあいだに残りを与え続ける。そうすると、異種間でも子を成せるという実。……でも、その"実"を口にしてから、メスは少しずつ壊れていく。言葉を交わすことさえできないほどに。


喉の奥が焼け付くように熱くなる。まったく温かくならない手を離すことができず擦り続けながら、虚ろな瞳と目を合わせて、「大丈夫……大丈夫……」と、まるで自分が縋るみたいに、同じ言葉を繰り返していた。


 


どれだけ時間が経ったのか。私の身体がぴたりと止まった。


「長老……今日は……ありがとうございました。……もう大丈夫です。だから……この部屋は寒すぎます……。メスを、温かい場所に……お願いします」


もう苦痛に歪んだ長老の顔を見るのも辛くて、メスだけを見つめたまま、そう告げた。


「ああ、わかった。……そうだな……この"部屋"は、寒すぎる」


――はい。長老、この"世界"は、なぜか、寒すぎますね。


バーツは、立ち上がろうとしない私をそっと抱き上げて、部屋の外へ出ようとする。そのとき、気づけば私は口を開いていた。


「妊娠前のメス――まだ正気を保っている時期のメスに、会わせてもらえませんか?」


――知りたい。いや、知らなきゃいけない。


何を知りたいのか自分でも全くわからない中、そんな焦りが胸の奥をぎゅうっと締めつけた。抱き上げている腕に力がこもり、バーツが小さく息を吐いた。私の不安を感じ取っているのだろう。そっと頬を擦り寄せてくる。


でも――私は返せなかった。身体の奥から湧き上がる悲しみと焦りに、心だけが底のほうへ沈んでいく。


長老はしばらく黙り込み、それから、ゆっくりとうなずく。


「……メス同士なら、会えるだろう」


そう言って、私たちを連れて部屋を出た。


 


城の部屋を一室を借り、バーツとただ抱きしめ合うだけの時間を過ごす。バーツは、ずっと私の髪を撫でていた。


――日が傾いた頃、別のメスに会えることになった。


 


部屋に入ると、猿のメスが一人、椅子の横にまっすぐ立っていた。彼女はチャチャと名乗り、パートナーは猿のメルだという。


向かい合って椅子に座ったけれど、どこか元気がない。蜜月明けとは思えなかった。チョコレート色の髪はくすんでいて、頬はややこけ、グレーの瞳の下には深い影が落ちていた。


胸がざわりとして、思わず尋ねる。


「急に呼び出してごめんなさい。巣を出て大丈夫でしたか?」


チャチャさんの肩が、小さくぴくりと震えた。心配になって、さらに言葉がこぼれる。


「なんか、顔色悪いけど……大丈夫? メルは隣の部屋にいるの?」


私を見ていたチャチャさんの視線は、ぼんやりと壁の向こうへ移動した。


「いない……。そんな心配なんて……されない」


――何を……言っているの……?


心配で離してもらえない、ならまだわかる。でも「心配されない」って――この言い方。今日だけの話じゃない気がする……ずっと前から? 胸の奥が、外気に触れたように凍りついていく。


「今は居ないのね。そうなんだ。お仕事かな……? 夜は、一緒?」


ゆっくりと、核心へ……。違うなら、そのほうがいい。そう祈りながら聞いてみた。


チャチャさんの唇が、かすかに震えながら動く。


「夜……? 一緒……? ないわ。そんなもの、一度も……」


呟きのような声が、少しずつ熱を帯びていく。


「抱かれたあとは、いつも一人で寝るの。寒くても、私を温めてくれることなんてなかった!」


噴き出した感情と涙は、もう止まらなかった。


「食事だって、同じテーブルに座るだけ! 私が手を伸ばしても、あのメルは、笑いもしない!!」


叫ぶたびに、彼女の声が震える。涙が零れ落ちていく。


――痛い。声が、心を抉っていく。


けど、次の瞬間、たったこれだけのセリフで、力尽きたみたいに、チャチャさんの顔から生気がなくなった。前のめりになっていた身体をゆっくりと背もたれに寄りかからせながら、天井を見つめ、呟くように言う。


「神果の儀をすれば、愛されると思ってた。寄り添ってくれるって。でも、全部……嘘だったのよ」


私は何度か口を開けた。でも――出てくるのは息ばかりで、音すら出すことができなかった。その様子を眺めていたチャチャさんは、背もたれから体を起こした。


「会えてよかった」


涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、何とか作った笑顔で、そう挨拶すると、背筋をまっすぐに伸ばして、ひとつ礼をしてから、扉の向こうへ消えていった。


――私は、その場から、動けなかった。


扉の外で待っていたバーツと長老が入ってきた。バーツが無言で私を抱きしめる。胸板に顔を押しつけた瞬間、張り詰めていたものがぷつんと切れて、涙が溢れた。


――この温もりがなくて、生きているメスたちがいる。


震えながら、さっきチャチャさんから聞いたことを、つっかえつっかえ二人に話す。言葉にするたびに胸が痛くて、何度も途中で声が途切れた。


聞き終えた長老は、深く目を伏せる。バーツも、奥歯を噛みしめているのが、腕越しにわかった。


「……他のメスからも、聞いた方がよさそうだな」


長老の低い声に、誰も反応できなかった。


その日は、それ以上話を進めることもできず、いったん城をあとにした。


 


後日。改めて複数のメスと会った。


一人ひとりと向き合い、同じように問いかける。


「一緒に寝ていますか?」

「寒い夜、手を握ってくれますか?」

「ごはんのとき、話をしますか?」


けど、返ってくる答えはどれも似たようなものだった。


「抱かれる時だけ近くに来る」

「終わったら、背を向けて寝る」

「話しかけても、返事は短くて……すぐに部屋を出ていく」


メルは、メスを愛さない。


温もりを与えず、心を寄せず、ただ"子を作るための相手"として扱う。メスは孤独と寒さに蝕まれ、少しずつ壊れていく。蜜月の甘さは、"実"の味とともに、最初の一口で終わっていた。


 


何人ものメスから同じ話を聞いて、ぼんやり抱いていた疑いは、静かで重い"確信"に変わった。


――メスが発狂する理由は、"愛が足りない"から。


命を生むだけなら、神実さえあればいい。でも、メスが「生き続ける」ためには、それだけじゃ足りない。温もりと、一緒に過ごす時間と、「お前が大事だ」と想ってくれる心が必要だ。それが欠けたとき、メスは壊れ、やがて――その種ごと、途絶えていく。


 


私はやっと形になったその結論に、全身が冷たくなるのを感じた。

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