日常の温もり
バーツの腕の中に戻ってから、たぶん三日は経っていると思う。
城のどこかの一室。ベッドとトイレとお風呂しかない部屋。そこにずっと籠っていた。今は、二人でベッドに寝そべりながら、ぼうっとしているだけの時間だ。
その時、ふと、強烈に「帰りたい」と思った。
「ねぇ。そろそろ家に帰りたい」
——帰って、あの場所で、呼吸を整えたい。
「わかった」
優しく私の頭にキスをすると、ベッドから下りたバーツはすぐに支度を始めた。
「待って。せめて長老に帰るって伝えたい」
起き上がってバーツに伝えると、彼はうなずいた後、私をぐるぐるとマントで包み込んだ。そして扉の外に出ると兵士を捕まえて「帰る」とだけ言い残し、そのまま帰宅した。
——まだ、誰にも私を見せたくないのかな。
ベッドに乗せられて、簀巻きからようやく解放された……と言っても、バーツの膝の上だけど。
「バーツ、ただいま」
「あぁ……ルルが、俺の巣にいる。もう出さねぇ。絶対、出さねぇ」
私を抱きしめる腕も、声も、全部震えていた。正気に戻っても、彼の中にできてしまった深い傷は、すぐには癒えない。それが辛い。
「バーツ。私の国ではね、家に帰ったときは『ただいま』って言うの。家で待っていた人は『おかえり』って返す。自分の家に帰ったときだけ、そう言うの」
「……おかえり、ルル。確かに……ここは、俺たちの巣だな」
少し安心したように笑って、彼は何度も「おかえり」を繰り返した。
それからまた、ずっと一緒だった。
掃除をするときも、バーツの背中にくっついて動く。食べるのも一緒。膝の上で食べさせてもらう。それだけで安心できた。本当は一人で座るぐらいになりたいけど、今はこの温もりがないとまだ怖い。バーツも同じだと思う。
買い出しのときまで一緒だった。いつもは閉じ込めてバーツ一人で行くのに、今日は私をマントにくるんで連れ出している。私と離れるのがまだ不安だったみたいだ。
夜になると、お風呂の時間。さすがにお風呂は一人で入りたいと伝えると、彼は必死に首を振った。
「ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ。もう離れねぇ」
狂ったようにダメを連発するバーツ。家の中は大丈夫だとは思うものの、どこかしら触れていないと不安になるのは私も同じだ。
「でも、恥ずかしいし……」
正気に戻った今はもう、すごく恥ずかしい。顔が赤くなっていくのがわかる。
「恥ずかしくはねぇだろ!」
バーツの真顔が、目の前に迫る。顔中に「心配」と書いてあった。
——私が、バーツから離れるのを狂ったように不安がったから……。そうだよね。恥ずかしさより、私たちの心のほうが大事だよね。
まだ乗り越えきれていない傷が見えた気がした——けど、そのあとのバーツの言葉に、恥ずかしさに変わって殺意が生まれてくるのを感じた。
「俺は ●●も見た。 〇〇も触ってる。何なら、中まで舐めてるからな。大丈夫だ。ルルの身体で知らないところはねぇよ。安心しろ」
そんな恥ずかしいことを、真顔で、正面から言ってくるバーツの顔面を、思いっきりグーで殴りたくなった。
——ちょっと! 本当に、ありえないんだけど!
「もう………口ききたくない!」
バーツがこの世の終わりとばかりに、泣き叫び、縋りついたのは、この後すぐ。
——知らない!
気づけば、もう七日ほど経っていた。城で過ごした時間を合わせたら、十日くらいになるのかな。ようやく、胸の奥の震えが落ち着いてきたように感じる。
「バーツ、みんな……どうしてるかな」
ふと呟いた私の声に、バーツは少し考え込む。
「……あぁ、俺も知らねぇんだ。記憶が途切れててな。ルルと城にこもる前のことは、断片的にしか覚えてねぇ」
「そっか。きっと、みんな心配してるよね」
「……そうだな。……よし、酒場に行くか」
「えっ? いいの?」
バーツが私を見せようとするなんて……彼が、本当の意味で戻ってきているのを感じた。
「しゃぁねぇ。奴らの毛が抜ける前に連れてってやらねぇとな。かわいそうだろ」
晴れやかな笑顔に……もう大丈夫だと、心から安心した。
今日は簀巻きじゃない。ちゃんとコートを着て、並んで歩く。見慣れたようで、まだ一人では歩けない隙間道。でももう、道なんて覚えなくてもいいやって、ちょっと思った。
絶対に隣にバーツがいてくれる——この人がいる限り、私は迷わない。
酒場に入った瞬間、空気が一変した。
「ル、ルルちゃん!? ルルちゃんやないけっ! バーツ、遅い! 連れてくるの遅すぎや!」
ウーさんが叫びながら突進してきて、抱きしめようとしたけど、
ドゴッ!
——当然のように、バーツの蹴りが炸裂していた。
「誰が触っていいって言った!」
バーツが、私の前に仁王立ちしていた。
破壊音に、皆が奥から飛び出してくる。
「「「「「ルルちゃん!!」」」」」
酒場の空気が一気に明るくなる。懐かしい声。懐かしい笑顔。それだけで、涙が出そうだった。
「守れなくて、すみませんでしたね——」
バキィッ!!
ブルーさんが頭を撫でようとしてきた瞬間、……壁に飛んでいった。
「ブルーが悪い。触るなんて馬鹿だろ。ルルちゃん、怖かっただろ!? 俺の毛皮撫で——」
グヘッ!!
獣姿になろうとして上着を脱いでいたサムさんも、ブルーさんと同じ軌道を描いて吹っ飛ぶ。
「俺、俺ね! 本当にごめん! ルルちゃん! 蜂蜜食べると元気出るんだよ! はい! あ〜——」
ドカッ!!
ドンダさん、さすがに食べさせるのはまずいと思うよ……。
「不甲斐ない。二度と繰り返さないと誓う。俺はお前を絶対に守——」
ゴンッ!!
ジャンさんは跪いた姿勢のまま、壁に直行した。
バーツの足が上がるたびに音が響く。見ているこっちが冷や汗をかくほどだ。
「……バーツ。俺は、触らないし、毛並みも見せないし、給餌もしないし、オスの誓いもしない。だから、ちょっとだけ足、下ろしてくれないか……?」
リックさんが引きつった笑顔で言うと、ようやくバーツは息を吐いた。
リックさんは私に向き直り、真剣な表情で言った。
「今回、メルを含めて城の情報をつかむのが遅れたのが問題だった。だから、俺、長老の補佐に入ることにした。……これで、次は対処できると思う」
——すごい。
びっくりした。リックさんの頭の良さには何度も驚いてきたけど、今回のことは別格だ。
本当は、攫われた私が悪い。ただし、これは私の常識だ。
この世界の常識は「メスを守れないオスが悪い」。バーツに念入りにお願いされたのに守り切れなかった。結果、リックさんたちに責任がある、となるのはわかる。けど、リックさんは、その先の、今回の自分の行動について「原因と対策」を練っている。この世界で、こんな人を見たことがない。
驚いたけど「これでいいんだよね?」と言いたげな顔でリックさんが私を見ているから、何とか返事を返してみる。
「うん。情報って、私の世界では"戦いを制する力"って言われてる。だから、リックさんの判断は、すごいと思う」
そう言うと、リックさんの顔にようやく笑みが戻った。
「今回は力不足でごめんな」
私は首を振って、少しだけ笑った。
「私も……簡単に攫われてごめんなさい。もっと、ちゃんと気をつけるね。これからもよろしくお願いします」
皆が笑顔になり、静かに席に戻っていく。グラスがぶつかる音。笑い声。私の前には、桃ジュース。当たり前の日常。それが、なにより大切で、本当に温かい。
私はグラスを両手で包んで、そっと微笑んだ。
——日常って、本当に、大事。
歪んだ視界。溝溜めみてぇな臭い。
考えようにも、思考がまとまらねぇ。頭ん中にあるのは——「ルル」。それだけだ。
身体も脳みそも心も……まるで外から"歪み"を喰らったみてぇだった。引き裂かれ、圧縮され、汚物をぶち込まれ、内臓を抜かれ、脳みそを掻き混ぜられ、心が物みてぇに裂かれていく。
イテェ。イテェ。イテェ。終わりのねぇ痛みだ。
表現するならこれで正しい。けどな、その時の俺には、もう「考える」なんて機能は残っちゃいなかった。脳が拒絶して、心も拒絶して、真っ白になった何かの中で、ただ「イテェ」だけを感じてた。
……「ルル」。
その名前が浮かぶと、不思議と"いい匂い"が鼻の奥に広がる。溝の臭いが少しだけ遠のく。けどよ、次の瞬間また『歪み』が襲ってくる。俺はまた引き裂かれ、圧縮されていく。身体の痛みなんざ、どうでもよかった。だが——脳が、きつかった。それ以上に……心が、死んでいった。
……これが、今の俺が思い出せる、あの日以降の出来事だ。
次の記憶は、温もりと匂いだった。強烈で、懐かしい、やさしい匂い。
この匂いを、探してた。この温もりが、欲しかった。しゃべることもままならねぇ身体を無理やり動かして、俺はその名を呼んだ。
「……ルル……」
そうだ。この匂いは、俺の"メス"の匂い。俺の"ツガイ"の温もりだ。
俺のルル。俺のルル。俺のルル。
匂いと温もりに包まれて、やっと俺は——"俺"に戻れた。




